獣狩り 九 ~ 予言
翌朝になってから、密林の中にあったアデーラの屍体は村人たちによって片付けられた。身体の部位が持ち去られた形跡はなく、純粋に殺すことが目的であったかのようだった。本来であれば屍体を扱うのが本業であるはずのベリャーエフの双子はやって来なかった。屍体がバラバラに引き裂かれており、屍人形に作り変えられないのが理由のようだった。
「人間をあんな風に八つ裂きにできる獣だ。六メートルはくだらない大きさだろう」
村の広場に集まった先生、僕、卯月の前で、バルトリーニ氏は爪を噛んだ。
「しかし、それだけの獣が隠れられるような場所がありますか?」
「それこそが問題だ。いくら獣を探しても見つからない」
先生はバルトリーニ氏の言葉に眉をひそめた。先生が獣の存在を疑っていることは明白だった。
話し合っているうちに村人たちが僕たちの下へ寄ってきた。老若男女の誰も彼も、村人の顔は険しいものだった。
「獣を退治できるのは一体いつなんだ。なぁ、先生!」
「もしも獣の呪いがかかったなんてことになったら、すぐ村から逃げ出さないと……あんな死に方したくない!」
村人たちがバルトリーニ氏に詰め寄る。
「お、落ち着いてくれ……獣は必ず捕まえてみせる」
だが、バルトリーニ氏の言葉は興奮した村人たちには逆効果のようだった。
「毎回そう言っているじゃないか!」
「先生、その約束は聞き飽きたぞ!」
「そ、それは……まだ分からないことはあるが、獣を捕まえることだけは任せてほしい。今は外からの協力だってあるんだ!」
バルトリーニ氏は意地になっているようだったが、その言葉に納得している村人はいない。
「私たちが頼れるのはグラウバーさんしかいないのか……」
バルトリーニ氏に必死の形相で訴えた後、村人たちは嘆きながら僕たちの下から離れていった。バルトリーニ氏は完全に村人の信用を失ってしまったようだ。バルトリーニ氏は大きく肩を落として黙ってしまった。これまでの惨事も今回の悲劇も、人の手でどうにかすることはできなかった。やはり、獣は神に等しい存在なのだろうか。
「なんとしても獣を捕まえなければ……。これほどの獣を捕まえる機会は他のどこの地にも無い」
バルトリーニ氏は博物学者としての名誉を、獣に賭けているようだった。
「獣ではなく誰かの仕業でしょうな」
先生がぼそりと呟くと、バルトリーニ氏は憮然とした表情を曇らせた。
「ベリャーエフの双子が怪しい。アデーラという修道女を殺してから、我々を密林に誘い込んだのだと考えるのが自然です」
「それは確かに筋は通っているが……。動機が無い。ベリャーエフには動機が無いだろう」
「グラウバー女史とグルになって、ローランの村を精神的に支配しようという狙いがあるのかも知れませんな。博物学者や他の錬金術師にとって手に負えない獣がいるとなれば、彼らにとって都合が良い」
「そんな馬鹿な……」
「あんな集会を開いている連中です。村人やシャンティ族の信仰を蔑ろにすることなど平気でしょう」
バルトリーニ氏は溜息をついた。先生の想像力に呆れているのか、それともグラウバー女史とベリャーエフの双子を疑う気になったのかは分からない。しかし、それでも先生の言葉によって、バルトリーニ氏の獣を信じる心も、少し揺らいだのかも知れなかった。
「もし?」
僕たちが議論していて気付かぬうちに、すぐ傍らにベリャーエフの双子が現れた。
「ごきげんよう。ちょうど君たちのことを話していたところだ」
「それでは、きっとグラウバー様のこともお話になっていたのでは?」
ベリャーエフの片割れが小さく笑みを浮かべた。どうやら僕たちの考えはお見通しのようだった。双子の態度を見ていると先手を打たれているような気がして、あまり気分の良いものではなかった。
「ワーズワース様をお呼びするようにと。グラウバー様からお言伝がありました」
「……フムン」
先生は少し思案する素振りを見せたが、双子の要請に応じた。
「軽く挨拶しておきたいし、ご招待に与るとしようか」
「僕たちも行きます」
「私も行こう」
僕とバルトリーニ氏も後に続いて双子に言う。
「よろしいでしょう。さあ、参りましょう」
僕たちは昨日と同じように双子に先導され、グラウバー女史の家へと向かった。水力のために整備された川沿いの坂道を登っていく。道の先を見ると、木立をよりも高い尖塔が飛び出しているのが見えた。どうやら思ったよりもグラウバー女史の家は大きいようだ。やがて小道に入り、密林に隠れたグラウバー女史の家に着いた。それは木や日干し煉瓦で造られた素朴な家々と異なり、石造りの立派な館だった。
「このような館では暗黒大陸の気候に合わないだろうに。痩せ我慢でもしているのかね?」
先生の皮肉は双子に通用しないようだった。まるで下女のように館の扉を開き、僕たちを招き入れる。館に入ると、すぐに絵画や織物などの室内装飾が目に入った。貴族の館にも劣らない豪奢な雰囲気がある。しかし一方で、館の中は錬金術で用いる薬品のものなのか、薄っすらと鼻をつく匂いが漂っていた。
「ようこそ。博物学者の皆さん」
何人もの現地の奴隷を控えさせて、グラウバー女史が広間に現れた。昨日の鬼気迫る態度から一変して、客人を迎えるに相応しい表情を浮かべている。
「昨晩のご無礼をお許しください。獣の呪いが、私にあのようにさせるのです」
「いえ、こちらこそ失礼いたしました。呪いとは実に難儀ですね」
先生もグラウバー女史の言葉に応じて、態度を軟化させた。しかし、油断はできない。この後に何が待ち受けているか、分かったものではなかった。
「どうぞこちらへ。折角ですから、まずは昼食を召し上がってください」
グラウバー女史は食堂へと僕たちを案内した。そこにはやはり現地の料理が用意されていた。酒は港から持ってきたと思しきワインの瓶が置かれていたが、それ以外はすべて既に見飽きたバナナやら米やら肉やらだ。先生と卯月は平気のようだが僕は思わず食欲が失せていき、困った顔を隠すのに神経を使わなければならなくなった。
「こちらでの食事には慣れましたか?」
僕の気持ちを知ってか知らずか、グラウバー女史が質問する。この食事に慣れる気配は全くなかった。
「長い船旅と慣れない気候でしたから、私の助手はあまり食が進まないようでして」
食卓に着いた僕の様子を察したのか、先生は笑顔でグラウバー女史に答えた。そして、懐から一つの瓶を取り出した。
「まさか、毒でも入っていると疑っていらっしゃるのかしら?」
一瞬、グラウバー女史の目が鋭くなった。それを見逃さなかったようで、先生は笑いながら瓶を掲げた。
「これはただのマスタードですよ。昨日、時間があったので私が作ったものです」
先生はそう言ってマスタードの瓶を僕の前に置いた。
「故郷の味が恋しいはずだろう。まあ、帝都で通った食堂の味には劣るかも知れないがね。少しでも食べて力をつけねば」
「先生……あ、ありがとうございます」
まさかマスタードの種子まで持ち込んでいたとは。先生はやはり準備に抜かりが無い。海外からもたらされるエキゾチックな香辛料に比べれば、マスタードなんてありふれたものだ。だからこそ、僕の舌にはマスタードが必要だった。料理の味をマスタードで誤魔化しつつ、僕はこれまでよりも多めに食事を取った。
「そろそろ本題に入りましょうか」
食事が殆ど片付くと、グラウバー女史は厳かに言った。何が始まると言うのだろうか。
「私には未来を見通す力があります。これも呪いの影響です。この運命を受け入れて、私は村で起こる悲劇を伝えているのです。どうかご理解ください」
「予言ということですか」
先生は笑みを崩し、訝しげに尋ねた。
「その通りです。これから起こる出来事が頭に浮かんでくるのです」
「なるほど。しかし、獣の呪いしか予言できないとは仰るまい。そうですよね?」
先生が意地悪く問うと、グラウバー女史は笑みを浮かべたままグラスを揺らした。
「ならば、試してみますか?」
グラウバー女史が指を鳴らすと、背後に立っていたベリャーエフの片割れが彼女に何かを手渡した。カードの束だ。
「タロットです。この中から一枚、カードを引いてください。私には貴方の引くカードが既に分かっています」
「ほう。面白い」
グラウバー女史が合図すると、ベリャーエフの片割れがデッキを二つに分けて混ぜ合わせ、先生に裏向きのまま差し出した。先生は束を確認しながら、一枚のカードを引いた。先生は僕たちに見えるようにカードを開いて確認すると、束に戻した。
「戻した位置で選んだカードが分かってしまわないように、もう一度カードを混ぜましょう」
先生がカードを戻すと、ベリャーエフの片割れは同様にしてカードを混ぜた。この状態ではカードに一度も触れていないグラウバー女史がカードに細工することは不可能に思える。ベリャーエフの双子がグラウバー女史に何か合図している様子もない。
グラウバー女史は束を受け取ると、一枚一枚、慎重な手付きでカードを確かめていく。その様子は占星術師にも似ていた。
「これです」
グラウバー女史が『死神』のカードをテーブルの上に置いた。
「なんと……!」
バルトリーニ氏が息を呑んだ。確かに先生が選んだカードだった。
「もう一度、お願いできますか?」
先生の要求にも慌てず、グラウバー女史は再びカードをベリャーエフの片割れに手渡した。
「カミル君、今度は君が引き給え。全部裏向きにしたままにしよう。何を選んだか、君だけが確認するんだ」
僕は怖ず怖ずと裏向きのカードを引いた。カードには『塔』が描かれている。またしても不吉なカードだ。二度目もグラウバー女史はカードに触れなかった。それでも、彼女は選ばれたカード――『塔』を見事に当てた。
「この程度は児戯のようなものです。運命は予め決まっています。そして、人の運命もまた変えることはできない。それが呪いなのです」
「……」
バルトリーニ氏も先生も頭を抱えている。博物学者として、予言が真実かどうか悩みどころのようだ。その様子を見て、グラウバー女史は愉しんでいるかのように笑顔を湛えている。
「今後も獣は村の者を襲うでしょう。悲劇はまだ終わっていません。私にはそれが分かる」
急に笑みを消すと、グラウバー女史はテーブルに『運命の車輪』のカードを置いた。
「違う。獣がいるかどうかが問題だ」
先生はカードを逆転させてグラウバー女史に突き返した。
「皆さんがどれだけ努力したところで、すべて徒労に終わりますよ」
「たとえ徒労と言われようとも、運命を捻じ曲げてみせましょう」
「……今夜も集会を開きます。皆さんも運命をその眼で御覧ください」
グラウバー女史の言葉に対して、先生は席を立った。僕たちは慌ただしくグラウバー女史の館を後にした。




