狩人狩り 作者注
本連載作品「迷信狩り」の第四章「狩人狩り」について、設定上の注釈をまとめた。
後書きとしては長くなってしまうため、一編分を以下に記載する。(本編各話より2倍以上長い…)
この注釈が、読後の読者の皆様における疑問の解消、細かい表現への理解の手助けとなることを期待する。
※ネタバレ注意
歴史、国家および舞台:
本章では帝都が物語の舞台となる。モデルは当然、オーストリアの首都ウィーンである。
ウィーンは北側のドナウ河に面した地域から大きく半円を描くように都市が形成されてきた。
ドナウ河によってハンガリーの当時の首都ポジョニ(スロバキアの首都ブラチスラヴァ)と繋がっていた。
作中のダヌビス河はドナウ河がモデルである。
地図として主に以下の画像を参照した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Wien1858.jpg
最も古く作られた旧市街はトルコ軍の襲来に備え、城壁および堡塁が築かれた。また、城壁の外周には敵が陣地を構築しにくいように空き地、グラシが作られた。
空き地では普段、陸軍の教練などが行われていた。
この旧市街の内にはオーフブルク王宮やシュテファン大聖堂、ブルク劇場が存在している。
シュテファン大聖堂の南塔には当時、プムメリンという巨大な鐘があり、新年の最初の一日だけ鳴らされた。他の鐘については毎日、定刻に鳴らされていた。
また、高所の尖塔は普段から消防のために監視拠点としても利用されていた。作中での言及は無いが、南塔を「大聖堂の瞳」としたのはこれが理由である。
1枚目と2枚目の城壁の間は新市街。貴族の邸宅が多く築かれた。
プリンツ・オイゲンが作らせたベルヴェデーレ宮殿も新市街の中に存在する。日本語Wikipediaのウィーンのページにある、ベルナルド・ベッロットが描いた十八世紀のウィーンという絵画はまさにベルヴェデーレ宮殿から望むウィーンの情景を描いたものである。この絵画を参考に執筆していたので、実質的にこれが挿絵。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3
新市街から旧市街に入るためには城門で通行料を払う必要があったが、祝い事などイベント時は無料になった。
さらに2枚目の城壁の外は郊外と呼ばれ、一般民衆の家や店が建っていたようである。
郊外の西にあったシェーンブルン宮殿は森の中にあったらしいので、貴族の私領は森のままだった可能性も高い。
1754年当時の人口調査によれば、これらを合わせたウィーンの人口は17万5460人だったという。
この数字は当時の諸外国の首都、ロンドンやパリに比べれば小さいものであった。江戸に至っては51万人。まさに圧倒的、トリプルスコアである。
帝国大学は新市街の北西に位置する現在のウィーン大学がモデルである。
十八世紀当時には旧市街内に古いウィーン大学の校舎があったが、十九世紀の地図上で校舎を確認できなかったため、当時の市民病院付近に帝国大学が建っているという設定にした。
城壁から帝国大学までおよそ2~3[km]、儀装馬車は分速200[m]程度の速度という設定である。書いてみたら意外と早い感じもする……。
なお、実際の新市街北西部には陶磁器工場などが建てられており、工業化が進んでいた。
宮廷、実在の人物:
宮廷の共通語といえば当時はフランス語であった。従って、君主や元首は基本的にフランス語を覚えた廷臣や大使と遣り取りができれば大きな問題は無かった。その一方で、マリア・テレジアのようにフランス語、ドイツ語、ラテン語(ハンガリーおよびトランシルヴァニアも王宮ではラテン語を使用した)、イタリア語を覚えて、各国の大使と出身国の言語で会話できた君主は外交で有利だった。
イギリスではオランダ出身のウィレム三世やハノーヴァー朝に移ってドイツ出身の国王が誕生したが、英語ができない国王と内閣の間でコミュニケーションに齟齬が起こることもあったようである。
皇帝一家について。
それぞれのモデルは既に記載もあるが、皇帝はフランツ1世ことフランツ・シュテファン、皇后はマリア・テレジア、第二皇女はマリア・アンナである。
フランツ1世にはフランツルという愛称があった。彼は元々ロレーヌ公であったため、フランス語はできたがドイツ語は下手だった。マリア・テレジアとの婚約に際して故郷ロレーヌを泣く泣く手放し、トスカーナ公国を継いだ。外交や軍事で活躍することはなかったが、人材登用と領地経営で優れた手腕を発揮し、巨万の富を築いた。
余談ではあるが、彼の蓄財について触れておく。皇帝の地位は既に形骸化していたため報酬は一切なく、事ある毎に皇帝が自腹を切ることになっていたが、自らの博物学趣味に私財を注ぎ込んでなお、現金2000万グルテン、土地、工場など巨額の遺産を残した。
当時の貨幣価値を補足すると、子羊一匹2グルテン、年俸では学者が600グルテン、モーツァルトですら800グルテンであり、彼の私財で帝国の戦費はすべて償却された。(※ただし肝心の戦時中には戦費を出さなかった。)
マリア・テレジアについては語るべくもないと思われるが、当時のハプスブルク帝国の実質的な君主であり、女帝とも称された。帝国の中央集権化を図って数多くの改革を実施させた、典型的な啓蒙専制君主である。だが、継承戦争初期に女帝を助けたハンガリーの領邦に対しては改革を無理強いしなかった。
マリア・アンナは学識に恵まれたが病弱で、他家に嫁ぐことがなかった。ただし、足を患っていたというのは本作での脚色である。
宮廷の人物は殆ど実在の人物にしているが、彼らが個性的かつ魅力的であったため、キャラ作りを怠ったというのが正直なところである。
バルテンシュタイン男爵、ダウン伯爵、ハウクヴィッツ伯爵、カウニッツ伯爵、スヴィーテン男爵は、当時のマリア・テレジアの帷幕に参画した実在の人物である。ただし役職には若干の相違がある。
バルテンシュタイン男爵はカール6世の時代から侍従長、官房長を務め、マリア・テレジアにも重用された。しかし、フランスとの接近を図るカウニッツ伯爵と対立し、最終的に政界を引退している。
ダウン伯爵は陸軍改革を実行し、士官学校の設立などに貢献した。また、七年戦争ではコリンの戦い、ホッホキルヒの戦いなどでプロイセン軍を破った。ただし、彼の慎重すぎる用兵にはラウドン将軍などから批判もあった。
ハウクヴィッツ伯爵は財政改革、行政改革、司法改革を行い、新たに管理庁を創設した。野心家ではなかったが誠実に任務を遂行し、後に国務大臣としてオーストリアの中央集権化を推し進めた。
カウニッツ伯爵はハウクヴィッツ伯爵の路線を受け継ぎ、宰相として改革を進めた。オーストリアとフランスの同盟を結んだ外交革命の立役者とされる。優秀だが毒舌家で極めて我が強いタイプだったらしい。
スヴィーテン男爵は侍医でウィーン大学の医学部の改革を実行した。また、マリア・テレジアの指示でボヘミアの吸血鬼騒動について医学的調査を行った。ヴァン・ヘルシングのモデルとも言われる。
余談ではあるが、これらの廷臣の多くはマリア・テレジア広場において、彼女同様に銅像としてその姿を見ることができる。
銅像とともに名が刻まれている廷臣は、ハウクヴィッツ伯爵、カウニッツ伯爵(侯爵)、スヴィーテン男爵、リヒテンシュタイン公爵である。騎馬像は将軍で、ラウドン男爵、トラウン伯爵、ケーフェンヒュラー伯爵、ダウン伯爵である。この他、スヴィーテンの背後にエッヘル、グルック、少年のモーツァルト、ハイドンなど芸術家も残されている。
また、シュマルトン侯爵のみフィクションだが、エステルハージ家はハンガリーの名門貴族であり、当時はオーストリア陸軍元帥を輩出していた。なお、エステルハージ家の代々の領地はキシュマルトンである。
暗号:
転置式暗号は文字の並べ替えによって文章を暗号化する手法である。所謂アナグラムや縦読みなどもこれに含まれる。
換字式暗号は文字を別の文字に置き換えることによって文章を暗号化する手法である。作中の暗号はガイウス・ユリウス・カエサルが用いたとされるシーザー暗号である。
手紙の暗号はADFGVX暗号である。
ADFGVX暗号は第一次世界大戦中にドイツ軍が使用した暗号である。
ポリュビオスの暗号表と鍵を使った転置式暗号を組み合わせた暗号だが、作中ではひらがなで表記する都合、暗号表として上杉暗号を代用した。
上杉暗号(字変四八の奥義)は、上杉謙信の軍師、宇佐美定行が考案した暗号である。
実用されたADFGVX暗号は区切りなどなく、当時のフランス軍での解読は困難を極めた。
このため、作中では合理的に解読できるように文字種の拡張、意図的な空白、宛名など、キーワード無しでの解読に必要な情報を入れている。
灰の炙り出しについて。
トウダイグサの白い樹液は乾燥させると透明になり不可視となるが、そこに灰を掛けると樹液の跡が明らかになる。
物理、薬理:
スヴィーテン男爵は1754年に梅毒の治療法として昇汞水(塩化第二水銀)0.104%溶液を内服させる方法を発表している。
このような水銀水を用いた治療法は日本の蘭方医にも伝えられ、二十世紀初頭まで存続したが、実質的な効果は全くなかった。
当時は梅毒と淋病の区別すらついておらず、梅毒の症状とその変化について殆ど理解されていなかった。
梅毒の第一、第二期症状は数年で収まるので、そこで水銀治療が効いたように思われていただけだったと考えられる。
熱気球について。
熱気球が発明されたのは1782年。フランスのモンゴルフィエ兄弟は大きな絹の生地で作った気球を飛ばすことに成功した。
その翌年、モンゴルフィエ兄弟はさらに巨大な気球を作り、無人の熱気球の公開実験、さらに有人の熱気球による飛行に成功している。
彼ら以前の記録としては、1709年にポルトガルのバルトロメウ・デ・グスマン神父が熱気球の原型となる実用模型の公開実験を行っている。
しかし、当時は空に向けての飛行は神に対する挑戦と捉えられ、異端審問の高まりもあって実験は中断してしまった。
また、熱気球が浮かぶ条件について計算しておく。
気球の体積をV[m^3]、気球の機体の重さをWe[kg]、気球内の空気の重さをWb[kg]、気球内の空気密度をρb[kg/m^3]、気球によって押しのけられた空気の重さをW0[kg]、大気の密度をρ0[kg/m^3]とする。この時、
気球が押しのけた空気の重さ W0 > 気球内の空気の重さ Wb + 気球の機体の重さ We
となれば、気球は浮く。質量[kg] = 密度ρ[kg/m^3] * 体積V[m^3] = ρ * V [kg]より
ρ0 * V > ρb * V + We …(1)
となる。ここで気球内部の温度、空気密度を一様とし、気球内の空気と外気の圧力差がないものとして考えると、
(ρ0 - ρb) * V - We > 0 …(2)
となる。乾燥空気の密度ρ[kg/m^3]は、空気温度をt[℃]、大気圧をP[hPa]とすると、
ρ = 1.293 * 273.15 / (273.15 + t) * P / 1013.25 …(3)
となる。ただし、1.293: 0[℃]、1013.25[hPa]での空気密度である。
作中の気球の体積を12[m^3]、機体の重さを縄と含めて3[kg]、外気温を20[℃]、気圧1013.25[hPa]という条件とすると、式(2)より
ρ1 * V = ρ0 * V - M
ρ1 = ρ0 - M / V = 1.205 - 3 / 12 = 0.955 [kg/m^3]
従って、式(3)から
0.955 = 1.205 * 273.15 / (273.15 + t) * 1013.25 / 1013.25
t = 71.5
気球内の温度を71.5[℃]まで熱することで離陸することが可能である。
農業、内政:
「枢密内閣官房」の活動について。
かつてウィーンに実在した諜報機関である。
秘密通信を傍受する組織はヨーロッパ中に存在したが、特にヴェネツィアとウィーンでは強力な組織が働いていた。
枢密内閣官房は帝国郵便の事業を妨げないように、厳格な規律に従って動いた。
午前七時には、外部から在ウィーン各国大使への手紙が密かに開封され、速記者によって写し取られた。この時、特殊な文字を扱う手紙に対しては言語学者などの専門家も立ち会った。
これらの作業はわずか三時間以内にすべて完了され、手紙は再び帝国郵便局へと送られた。
また、午後四時には、在ウィーン各国大使から外部への手紙が同様に開封され、写し取られた。
枢密内閣官房が扱う手紙は一日あたり百通を有に超えたが、当然、暗号化されているものがあり、それらはさらに暗号解読者の下へと送り届けられた。
当時の大学は主に神学部、医学部、法学部の上級学部と、文学部(教養学部)の基礎学部を足した四学部から構成されているものが多かった。音楽学校は音楽院として独立していた。
また、都市によっては鉱業などの専門学校も存在したが、その数は少数である。
中世において大学の正講義は十月頃から開始され、学期の終わりに夏休みを迎えた。
スヴィーテン男爵が教授会で提案する大学改革および医療制度改革について。
すべて史実通りの内容である。
帝国図書館館長でもあったスヴィーテン男爵は修道会による過剰な検閲制度を撤廃させた。
また、エディンバラやライデンなど医療の進んだ地域では臨床医学が始まっており、スヴィーテンはこれをオーストリアでも実施させた。
温度計の発明により、体温を計測して診断の指標とし始めたのもこの頃である。
ただし、小学校の設立についてはマリア・テレジアの晩年の政策である。
植生、動物:
動物飼育施設の見学で登場したのはアメリカバイソンである。
ヨーロッパにもポーランドにヨーロッパバイソンが生息していた(が、二十世紀に絶滅した)。
アメリカバイソンはヨーロッパバイソンと異なり、雄には鬣が存在する。
現在のような大規模なガラス張りの温室が建設されたのは十九世紀に入ってからである。
十六世紀からは通常のレンガ組みの温室「オランジェリー」を用いてオレンジを冬越しさせていた。
その後、イギリスでガラスを用いた小型の温室が実験的に建設されていたようである。
温室の暖房は火力による直接暖房もしくは、蒸気による間接暖房の二種類があった。
現在では温室の設備として散水、噴霧などのシステムが備わっているが、この当時では普通に考えると技術的に困難であっただろうと思われる。
温室内の設備について。
水銀温度計および毛髪湿度計については当時には発明されていたと考えられる。
最も古典的な霧吹きはベンチュリー効果を用いたものだが、ベンチュリーはこの仕組みについて1797年の論文で発表している。
霧吹きが本格的に利用され始めたのは十九世紀に入ってからで、主に医療用としてだった。
薔薇園の描写について。
現在、植物園で見られる薔薇は十九世紀以降に人工交配で作られたモダンローズである。
これより以前の時代からも赤い薔薇、白い薔薇、ピンクの薔薇などは原種として存在していた。
イギリスにおける薔薇戦争に代表されるように、赤い薔薇と白い薔薇は象徴的に扱われ、栽培も盛んだった。
これらの古い薔薇はモダンローズに対してオールドローズと呼ばれる。
現在でもオールドローズは健在ではあるが、品種によっては病害虫の対策や栽培時の作業などに差異が見られると思われる。
庭仕事の描写は主に現在の基準で描写したものである。
文化、宗教:
宮廷劇場はウィーン市内のブルク劇場がモデルである。
また、行われていた演目「百万長者になった農民」は実在の演目である。
ただし、当時のオーストリアの歌劇はイタリアで演じられていた正歌劇、オペラ・セリアとは異なり、台詞を含んだ歌芝居、ジングシュピールと呼ばれるものが多かった。
本来、宮廷劇場では正歌劇が演じられるところであるが、本作では場面の都合、歌芝居を上演している。
本章では爵位持ちの人物がやたらめったら出てくる。しかも呼び方が一々異なる。理由としては出身国による違いを表現している。
帝国出身者はドイツ風にフォン・〇〇、アルビオンの連合王国出身者は英国風にサー・〇〇、ガリアの王国出身者はフランス風にド・〇〇、北方の連邦共和国出身者はオランダ風にヴァン・〇〇としている。
ドレスの生地の差異について。
十八世紀初頭までは女性のドレスはサテンやベルベットなどの重い生地が使われていたが、時代が進み、貿易や手工業が発展すると、インド産の綿、フランス・シルク、リンネルなど軽い生地への移行が進んでいる。
宮廷の中枢で文化が進んでいる皇后のドレスはガリアのシルク、コルヴィナ東部の田舎のアルデラ伯爵が用意した卯月のドレスはベルベットとしている。
車椅子について。
この当時には既に車椅子は市販され始めていた。
晩年に足を患ったマリア・テレジアの母エリーザベトも車椅子を使用している。
当時の車椅子は現在のパイプ椅子のような無骨なものではなく、暖かみのあるインテリアのようなデザインだった。
御進講の昼食のメニューについて。
糖菓や甘い食物をいわゆるシャルキュトリー(ハムやパテなどの食肉加工品)と一緒に出す習慣は中世から存在した。
近世のフランス人はこうした習慣を好まなかったという記録が、ドイツに旅行したフランス人の日記から読み取れる。つまり、ドイツではこのようなメニューは一般的であったと考えられる。
果物は季節に合わせ、秋はマルメロ(セイヨウカリン)、冬はリンゴのポタージュが出されており、作中では夏なのでアレンジを加えてアンズのポタージュとしている。
また、マグロは当時からよく捕れた魚であり、スペインやシチリアでもマリネしたマグロが美味であると記録されている。
青い瓶について。
ウィーン初のカフェとして伝えられているが、真偽は定かではない。1668年ごろからアルメニア人のヨハネス・ディオダートがコーヒー豆を輸入していることが明らかになっており、彼が最初にカフェを開いたのが最初だという説がある。
青い瓶は1683年のトルコ軍によるウィーン包囲の後、撤退後のトルコ軍の野営地からコーヒー豆を持ち帰ったポーランド人のフランツ・コルシツキーによって開業された。
場所はドナウ河の北側あるいは新市街内のウィーン川の付近と言われている。
作中では1684年に橋の近くに描かれたカフェの絵から、ドナウ河沿いに店があったと想定している。
なお、カミルが注文したアインシュペンナーはいわゆるウィンナーコーヒーである。
テラス席? さてはパリ市民だなオメー。
カストラートについて。
カストラートは去勢された男性歌劇歌手である。変声期の前に去勢することで、一般の男性歌劇歌手では出せない高音域を維持した。
元々、カトリック教会では女性が歌うことは禁じられており、少年が聖歌隊に参加していた。
その後、歌劇の興隆とともに音楽院でカストラートが意図的に育てられるようになっていく。
去勢手術は中国の宦官のような陰茎の切断ではなく、精索と睾丸の除去が行われた。
これにより、声変わりが起こらずに肉体は成長し、女声の美しさと男性の華々しさを併せ持つことができた。
十八世紀にカストラートは絶頂期を迎える。ファリネッリことカルロ・ブロスキは当時、最も有名なカストラートの一人だった。
彼の音域は3オクターブ半あったと言われ、その歌声に感動のあまり失神する者が続出したという。
カストラートによる歌声や当時の歌劇の舞台については、ファリネッリを描いた映画「ファリネッリ」を参考にした。
以下の動画は映画のワンシーンで、ファリネッリがヘンデル作曲の歌劇「リナルド」のアリア「私を泣かせてください」を歌う場面である。
https://www.youtube.com/watch?v=WuSiuMuBLhM
映画の中では去勢手術後にファリネッリがミルク風呂に浸かる場面が挿入されているが、実際には手術前に身体をほぐすためにミルク風呂に浸かっていたようである。
また、去勢手術自体は公式には認められておらず、もぐりの外科医が隠れて実施していたという。
ただし、作中では第二章において女性が教会の聖歌に参加しているように、女性歌手の存在が仄めかされ、カストラートの存在を大々的には描いていない。
この上河みか。こと作者注に限り虚偽は一切書かぬ。幼女は出した……! 幼女は出したが……今回、まだどのような幼女であったかの指定まではしていなかった。
そのことをどうか諸君らも思い出していただきたい。つまり……私がその気になれば男の幼女……竿付きの幼女ということも可能だった……ということ……!
フィクション:
図書館警察について。
図書館警察とは、図書館で本を借りた利用者が返却期限を過ぎても返さない場合に、利用者の下に直接やってきて強制的に貸出図書を取り立て、力尽くで回収する組織である。
詳しくはスティーブン・キングの「図書館警察」あるいは森見登美彦の「四畳半神話大系」を参照。
優雅たれについて。
「優雅たれ」とはFate/Zeroの登場人物、優雅たれおじさんこと遠坂時臣が家訓としている言葉である。
「狩人狩り 十四 ~ 優雅たれ」は遠坂時臣の登場シーンのパロディである。以下は参考動画。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15769622
本章は本作第一章のセルフパロとしての側面がある。類似シーンやサブタイトルなど。
読者の皆様からの指摘や、筆者自身が第一章の出来に不満があり、課題を解消する目的があった。
本作の執筆の際して、前章に追加して、主に下記の書籍、作品を参考とした。
そのため、一部のシーンでは、その影響が大きく出ている個所がある。
また、今後も参考とする可能性が高い。
・「ウィーン ――「よそもの」がつくった都市」著:上田浩二
・「不思議なウィーン: 街を読み解く100のこと」著:河野純一
・「マリア・テレジア ハプスブルク唯一の「女帝」」著:江村洋
・「興亡の世界史 近代ヨーロッパの覇権」著:福井憲彦
・「ハプスブルク帝国」著:岩崎周一
・「暗号解読 ロゼッタストーンから量子暗号まで」著:サイモン・シン 訳:青木薫
・「近世ヨーロッパ美食紀行 旅人たちの食卓」著:フィリップ・ジレ 訳:宇田川悟
また、植物園、薔薇園および温室について、下記の施設を取材した。
・「渋谷ふれあい植物センター」
・「横浜イングリッシュガーデン」
・「港が見える丘公園」
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