狩人狩り 十一 ~ 幽霊
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帝都の住民は喜劇を好む。大衆劇場で演じられていた歌劇も同様だった。浮かれて楽しむだけの夢のひと時。それにも関わらず、皇女はプロローグでカストラートの歌に涙していたように見えた。しかし、深い事情があるのかも知れないと思い、僕は最後まで理由を聞くことができなかった。
観劇を終えて帰路に就く時には、皇女は元気を取り戻していたようだった。無邪気に笑いながら、一日を振り返る。
「本当に楽しかったわ。徽章の図柄になった薔薇園も綺麗だったし、コーヒーも美味しかったし、それに歌劇も!」
「楽しんでいただけたようで、我々としても幸甚の至りです」
「料理も珍しくて美味しかったわ。また食べてみたい」
皇女は観劇中の食事にもきちんと手を付けていた。魚卵の煮込みや鰻の燻製など、貴族の子供にとっては好き嫌いの分かれそうなものでも、彼女は残さずに食べていた。個人的には、魚介類なんて水曜と金曜の肉無し日に気の向いた時くらいしか口にしない僕にとっては、かなり意外なことだった。
それに、皇女が飲んでいたコーヒーはミルク無しのストレート、最も苦みが濃いシュヴァルツァーだった。早熟にも程がある。
旧市街へ入る城門で通行料を払ったところで、皇女とは別れることになった。この先は一人でも帰れると皇女は言い張った。お忍びで出て来られたのだから、余計な心配は要らないのかも知れない。
「それじゃ。皆さん、元気でね」
通りで捉まえた小間使いが皇女の車椅子を押していく間にも、皇女は振り返って手を振り続けていた。彼女の姿が通りの先に消えたのを見届け、僕たちも新市街へと続く帰り道に向かった。
まだ陽は高く、日光を遮るものがない空き地を突っ切っていくのは流石に気怠い。先生もそう感じたのか、久しぶりに馬車を取って大学まで走らせることになった。
「皇女殿下の指輪の謎は解けそうなのかね?」
馬車の中で先生が尋ねてきた。まるで緒が掴めていないのに、三日という期限まで付けられ、内心で僕は焦っていた。交換条件にされた手紙の事も先生には言っていない。
「昨日、調べてみたのですがさっぱりで」
貸してみろと言って先生はハンカチと指輪を手に取った。先生は指輪を眺め、自分の指と見比べた。明らかに指輪のほうが小さい。
「ちょっと指を出してくれ」
先生は卯月の指を見て、指輪をはめようとした。辛うじて指輪を指が通り抜ける。
「どうかね?」
「え?……何かが引っ掛かるような……」
卯月は指輪を外して内側をなぞった。先生はそれを見て、何かに勘付いたようだった。
「帰ったら顕微鏡を用意しよう。見えない秘密が見えてくるかも知れん」
***
大学に戻ると、校門の近くに学生の集団がいた。神学部の学生と教養学部の学生だ。神学部の学生は「神の教えに背いた」だとか「幽霊を呼び寄せた」などと書かれた紙を手にしている。議論を申し込む時は紙面に議題を書いて、相手の施設の門に貼るのが神学部の古くからの慣例だった。
「昨日の事件は、過激な思想に染まった大学を罰するために現れた幽霊の仕業だ。どんな人間でも十メートル以上の高さの部屋には入り込めやしない」
「幽霊なんて馬鹿げたことがあるわけない。滑車か機械仕掛けを使っただけだろう」
「そんな証拠はどこにも無い。それに、研究棟と教室棟の間だって、姿を消して宙でも飛べなくては行き来できないんじゃないか」
「盗人を幽霊だと信じているような愚か者には、方法を思いつかないだけだ」
「お前らだって説明できてないだろ。そういえば、教養学部からは何も盗まれていない。幽霊に散らかされただったな。間抜けめ」
学生たちはお互いに罵倒を繰り広げている。昨日の盗人について、早くも騒ぎになっているようだった。しかし、彼らの態度は議論を行う以前の問題のようだ。
「君たち、やめないか!」
ルークラフト卿や他の教授が現れて学生たちを引き離した。それでも学生たちは睨み合ったまま、幽霊だの神罰だの迷信じみた事柄について喚いている。
「我々は正当な議論を申し込みに来ただけだ! 言論を封じるつもりか! 教授は辞任しろ!」
「狂人と議論なんかできるか! これ以上騒ぐなら猛獣をけし掛けるぞ! 先に天国へ行け!」
神学部の学生による幽霊という主張も、教養学部の学生による無教養な反論も、どちらにも説得力は無かった。やがて、突如現れた図書館警察を名乗る法学部の学生たちが「許可されていない集会は解散しろ」と叫びながら、手にした刺股で逃げ惑う学生集団をどつき回すまで茶番は続いた。
「教授、大丈夫でしたか?」
「愚かな連中だ。説明できない事を逆手に取って、自分たちの主張を押し通そうとするなど」
僕たちがルークラフト卿の近くまで歩み寄ると、彼は大きく溜息を漏らした。
「研究棟の地下にも狩人の格好をした幽霊が出ると噂になっているぞ。君の事だ、ワーズワース君」
「それは初耳です。私には宙に浮かぶなんて芸当はできないのですが」
ルークラフト卿に手招きされ、彼の研究室へと向かいながら、先生とルークラフト卿は会話を続けた。
「君も折角、《迷信狩り》なんて呼ばれているんだから、今度は幽霊狩りでもしてみたらどうかね」
「幽霊狩りですか。そもそも存在しないものを狩ろうなんて、矛盾していますよ」
研究室の前に辿り着き、ルークラフト卿が真面目な表情で振り返った。
「では、犯人が幽霊ではないという根拠を示してくれたまえ」
「少しお時間をいただければ解明できるでしょう」
先生が自信たっぷりに答えると、ルークラフト卿は何も言わずに研究室へと入った。僕たちも彼に続く。ルークラフト卿は普段通りに書斎机の椅子に腰かけた。机の上には卯月の書き置きと本が乗っている。
「ところで、そちらはどうですか? ご検討いただけましたか?」
「何とも言えんな。君の解読した内容が真実かどうかも分からない」
ルークラフト卿が本を開くと、ページの間から黄ばんだ封筒が現れた。どうやら先生に送られた手紙の暗号と同じもののようだった。
「ただ、内容が真実であれば、盗人がこれを狙っていたとしてもおかしくない。……だから、まだ君が保管しておいてくれたまえ。今は幽霊狩りが優先だ」
そう言って、ルークラフト卿は手紙を再び本に挟んで先生に差し出した。
***
「遅いな」
先生は懐中時計に目をやりながら呟いた。空は赤く、陽は沈み始めている。僕と先生は医学部の研究棟の入口に立っていた。御進講の時にヴィルマーが立っていた場所だ。そこに、恐る恐るといった様子でヴィルマーがやってきた。
「何か用ですか?」
「いくつか聞きたいことがあってね。立ったままですまないが、時間はあまり取らせない」
先生はヴィルマーの肩に手を置きながら穏やかに述べた。先生のバリトンの声を初めて耳にしたヴィルマーは、その顔と声のギャップに慄いたようだった。
「盗まれた論文を取り戻してくれたようだね。実に素晴らしい」
「はあ、どうも」
「論文はどこで見つけたんだっけ?」
「研究棟の地下だ」
「おや。研究棟の地下では今朝、私の手伝いに来た学徒たちがいたはずなのだが……」
先生は肩に手を置いたまま、ヴィルマーに顔を近づけた。
「いや、記憶違いです。研究棟の外に落ちていたのを拾いました」
「そうか。そうだろうな」
先生はわざと納得したように大きく頷いた。
「スヴィーテン男爵が留守の間、研究室の鍵は誰が預かっていたのかね?」
「俺です」
「君以外はスヴィーテン男爵の研究室には入れなかったということか」
「そうですけど。ちょっと待ってください。俺を疑っているんですか?」
ヴィルマーが不安気な表情で後ずさりした。
「いや、可能性の話をしているだけだとも。どこぞの連中は幽霊の仕業だと考えているようだしな」
「まさか、そんな馬鹿な」
ヴィルマーは教室棟の三階を指差した。
「確かに俺は見たんですよ。背の低い奴が研究室にいたのを」
「果たして本当にそうかね?」
先生は教室棟のほうを振り返った。顔を上げて研究室のほうを見つめる。
「フムン。誰も見えないが」
「は?」
「誰も見えないと言ったんだ。背の低い奴がいても、ここからでは、誰も見えないと」
「……」
ヴィルマーの蒼褪めた顔を汗が伝った。研究棟と教室棟の間は三十メートル近い距離がある。今、僕たちが立っている場所はそれよりさらに短い距離だ。研究室の中に身長百五十センチメートルの者がいたとしても、その人物が窓際に寄っていない限り、地上からでは角度が足りず姿を見ることはできない。
先生は僕とヴィルマーを伴って研究棟の三階へと上がった。廊下の窓から向かい側の教室棟を見ると、ルークラフト卿の研究室に卯月がいるのが見えた。
「君は盗人を見た時、この廊下にいたんじゃないのか」
「……はい」
「何をしていた?」
「そ、それは……」
ヴィルマーは口ごもって黙ってしまった。その時、研究室の扉が開き、スヴィーテン男爵が現れた。
「もう、そのくらいでよろしいでしょう。彼も反省しているはずです」
「ス、スヴィーテン男爵!」
スヴィーテン男爵の言葉に、ヴィルマーは今にも泣き出しそうな表情になっていた。やはり、彼がスヴィーテン男爵の研究室から論文を盗み出した犯人だったようだ。
「すいません! 俺はこんな馬鹿なことを……」
ヴィルマーによれば、彼は論文を盗んで、壊した書棚をそっくり予備のものと取り換えるつもりだったらしい。そして、論文を写した後は何食わぬ顔で書棚に戻し、スヴィーテン男爵が書棚の鍵を閉め忘れたかのように装う予定だったという。
だが、論文を持って研究室を出た時、ヴィルマーは大きな誤算を発見した。向かい側にある教室棟の三階の研究室に何者かがいたのだ。焦った彼は論文だけ厳重に包装して廊下の窓から直下の薔薇園に投げ落として隠すと、壊した書棚もそのままにして、すぐさま人を呼びに行ったのだ。
論文によって白薔薇は潰れ、そして論文に香りが移った。論文を持ち帰った際に研究室に薔薇の香りが漂っていたのはそのために違いない。
「しかし、なんでまたこんなことを……」
「俺だって、こんなこと……でも仕方なかったんだ。俺にも治したい……助けたい人がいるんだよ」
そう言ってヴィルマーは泣き崩れた。多分、彼の言葉は事実なのだろう。教室棟の盗人を無視して、そのまま黙って自分の計画を進めることだってできたはずなのに、彼には通報するという良心が残っていたのだから。
「論文の内容は梅毒の治療法に関するものです。水銀中毒の副作用が出ないように調合した水銀水を用いる方法ですが、まだ臨床で実験をしていませんでした。危険なので学生には見せられなかったのです」
スヴィーテン男爵が肩を落とした。
「御進講や改革の計画で、本来の研究に時間を割けなかった私にも非があります。どうか、彼を許してあげてください」
「承知しました。後は、お二人でご相談ください」
先生はそれ以上の追及を避けた。最早、ヴィルマーから引き出せる情報もないと思ったのだろう。
先生と僕は二人の師弟を廊下に残し、研究棟を後にした。結局この日は、教室棟の研究室を荒らした幽霊の謎について進展は無かった。




