吸血鬼狩り 七 ~ 兄《子爵》と妹《女伯》
帝国軍の詰所では、今朝方、河から引き上げられた遺体の検死が行われていた。遺体の身元は市内に住む錬金術師の弟子だという。クルジュスコールの医師や学生たちが、解剖のために遺体を引き取りたいと申し出ているため、急ピッチで検死が進められている。
「調査なんて大変だね、あんた」
白髪交じりの若い軍医は解剖台の上に乗せられた遺体の服を調べながら、ぼそりと呟いた。
「これでも学徒ですから」
「なら、少し手伝ってくれない?」
僕は水を吸って重たくなった遺体の頭を持ち上げた。ディンケル中尉の図らいで、僕は一人だけ軍医とともに検死に立ち会うことができた。イネッサの隠れ家から隊商宿への帰り道で、偶然にも事件の後始末をしている中尉と出会ったのだった。
「遺体を発見した市民が《吸血鬼》の仕業だと言って騒ぎになっていまして……」
ディンケル中尉は僕にそっと耳打ちすると、密かに帝国軍の馬車に僕を乗せてくれた。遺体と同乗するというのは気分の良いものではなかったが、我慢するしか無かった。
「首筋から肩にかけての右側面、四箇所に刺傷……深さは6mmか、7mm……他の外傷は……右手人差し指に古い火傷、と……」
軍医は書類にメモを取りながら遺体を調べた。僕は軍医に指示された通りに遺体から服を脱がせた。目立った外傷は他に無かった。
「死因は呼吸困難。溺死、と……」
「首筋の傷は?」
「こんな浅い小さな傷じゃ、婆さんだって死にゃしない。血が流れ続けたら、そりゃ死ぬかも知れないが、普通は血も凝固して自然に止まる」
「そうですか……そうですよね」
「この前、総督府議会で騒ぎがあった時、あんたの先生も似たような事を聞いてきたな。手当してる時に《吸血鬼》がどうとか、本当に人が殺せるかなんて」
どうやら先生は先に軍医から《吸血鬼》の手口について聞いていたようだ。
「まさか、吸血で人が死ぬと?」
「瀉血のやり過ぎでも人は死ぬんだ。昔の拷問で、2000cc抜いたら死んだって話を聞いた」
軍医は戯けた調子で遺体に噛み付く振りをした。
「《吸血鬼》は一晩で、一気に2000cc以上も血を吸って人を殺すわけだ。そりゃあ怪物に違いない」
軍医は鼻で笑いながら書類を机に置いた。その時、解剖室の扉が乱暴に開かれた。軍医が反射的に乱れた襟を正して直立した。部屋に入ってきたのはデーヴァ伯だった。
「ミュラー曹長。何故、この前の行商がここにいる」
不快感を顕にしたデーヴァ伯の鋭い視線が僕を射抜いた。
「知人だと言うので……入れてやりました」
「早く外につまみ出せ」
「はっ!」
軍医はすぐさま僕の背中を押して解剖室から追い出した。詰所の外では、四輪馬車と仮面を被ったペスト医師たちが既に待機していた。
結局、錬金術師の弟子がどういった経緯で死んだのかは分からなかった。皇帝派だから狙われたのか、それとも別の理由なのか。《吸血鬼》の仕業だとしても、血を抜いて殺すのは簡単ではない。軍医は溺死だと判断していたが、死因としてはそれが妥当だろう。
わざわざ遺体の首筋に傷跡を残すのは、《吸血鬼》という存在を、その脅威を広めるためのように思えた。犯人――いや犯人たちは伝染病のように、《吸血鬼》という恐怖が蔓延していくことを狙っているのだ。総督府全土で《吸血鬼》を利用し、敵対する者の心を挫き、精神的に支配するために。
呆然としながら隊商宿に着くと、先生と卯月が僕を待っていた。
「随分と帰りが遅かったな。情報はどうだった?」
「市内で殺人が……《吸血鬼》の仕業です。他の街でも、帝国の密偵が《吸血鬼》に殺されたと……」
僕は声を潜めて事情を話した。同じ手口の殺人が、離れた場所で起きている。犯人は複数で、組織的に動いていると考えるべきだろう。油断ならない事態だった。しかし、それでも先生が動じる様子は無かった。
「人の口に戸は立てられんよ。それに噂ではなく、迷信を利用した陰謀だ。誰が裏で糸を引いているのか、だいたい分かってきたじゃないか」
「何を呑気な……人が死んでるんですよ。僕たちだって安全とは言えません」
「何故?」
「僕たちが帝国側の人間だからです」
先生は大きく首を傾げて、無垢な少女の顔全体に疑問符を浮かべた。
「帝国? 私はアルビオン、君はコルヴィナ、卯月は東洋。全員、表向きは帝国と無関係だ。それに学徒が生半可に政治に首を突っ込んでも、誰も幸福にはなれんよ」
「それはそうですが……」
「我々のことを知っている人間なんて片手で数えるほどしかいない。もし狙ってくるとしたら、逆に犯人は我々の正体を知っていると自白したも同然。むしろ好都合、だろう?」
先生の言葉には一理あったが、殺されてしまっては元も子もない。先に何か打つべき手は無いのだろうか。
「君が情報を集めている間に、子爵閣下の使者が来た。聖ミカエル教会に来てほしいと」
先生が励ますように卯月と僕の肩に手を乗せた。その動きは力強く頼りになるといったものではなく、軽やかで柔よく剛を制すといった感じだった。
***
夕暮れに染まる教会で、前回と変わらず祭壇の前で補佐司教が跪いて祈りを捧げていた。その傍らで、子爵は護衛の軍人に囲まれて待っていた。
「物々しい連中を連れていて申し訳ない。最近は物騒なものでな」
「構いませんとも。子爵閣下にお声がけいただき誠に光栄です。我々でよろしければ、どうぞ何なりと」
先生はいつも通りの無垢な少女の笑みを浮かべて、改めて子爵に挨拶した。しかし、子爵は先生の差し出した右手を、ほんの一瞬だけ握り返しただけだった。
「前口上はいい。クロブシツキー!」
子爵の呼びかけに、補佐司教はすぐに祈りを中断して歩み寄ってきた。呼び捨てにされても補佐司教は穏やかな笑顔を湛えていたが、その慇懃さは逆に不気味でもあった。
「子爵閣下が皆様のことをお尋ねになられたので、そのついでにご相談させていただきました。余計なお節介かも知れませんが、クルジュスコールのことで女伯殿への取り次ぎをお願い申し上げたのです」
「それは実にありがたい」
「君が本物の調査官かどうか確認したまでだ。しかし、この辺境で随分と苦戦しているようだが」
「致し方ありません。クルジュヴァール市は少々物騒なようでして」
先生の冗談に、子爵は小さく「減らず口を」と言いかけたように見えたが、恐らく気のせいだろう。
「残念ながら子爵閣下と女伯殿は、ご兄弟でありながら互いに接触を控えております。政治的立場の隔たりが、そのような不幸を強いているのです。しかし、この状況でもクルジュスコールだけは、あらゆる政治的勢力から距離を置いております」
補佐司教が勿体ぶった調子で話を続けた。
「クルジュスコールの立場、その自治を考えていただけるのであれば、女伯殿は皆様をクルジュスコールにお招きできるよう取り計らうと。そうですよね、子爵閣下?」
「要するに妹の要求は、王立アカデミーがクルジュスコールに好印象を持つように動けということだ」
補佐司教の極めて回りくどい表現を、子爵が一言でまとめた。たとえクルジュスコールが《吸血鬼》や帝国に不利な計画に関与しているとしても、一切、口外するなということだろう。
「我々の任務は《吸血鬼》という《迷信》が、住民の啓蒙に如何なる影響を与えているか調査することです。クルジュスコールが政治的に中立で、科学を奉じるのならば、何も心配はありません」
「結構。結構だ」
先生の返答を聞くと、子爵は護衛と共に教会の扉へと向かった。
「ジェピュエルを裏切るな。決してな!」
去り際に、教会中にこだまするような大声で警告し、子爵は教会から出ていった。補佐司教は子爵たちが出ていくと、教会の扉に鍵をかけた。
「何を?」
「告解を。どうぞ。どうぞ、こちらへ」
補佐司教は僕に、彫刻を施した告解室を指し示した。
「何故?」
懺悔するような罪なんて思い浮かばないし、そもそも何故このタイミングなのか。僕の狼狽えた顔を見て補佐司教は破顔し、堪え切れないというように声を上げて笑い始めた。
「何なんですか?」
「あっはっはっはっは! あーはっはっはっはっはっは!……」
一頻り笑い終えると補佐司教は祭壇に近寄り、落ち着きを取り戻そうとするかのように香炉を揺すった。仄かな香りが祭壇の周囲に漂った。
「貴方は正しく、そして幸運です。……あっはっはっは……何も仰らなくても良いですから。さあ、どうぞ。告解室へ」
補佐司教に再度促され、僕は渋々、告解室の前で跪き、そして中に入った。告解室の四方を囲む壁の間隔は狭く、重苦しい空気に満ちていた。意識していなくても罪悪感が背中をよじ登ってくる嫌な感覚に襲われる。だが、いつもと違うのは、衝立の向かい側に座っているのが司祭ではないということだった。
喪服のような漆黒のドレスに身を包み、ヴェールで顔を覆い隠している貴婦人がそこにいた。
「このような場しか設けられず、申し訳なく思っています。それに、身勝手なお願いまで。ですが、私の無礼を許してください」
黒衣の貴婦人は静かに話し始めた。
「……兄は命を狙われています。どうか、兄を守ってください」
告解室での会話の漏洩を遮るように、外では補佐司教の祈りの声が響いている。
「私も『皇帝派』に加わるつもりです。今のように隠れて逃げ回るような生き方は、貴族として相応しくありません。ですが、兄は納得しないでしょう……。兄は自分のすべてをジェピュエルに捧げています。どんな危険を冒すことも厭わないのです」
「それは、何故……?」
「分かりません。残念ですが、女の私には兄の気持ちは理解できないのでしょうね」
貴婦人の悲しげな声に震えが混じった。
「ガリアの貴族や学者をもてなすため、クルジュスコールの公開を予定しています。ヘンリエットは……補佐司教は問題無いと言ってくれていますが、総督や『公国派』の貴族も一緒なのです。私の目の及ばない場所で、政敵に囲まれてしまいます」
声が途切れ、暫し沈黙が流れた。僕は息をこらして考え続けるしかなかった。僕が返答するしかないのか。僕たち全員の命まで危険に晒すことになるのではないか。どうすればいいのか。
「どうかお願いです。兄の、ボルネミッサ・イグナーツの命を守ってください」
後戻りはできなかった。
「……分かりました。お約束します」
「ありがとうございます。クルジュスコールの公開に参加する方には、予め証をお配りしています。皆様への証の受け渡しは競売人にお任せしました。……この密約が公にならないよう、十分にお気をつけて。どうか、幸運を」
その言葉を最後に、告解室の衝立は閉じられた。告解室から出る時、僕の背中は汗と罪悪感でじっとりと湿っていた。




