獣狩り 四 ~ 因縁
その後、僕たちはヴァルド市で旅支度を進めた。市場で季節外れの薄着のシャツやズボンの古着を買い集め、暗黒大陸での生活に備える。暗黒大陸に着く頃には現地は雨季であり、不快な熱気と湿気が土地を覆い尽くしているはずだった。先生は暑さに耐えるくらいなら死んだほうがマシだと言いながら、勝手に教会堂の地下から凍血石を拝借していた。
「暗黒大陸はいいぞ」
先生は修道院の広間で少女の顔に笑みを湛えながら言った。
「帝都の大聖堂に収められている象牙の浮彫も、元はと言えば暗黒大陸の象牙から彫られたものだ」
「そうなんですか」
僕は荷物をまとめる手を止めて先生の言葉に耳を傾けた。
「象牙も黄金も奴隷も米もバナナもタロイモも、すべて暗黒大陸の沿岸部で取引される。多くの富が暗黒大陸の沿岸を通じて我々の下へと辿り着く」
先生は小さな貝殻を取り出した。
「奴隷海岸では小さな宝貝で、あらゆるものが買える。まぁ、それなりの量が必要だがな」
「先生は暗黒大陸に行ったことがあるんですか」
「アルビオンから暗黒大陸、そして暗黒大陸から新大陸に渡った。何ヶ月も船倉暮らしだったがね。水も食糧も大半が腐りかけだった。特に奴隷船とはそういうものだ」
先生は少し顔をしかめた。何事にも動じないように思える先生にとっても耐え難い生活が、船上にはあるらしい。せめて航海くらいは夢を見させて欲しかったが、これからの船旅が不快極まりないものだという可能性が大きくなったことで、僕は気落ちした。
「エルミールを探すのに手間取れば、我々は戻ってこれないかも知れない。その屈辱に比べれば、船上生活など大した問題ではないだろう」
「そうかも知れませんが……」
僕の浮かない表情を察して、すぐに先生がフォローを入れる。元々、旅行客でもない身分で奴隷船に乗り込まねばならないのだ。恐らく水夫とともに船仕事を手伝わされるだろうとは覚悟していた。しかし、そう思ってはいても少しは大海原に期待していたところはあったのだ。
「ユーリヤがまともな航路の船舶を準備してくれることを祈ろう」
そう呟いて、先生は勝手に拝借した凍血石を自分のチェストに詰め込んだ。
「準備できたよ」
僕の背中から卯月の声が聞こえた。その小さな背には薬を収めた木製の薬箱が乗っている。船上で腹痛や風邪によって倒れるようなことになれば、また卯月の薬の世話になることになるだろう。僕は他でもない卯月が一緒であることだけが唯一の希望であるように思えた。
心残りだったのはアルデラ伯爵の事である。領主であり旧友であるアルデラ伯爵にも状況を伝えずに去るのは心が痛んだがやむを得なかった。ここで伯爵と連絡を取れば、すぐにコルヴィナの王宮まで僕たちの行動が知られる可能性がある。危険を冒すことは避けねばならなかった。
卯月は伯爵に向けた手紙をオットボーニ司教に託していた。暗黒大陸への旅が今生の別れになる可能性も十分にあった。うっかり赤痢にでもかかって、あの世に直行する恐れも十分にある。僕も卯月を見習って伯爵への手紙を書き残した。
「先生は誰かに手紙を出さないんですか?」
「誰に?」
「いや……ルークラフト卿とか」
「教授なら私がどうなったか、既にご存知だろう」
先生は手紙を残すまでも無いというように鼻で笑い、荷物のリストに目を落とした。今回のジェピュエル総督府での調査が危険を伴うものであることはルークラフト卿も確かに理解しているだろう。しかし、それが引き金となって僕たちが暗黒大陸まで遁走するとは、果たして予想しているだろうか。
「新大陸の調査に出向いた時は、知らせが二ヶ月も三ヶ月も途絶えることはザラだった。今更、私との連絡について心配する者はいない。それよりもしっかり準備したまえ。我々が向かう先は幻想に浸るような場所じゃない」
先生は笑みを浮かべたまま、道具の詰まったチェストの蓋を閉じた。公式の調査でないとは言え、何かを調べるためには入念な準備を怠らないというのが先生の弁だった。僕と卯月もそれに従った。
旅支度ができてからも近所の目を警戒して修道院で生活している振りをしたまま、僕たちは隠れて南西に向かう馬車に乗った。修道院の空になった部屋では、僕たちの代わりにユーリヤが仕上げた屍人形の影がうろつくことになった。
帝都まで向かう道程の倍ほどの距離を、駆け足で半月かけて共和国の港まで向かわなければならなかった。まずは異教徒の領地へと陸路と水路とを使って進む。三日がかりでヴァルド市の西に位置する王都に入ってからは、帝都と繋がるダヌビス河を川船でひたすら南下していった。河はところどころ凍結しているものの、石材や穀物を運ぶために水運が活発に行われている。越冬のため南下してきた河魚を捕る漁船も数多く行き来していた。
さらに三日かけて河の流れに沿って、僕たちは異教徒の領内へと流れ着いた。いよいよコルヴィナ王冠諸邦には二度と戻ってこられないかも知れない。それでも故郷を懐かしみ、別れを惜しんでいる暇は無かった。川鱒漁の漁船から降り、僕たちは司教が準備してくれた四輪馬車に乗り込んだ。
双頭の鷲をあしらったオットボーニ家の紋章を掲げた四輪馬車は迷いなく共和国の海外領土に向かって走り続けた。異教徒の領内をどこに進むにも、四輪馬車は大した検問を受けず走り抜けることができた。
「オットボーニ家の名前は伊達じゃないな」
先生が感心するように言った。
「異教徒はあまり検問に興味がないのかも知れませんね」
「共和国の商人には異教徒の領地で商売するための特権があるからな。よほど目を付けられなければ、移動には困らせられないのだろう」
沿岸部に横たわる共和国の領内まではしばらく陸路だった。共和国の商人の持つ特権が如何程かは知らなかったが、僕たちの移動を妨げる者はいなかった。どちらかと言えば、かつて教皇まで輩出した家柄故、その紋章が通行証代わりになっているように思えた。
代わり映えのしない山間の田畑ばかりが続く冬の農道を、四輪馬車はただひたすら駆けて行った。道に残る雪だけが僕たちの行動を制限した。
「司教殿はお人好しだ」
先生が雪の積もった小川を眺めながら言った。
「我々を匿った事が知られれば、共和国でも面倒な身辺調査が待っているかも知れない」
「だからこそ感謝しなければならないんじゃないですか」
「その通り。司教殿には全く助けられてばかりだ。今度はもっと面白いものを土産にしなければ」
最初からコルヴィナに帰ってくる体で先生が言う。
「何か当てでもあるの?」
卯月が先生に尋ねた。
「エルミールは好事家たちが好む奇妙な剥製を多く創っていた。現実には存在しない獣、鳥、魚。その材料が新大陸や暗黒大陸にあるとすれば、実に興味深いだろう。奴の工房を探し出せれば幸運だ」
エルミールとの確執は不明だが、たとえ非現実生物の剥製でも先生が興味深いと断言するだけの作品をエルミールが生み出していることは確かのようだった。実際のところ、エルミールについて知っているのは先生だけだ。どのように調査を進めるのかはすべて先生の腕次第だった。
「エルミールはどんな人物なんですか?」
「さぁ?」
「え……」
「さぁって……先生も知らないの?」
卯月が呆れ顔で先生に聞き返した。
「問題がはっきりしていれば、算法修道会は答えに辿り着いていただろう。問題を定義するのも、我々の仕事だ」
ユーリヤたち算法修道会ですら手を焼くエルミールとはどんな人物なのか。そもそも人物なのかすらも分からなかった。贋作といえども作品は作品だ。それを創り出す工房自体が、エルミールという共通の銘を使っている可能性もある。調べてみた結果、エルミールと呼ばれる人が一人だけとも限らないのだ。
「エルミールを探そうにも、エルミールがどういった人物か調べるのが先というわけですか……」
「そうとも。だが、私は算法修道会のおかげで、確実にエルミールに近づけたと考えている」
四輪馬車に揺られているうちに僕の疑問の輪郭はぼやけていってしまった。エルミールを探す前にエルミール自体を知るという前提が必要になるとは。安請け合いにもほどがあると思いながらも、僕たちの旅程からエルミールが消える事はなかった。しかし、得体の知れない贋作師を本当に探し出すことができるのか。それが僕たちの双肩にかかっているという実感は、エルミールの存在同様に薄かった。
共和国の海外領土に入ると、替え馬を取ってさらに四輪馬車の速度は増した。沿岸部の平野に出て、馬車から外の眺めにも家屋が目立つようになってくる。そろそろ港に着くだろう。ここまでの道程で誰かに僕たちの逃亡が悟られている様子は無かった。
オットボーニ家の商船を指揮する船長は人当たりの良い人物で、僕たちの突然の乗船を快く引き受けてくれた。彼のジーベック船は三本帆柱の一般的な商船で、船体からはみ出すほどの横帆と縦帆が縦横無尽に張り巡らされていた。浅瀬に漕ぎ出すため喫水線は低く、舷側には多数の櫂が準備されている、珍しい船型に見えた。
「お嬢様のご友人とお伺いしました。我らの艦にようこそ」
「ありがとう、船長」
船長の握手を先生が握り返した。
「お嬢様って……?」
「失礼、司教殿のことです」
船長がにこやかに答えた。
「これからイスパニアでお仕事だとか」
「えぇ。ワインの買い付けに」
「素晴らしい取引になると良いですね」
先生は偽名を使って、上手く話を誤魔化していた。アルビオンの貿易会社、ダービー商会に所属するワイン商人と身分を偽って僕たちは商船に乗り込んだ。ここまでの道程はすべて順調だった。ジーベック船も遠浅の沿岸を上手く櫂漕ぎで切り抜けて、あっという間に内海へと躍り出た。順風満帆とはまさにこのような旅のことを言うのだろう。予定を前倒ししてジーベック船は帆走した。
イスパニアまでの航路では何も問題は起こらなかった。海賊に襲われることもなく、嵐に見舞われることもなく、凪が訪れることもなく、ただ平和に時間が過ぎていった。それはある種の、嵐の前の静けさにも思えた。イスパニアに到着後は、算法修道会が準備した奴隷船に乗り換えなければならなかった。
快適なジーベックの旅は一週間ほどで終わった。イスパニアの港では同じく商人に化けた算法修道会の会員が、お馴染みとなった黒い装丁の福音書を持って待ち構えていた。




