表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
80/99

吸血鬼狩り 十 ~ 権謀術数 (下)

 私たちがクルジュスコールから戻ってから僅か数日で、市内は騒然とし始めた。領主である女伯が消えた代わりに、市内を補佐司教が取り仕切り始めると、いよいよ雲行きが怪しくなってきた。補佐司教はギュレイ卿の配下の軍人たちが、クルジュスコールでの事件の下手人(げしにん)であると宣言し、彼らをクルジュスコールで拘束するように命じた。


 ギュレイ卿も陰謀に関わった疑いを掛けられ、拘束されているという噂になっていた。ペスト医師に変装していたディンケル中尉たちは危ういところで難を逃れたが、彼らは彼らでクルジュスコールから出られなくなってしまった。


 一方でボルネミッサ卿の首を傷つけた凶器はどこからも見つからず、誰かが持ち出したとしか考えられなかった。しかし、クルジュスコールで取り調べを受けた誰も凶器を持っていなかった。


 市内の安全に問題があるという理由で検疫や検問は日に日に厳しさを増し、単なる衛生上の問題ではなくなっていった。夜間の外出禁止や、路上での商取引の規制。その監視には平民も貴族も聖職者も関係無かった。市内で行商の振りをして調査をするなど以ての外の状況である。


 この状況に痺れを切らした先生は、ある場所を訪ねることを決めた。それはカミルが情報提供を受けている店だった。最早、残された時間は少ないと、先生は悟ったらしい。


「グズグズしている暇は無い。何もかもが補佐司教やクルジュスコールの思い通りにはいくとは限らないと、我々が示さねば」


 そう言って御者に口止め料を渡すと、先生は空っぽの馬車を隊商宿へと向かわせた。カミルは先生の発案を聞いた後から落ち着きがなかった。知られると困る隠し事があることは明白だった。しかし、先生に遠慮などという常識は存在しなかった。


「先生、本当に行くんですか?」


「馬車はもう行ってしまった。徒歩で帰りたいなら一人で帰り給え。何しろ、さっきの口止め料でまた資金が底を尽いたのだからな」


「なんでまた金を持ってないんですか……」


「私に遊戯の才能が無いせいだ。何事にも真面目に取り組んでしまうからな」


 悪い冗談である。先生は度々、賭けトランプで負けては助手である私たちにまで泣きついてきたが、本当にカモにされているだけではないようだった。そうでなければ、カミルの情報提供元を知っているわけがない。


 クルジュヴァールの市内を中心部から橋を北に進み、川沿いの装飾品店を目指す途中、私たちは見た顔とすれ違った。『皇帝派』大貴族(マグナート)たちだった。彼らは焦燥しきった顔つきで、私たちとは逆に市内の中心にある聖ミカエル教会へと向かっているようだった。彼らとすれ違う時、その会話が少しだけ私たちの耳にも入った。


「クルジュヴァール女伯が裏切りを……彼女も『皇帝派』……」


「『皇帝派』の中に内通者……密告者がいると、クロブシツキーの小娘が……」


「トルダ子爵に近しい者は危ない……」


 その密やかな会話の断片から察するに、女伯が『皇帝派』に寝返ろうとしたことは大貴族たちの間でも周知の事実となっているようだった。しかし、同時に女伯の心変わりを密告した誰かがいるようだった。きっと、補佐司教も関わっているに違いない。だが、会話はそこまでだった。大貴族たちは私たちを尻目に急ぎ足で橋を渡っていってしまった。


 先生が彼らを追うかどうか、橋の真ん中で迷っている時、橋の袂から一人の若い女性がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。綺羅びやかな装飾品を身に着け、ヴェールで顔を隠している。その姿が目に入った途端、カミルが驚愕したような表情を浮かべた。どうやら情報提供者のようだ。


「イネッサ!」


 カミルが声を押し殺して若い女性の名を呼んだ。


「……カミル。皆さん、クルジュヴァール市内は危険です」


 イネッサと呼ばれた女性はカミル、そして私たちを見据えた。その眼差しからは確固たる意志が見て取れた。


「そんな急に……どうしたんですか?」


「時間が無いわ。『公国派』の大貴族も、女伯の裏切りを知ってしまった。今、クルジュヴァール市内は補佐司教と総督の統治下にある。でも、総督の力が及ぶ範囲では、帝国に(おもね)る者は誰一人として安全ではないの。特にボルネミッサ・イグナーツと関係のある人は……。だから……」


 そう言って、イネッサはカミルに銀色の指輪を渡した。そして、カミルを抱き寄せると、優しく口づけをした。


 ほんの一時(いっとき)


 しかし、私の見る限り、それは単なる別れの挨拶ではなかった。先生も唖然としている。それは私にとっても同じことで――何故だか分からないけれど、私は言い表せない胸騒ぎで苦しくなった。


「もし逃げるなら、早くクルジュスコールの洞窟修道院に向かって。さようなら」


「ちょっと待ってくれ!」


 イネッサはそれだけ言うと、まるで何事も無かったかのように再び橋を南へと歩き始めた。カミルの呼び掛けにも振り返ることなく、彼女の姿は『帝国派』大貴族たちと同じく聖ミカエル教会の尖塔へと向かって、段々と小さくなっていく。


「……」


 カミルはイネッサの姿をずっと眺めたままだった。


「カミル?」


「彼女も連れて行きます。一緒にクルジュスコールに逃げないと」


 イネッサと異なり、カミルの目には動揺の色が浮かんでいた。


「カミル君、彼女の警告を無駄にするんじゃない。……彼女にも彼女の仕事がある。我々は行かねばならない。早く行こう」


 しかし、先生の言葉もカミルには届いていないようだった。先生が腕を引いても、カミルは動こうとしない。焦れったさばかりが募る。その時、私の手は自然に動いていた。


――パシッ!


 やってしまった。


「卯月……」


 私に打たれて赤くなった頬を抑えて立ち尽くしているカミルと、その傍らに立つ先生を他所に、私は一人だけで北に向かって歩き出した。私が橋の袂で振り返ると、先生が私とイネッサを見比べるように何度も、橋の南北を振り返っているのが見えた。先生はこういう状況に強くないのかも知れない。それにカミルも。


 だが、進まなければならない。私たちには私たちしかできない仕事が残っている。



***



――パシッ!


 やってしまった。


 僕はこんなところで迷っている場合でないことを頭では理解していた。しかし、それでも心の奥底ではイネッサの身を案じる自分が、未練がましく足の動きを抑えていた。卯月は僕を見捨てるように、一人で橋を歩いていってしまった。


 やがて、聖ミカエル教会の鐘楼が日暮れとともに鐘の音を響かせ始めた。その音と同時に、今や総督の配下となった軍隊が働き始める。最早、市内に留まっていれば確実に取り押さえられてしまう。鐘の音に急かされるように、先生がついに卯月の下へと歩き始めた。


「急がねば。ペスト医師たちに見つかるのも厄介だが、総督の私兵に見つかるようは良いだろう」


 先生は僕を振り返りながら橋を北へと進んでいく。


「先生……」


「君は、もういい! 彼女と逃げたいならそうしてくれ。だが、我々を信じてくれる人達に迷惑をかけるような真似はするな。それに、卯月を心配させるくらいなら……早く決めるんだ」


 先生のいつもより一段と低い声には、確かに落胆の響きがあった。僕はそこでようやく、自分の過ちに気付いた。


「待ってください! 僕も行きます!」


「急げ! 早く追いついてきたまえ!」


 僕は先生を追って、卯月を目指して橋を北に走り出した。僕を見た卯月と先生は、何も言わずにクルジュスコールへと続く脇道へと入っていった。急がねばならない。日が落ちれば問答無用で捕縛されてしまう。


「あれ?」


 僕が脇道に入った時には、二人の姿は消えていた。思ったよりもずっと早い。そう思った刹那、後頭部に鈍い痛みが走り、僕の意識は闇の中へ転がり落ちていった。



***



 水の流れる音が聞こえてくる。最初は雫が落ちるような小さなものだ。


 それは次第に雨音のようにはっきりとした律動を伴い始める。最後には、湖を満たす河の流れのように穏やかで、しかし同時に周囲の不気味な静けさを際立たせる音へと変わった。


 僕は大いなる海原のただ中で、一人、浮き沈みを繰り返している。


――いつもの悪夢だ……


 周囲を取り巻く水の流れが次第に大きくなり、目の飛び出た不快な魚類の影が見え隠れする。それは濁った水の中をゆっくりと行き交い、僕の周囲を何度も何度も旋回する。


 何度も何度も。


 周りで揺らめく魚鱗には幻想的な光があったが、しかし温かみは一切感じられなかった。


 魚の渦に飲まれて、僕はその一部となった。そして、仄暗い海底へと下っていく。僕は必死でもがき、海上を照らす月に向かって腕を振り回した。だが、魚の群れはやがて月光すらも覆い隠してしまう。


 しかし、その時、はるか頭上の月から声が聞こえてきた。


「汝、狩人たらんとすれば……クルジュスコールに集い……瞳の奥を見よ……」


 威厳に満ちていて、よく通る男声だった。その声に応じるように、異形の魚たちが僕から離れていく。


「夜は長く……獣ばかりが増え……狩りは終わらぬ……」


――ゲオルギウス・フラーテル!


 僕は必死に海水に抗おうとした。しかし、夢の中で身体は思うように動かず、ただ海底へと引きずり込まれるばかりだった。それでも、眩い月の中に、はっきりと法衣の影が見える。


「だから、瞳の奥を見よ……神秘に(まみ)えるのだ……」



***



 目が覚めた時、僕は薄暗い小部屋にいた。どこかで見た覚えのある風景だった。記憶の糸を辿っているうちに、やがて僕は自分が縄で後ろ手に縛られていること、そして今の居場所がクルジュスコールの地下の分娩室によく似た部屋であることに気付いた。近くに卯月と先生の姿は無かった。


 僕だけでなく、卯月と先生も捕まっている可能性がある。僕はなんとか縄を解こうと必死で腕を動かしたが、無駄な努力のようだった。それでも何か手はないかと辺りを見回してみたが、縄を切れるような道具はどこにも見当たらなかった。


 どうやら、早くもイネッサからもらった指輪の出番が来たようだった。危機的状況で使うようにと囁かれた通り、僕は銀色の指輪に指を這わせた。すると、二重になっている指輪の内側から鋸状の刃が飛び出す感触が伝わってきた。僕は指輪を落とさないように気をつけながら、縄を少しずつ鋸刃で切り裂いていった。


――よし。


 縄を切り終え、僕はゆっくりと立ち上がった。後は二人を探し出し、身の安全を確保できるような場所に避難しなければならない。イネッサはクルジュスコールに隠れるように言っていたが、今の様子ではクルジュスコールもまた、安全ではないように思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ