吸血鬼狩り 十二 ~ 偽りと真実
一刻の猶予も無かった。僕はクルジュスコールの外へと通じる階段を登り、山の麓へと繋がる昇降機に乗り込んだ。あまりに急いでいたため、途中で石壁の残骸に躓いてペスト医師に発見されそうになったこともあったが、なんとか夜闇に紛れることで、誰にも捕まる事無くクルジュヴァール市へと戻ることができた。後はイネッサを探し出し、洞窟修道院へと向かうだけだ。
僕はこれまでイネッサと共に使ってきた隠れ家を目指した。市内は騒然としており、夜間にも関わらず夜警たちが松明を持って、煌々と通りの家々を照らしながら練り歩いていた。夜警の中にはペスト医師や軍人も混じっており、単なる夜警ではないことは明らかだった。彼らは『皇帝派』の人々を尋ね回って、誰でも構わずに捕縛するように指示されているようだった。
――クルジュスコールの冒涜的な殺戮者たちめ! 呪われろ!
夜警に連行されながら、彼らを呪う言葉を叫ぶ人々を見ても、僕は夜警たちの死角になるような影に隠れ続けることしかできなかった。たとえ無実であっても『皇帝派』というだけで拘束される。それは間違いなく横暴な施政だったが、彼らに抗える者はいない。それに、今の僕はまずイネッサを探さなければならない。
夜警に見つからないように慎重に移動して、ようやく彼女の隠れ家に着いた時には、喉が乾き切っていた。息をするのも痛みを伴うほどだった。
「……イネッサ! どこにいるんだ!」
僕は声を枯らしたままイネッサを呼んだ。耳を澄ませて様子を窺っていると、誰かが啜り泣くような声が耳に入ってきた。僕はすぐ手元にあった帽子掛けを手に取り、誰が出てきても打ち払えるように上段に構えながら部屋の奥へと進んだ。
「……」
「イネッサ?」
その時、僕の後ろで木製の洋服ダンスの扉が開き、中から一人の男が現れた。僕が驚いて振り返りながら帽子掛けを構えると、男はそのまま顔を隠すように両手で頭を抱えて洋服ダンスの前に突っ伏した。
「助けてくれ……知らなかった……知らなかったんだ……」
その声はフィッシャー・ヤーコブ男爵のものだった。
「フィッシャー卿……どうしたんですか?」
「違うんだ! 私は何も……後生だから、見逃してくれ!」
男爵は涙で濡れた顔を片手で覆い隠しながら、もう片方の手を僕の肩を掴んだ。あまりにも狼狽えた男爵に対して、僕はなんと言葉を掛けて良いか分からなくなりそうだった。しかし、男爵がここにいるということは、イネッサも一緒にいた可能性が高い。なんとかしてイネッサの居場所を聞き出さなければ。
「フィッシャー卿。落ち着いてください。僕はただ、この部屋に針子を探しに来ただけなんです」
「お願いだ! 私は何も知らない……針子は……正体を隠していたんだ!」
「どうか落ち着いて。何があったんですか?」
「悍ましい……得体の知れない……き、吸血鬼だ。それが、彼女を……」
僕はそこまで聞くと、急いで寝室へと向かった。どうやら、イネッサの情報は男爵から得ていたものもあったようだ。男爵のほうはそれとは知らず、イネッサに機密情報を漏らしてしまっていたらしい。しかし、今夜は招かれざる客までもが現れたようだった。
「イネッサ?」
寝室に人の気配は無かった。僕は手の汗を拭ってから、再び帽子掛けを構えて寝室の扉を開いた。
僕は既に現実感を失って、正常に物を見られなくなっているようだった。部屋の中には、クルジュスコールの医学部で嗅いだ芳香と似た臭いが漂っていた。顎を伝って汗の玉が床に落ちる。血に染まった寝室のラグマットには白い肌の人形、いや――人が、倒れていた。
「イネッサ!」
僕は彼女に駆け寄り、何度も身体を揺すった。美しい黒髪は血が滲んで艶が無くなり、酷くくすんで見えた。僕は彼女の脈を取ろうとしたが、彼女が息絶えていることは明らかだった。蒼くなった彼女の首筋に付けられた四つの穴が、吸血鬼の仕業であることを示している。僕は急激に吐き気を催し、彼女の亡骸から顔を背けた。
手遅れだった。
何もかも。
すべて。
あの時、橋で迷わなければこんなことにはならなかったかも知れない。しかし、すべては遅きに失っした。僕は自分の心に大きな風穴が開いたように思えてきた。確かに、彼女は身の危険を感じていた。彼女の客が、危険を招く恐れも認識していたに違いなかった。そうでなければ、僕に逃げ隠れるように忠告するはずがない。
僕は何とか吐き気を堪えて、彼女の亡骸と向き合った。きっと、イネッサは何か証拠を掴んだのだ。そうでなければ殺されるほどの事態にはならないはずだ。いや、今はそのように考えたいだけなのかも知れない。しかし、そう考えなければ、彼女の死に意味が無くなってしまうではないか。一体どうして彼女はこんな姿にならねばならなかったのか。
僕はイネッサの部屋を調べることにした。ベッドの下から燭台の裏まで、いたる所を漏れなく調べた。しかし、どこにも吸血鬼に行き着くような証拠は無かった。落ち着いてきた男爵にも声を掛けたが、有益な情報は無かった。イネッサと一緒に過ごしていた時に玄関の扉がノックされたため、イネッサに命じられるまま、男爵は洋服ダンスの中に隠れて震えていたという。
しかし、部屋に入ってきたのは『皇帝派』を捕らえに来た軍人や、検疫を行うペスト医師ではなかった。男爵は扉の間からこっそりと室内を覗き込んだが、一瞬だけ黒衣の何者かが部屋を出ていくのを見ただけだった。その正体が吸血鬼である以外には考えられないとだけ言うと、男爵は再び俯いてしまった。
僕の頭も、受け入れ難い事実を前に完全に停止してしまった。何も考えられなかった。しかし、イネッサの遺体をそのままにしておくことはできなかった。僕は再度、奇妙な芳香のする寝室に入り、イネッサの顔を見た。透き通るような肌は青褪めて、もう二度と微笑みを返してくれない。
僕は彼女が酔った時と同じように、彼女の腕を肩に回して持ち上げた。以前と変わらない、いや、それ以上の重みが肩にかかった。以前、軍医のミュラー曹長が検死の際に言っていたように、吸血鬼の犠牲者は大量の血を抜かれて死んだわけではないのだろう。では、一体どうやって彼女は殺されたのだろうか。
首筋に小さな牙の跡はあるが、他に外傷の跡は無かった。しかし彼女の指先と首の周りには、空気を求めて首を掻いたと思われる跡が残っていた。ということは、彼女は外に出ることなく、ここで呼吸困難に陥って死んだのではないだろうか。彼女は枕や寝具を押し当てられて呼吸困難になったのかも知れない。しかし、ベッドはきちんと整ったままになっており、争ったり暴れたりした形跡は無かった。
僕がベッドの上に彼女を寝かせようとした時、彼女の豊かな胸の間から何かが零れ落ち、床に落ちた。僕は彼女をそっとベッドに寝かせると、落ちた物を拾い上げた。それは指ぬきのような、ごく小さな道具だった。用途は分からないが、少なくとも彼女が身に着けている物でないことは明らかだ。フィッシャー卿にも道具を見せたが、返答は見当が付かないという一言だけだった。
この見知らぬ道具について答えを知っていそうな人物は、最早、このクルジュヴァール市に一人しかいない。今も検疫のせいで市内に留まっている、連合王国のオークション会社の鑑定士。彼の卓越した鑑定眼だけが、謎を解く鍵に思われた。
***
「それで? 私の鑑定が必要だと?」
ダレス卿は連合王国専用の隊商宿で、僕の呼び出しに応じてくれた。しかし、芸術的な価値の無い物を鑑定させられると聞いてから、ダレス卿の表情は渋いままだ。それでも、彼にとっては他人の死を招いた面倒な道具なのだから、僕の話を聞いてくれるだけでも儲け物だった。
「貴方ならきっと、これが何なのか知っていると思ったんです」
僕はダレス卿の前に小さな道具を差し出した。ダレス卿はしばし沈黙し、その小さな道具を睨み続けた。
「……」
「サー・ダレス?」
「いくらすると思う?」
「何ですか?」
「君なら、これがいくらの額で取引されると思うか聞いたのだ」
何を言っているのか、僕はすぐには理解できなかった。しかし、どうやら依頼主の考えを聞いてから鑑定を行うのが彼のポリシーであるようだった。僕は少し逡巡して、とても値段を想像できないとだけ答えた。
「皆、初めはそのように口にする。自分の依頼品が市場に出たらどの程度の価値を持つのか、全く頓着しない。だが、その一方で絶対に安売りはしたくないと言う。馬鹿げているだろう?」
「何を仰っしゃりたいのか分かりかねますが……」
「例えば仮にだが、これが連邦共和国の有名な工房の職人の手によって造られ、皇帝の持ち物として知られているとしよう。それなら、いくら出しても買い取りたいという人が出てくる。そうなれば、君はこれを安値では手放さなくなる。違うかね?」
「……」
「ワーズワースはもう少し、物事の価値について弟子に教えるべきだな。まあ、君は贋作師を目指すわけではなさそうだから、単なる……少し不謹慎なお喋りに過ぎない。君にとっては憎き仇の持ち物かも知れないわけだからな」
ダレス卿は白手袋をはめると、小さな道具を手に取って拡大鏡を覗き込んだ。
「それで、いくらだと思うかね?」
「分かりません。それが何かを知りたいんです」
「形式的なアンケートだ。間違っていて構わない。いくらだね?」
僕の返答にもダレス卿はしつこく食い下がってきた。仕方なく、僕はせいぜい銀貨一枚程度だろうと答えた。
「そうだな。しかし実際には銀貨一枚もしない。規格化された量産品。全く同じ品質のものが何個も出回っている。大量に注文されたものだ」
ダレス卿は拡大鏡越しに呟いた。
「しかし、私の鑑定料は銀貨一枚では済まないぞ。それは分かっているかね?」
僕は卯月から預かった巾着袋を取り出し、ダレス卿の前に置いた。ダレス卿は小さく頷くと、銀貨を二枚だけ手に取り、懐に収めた。
「鑑定の結果だが、要するにこれは殆ど無価値なものだ。軍需品は最も廉価な物が採用される。これはその一つに過ぎない。だが、軍隊では個人に配備される装備として、きちんと個数を記録している。一個でも無くなれば一大事になって、無くした本人は懲罰を受ける」
ダレス卿は手にした道具を燭台の明かりにかざした。
「これは銃の清掃に使われる槊杖の標準的な引き抜き器。3cm×0.6cm×2.5cm。同じ小物入れに入れていたからだろう。状態は良いが僅かにタバコの香りが移っている。タバコも安物の支給品。タバコを支給される兵士から将校の中で、あまり銃を手入れせず、前線になかなか出ない者だろう。
つまり、軍政国境地帯で警備任務に着いている兵士あるいは軍属の下士官、安物のタバコで我慢している下級士官の持ち物だ」
そう言って、ダレス卿は僕の手のひらの上に引き抜き器を置いた。
「ありがとうございました」
「礼には及ばん。鑑定料に応じた仕事をしただけだ。しかし、今度はもっと値打ちのある物を持ってきてくれ」
ダレス卿と別れて隊商宿の外に出ると、すっかり夜が明けていた。しかし、日の出の方角から黒塊の一団が隊商宿に向かって歩んでくるのが見えた。彼らペスト医師たちは真っ直ぐに僕の傍まで歩いてきて停止した。
「匿名の通報があったため、病人を引き取りに参りました」
そのくぐもった声はディンケル中尉のものだった。
「中尉……」
「どうか大人しく私たちに付いて来てください。ここで一悶着起こるのはお互いに本意ではないでしょう」
僕は抵抗すらできないまま、ペスト医師に扮した軍人たちに捕まった。彼らの乗ってきた漆黒の馬車に乗せられ、僕は再びクルジュヴァールを北に、クルジュスコールへと向かうことになった。




