狩人狩り 六 ~ 温室
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僕たちは動物飼育施設の次に、植物園へと向かった。今、大学の植物園では紫陽花が見頃だ。見学に訪れた皇帝一家と廷臣たちも、その鮮やかな花に見入っている。医学部の教授たちは薬用植物の出来について熱心に皇帝に語り掛けているが、皇帝自身はあまりその話には興味が無いようだった。
「この青い星型の花は何?」
皇女が茎に白い毛の生えた花を指差した。
「それはルリジサというハーブです。主に強壮剤として用いられております」
「画家たちはルリジサの花から抽出した着色料で、聖母の青布を塗ってきました。これほど美しい青はありません」
あらゆる学部の大学教授たちが我先にと言わんばかりに、皇女の視線まで身を屈め、専門分野に応じた説明を始める。普段の講義もこれくらい熱心でいてくれれば、学生も苦労せずに済むというのに。
「じゃあ、あれは?」
皇女は無邪気に次々と植物を指差しては尋ねる。その様子を皇帝夫妻は楽しげに見つめているが、大学教授たちのほうは体裁を保つのに必死のようだ。
「アカンサスです。西方に広く分布する植物で、オリエントの石柱にモチーフとして施されるように実に目立つ植物で、観賞用として置いております」
大学教授たちは食い下がって必ず質問に答える。たとえ薬用でなくても誰かが説明を申し出て、その知識を開陳する。皇女にとっては良い情操教育だと言えるが、大学教授からすればこれは熾烈な知的戦争だった。
「食用の植物について、ご説明願えますかな?」
団子鼻に眼鏡を乗せた冴えない風貌の小男――ハウクヴィッツ伯爵が野菜を観察しながら言った。ルークラフト卿が新大陸で見つかった野菜や穀物について説明を行う。
トマトや茄子など色とりどりの野菜も実りを迎えているが、これらはあくまでも研究用であり、わざわざ食す者はいなかった。南の共和国ではこうした野菜も料理に取り入れているようだが、帝国の人々の舌に合うのかは不明だ。
「――トウモロコシは栄養分が少なく、南の共和国やジェピュエル総督府でしか消費されておりません。代替食糧としてはあまり有望ではないかと」
「外国で消費があるのであれば、海外輸出にも使い道があるかも知れません。先帝の代から港湾も整備されています。栽培と研究は続けられるほうが良いでしょう」
ルークラフト卿の説明に、ハウクヴィッツ伯爵が意見を返す。財務顧問であるハウクヴィッツ伯爵は、目先の利益だけでは物事を判断しないタイプのようだった。冴えない風貌とは裏腹に皇后から最も信頼されていると噂されるこの伯爵は、植物園の中ですら計算高く思慮を巡らせているのだろう。
卯月の日頃の手入れのおかげで、大学教授の盲点となるような雑草は除かれ、植物は概ね好調に成長しており、屋外の植物園の見学は滞りなく進んだ。
次はいよいよ温室のお披露目である。温室の設備の調整は、この日のためと言っても過言ではなかった。
とはいえ、肝心の植物はまだ育っておらず、長方形や円柱形の植木鉢に小さなシダやサボテンが並んでいるだけだ。その一方で、壁には蒸気弁を備えた管が張り巡らされ、水銀温度計と毛髪湿度計があちこちに設置されたガラス建築の内部は、なんとも異様な様相を呈している。
「これが温室なのですか? 他国の大使から聞き及んでいたものとは、随分と違うようですね……」
皇后が機械仕掛けの温室を見渡す。皇帝一家も廷臣たちも、温室の蒸し暑く奇妙な空間に圧倒されているようだった。新大陸の気候を再現し、僅かとはいえ植物を栽培している温室は、博物学者の庭園というよりも錬金術師の工房と言うべきかも知れない。
『如何でしょうか、陛下。この温室では新大陸の森林と同じ環境を再現すべく、最新の機器を導入しております』
モンバール伯爵がハンカチで汗を拭きながら、ガリアの言葉で皇帝と皇后に説明する。
『実に興味深い。このような……建物を私は知らなかった。ここでなら新大陸特有の植物を育てることができるということか』
『左様でございます。帝都にいながらにして、今まで紙の上でしか見られなかった新大陸の植物を直に目にすることができるようになります』
モンバール伯爵の言葉に皇帝も満足気に頷く。
『そうだとすれば、海外植民地を持つガリアの王国は、温室に関する知見を喉から手が出るほど欲しがるでしょう。モンバール伯爵?』
貴公子然とした若い美男子――外交顧問のカウニッツ伯爵が不敵な笑みを浮かべながら、モンバール伯爵に尋ねた。その深く鋭い双眸からは、人を試すような秘めた光を感じる。
『ええ、まあ。確かにそうでしょう。しかし、どこの国でも温室の技術は研究されております』
突拍子もない質問に、モンバール伯爵は突き出た目をギョロつかせながら答えた。
『カウニッツ伯爵……』
『私は別に、モンバール伯爵がガリアの出身だからと言って、問題があるとは思っていませんよ。この温室で育った植物を手土産に、大使として外国に向かうのが楽しみなのです。帝国の威信にも箔がつくでしょう』
少し狼狽えたような皇帝の視線を他所に、カウニッツ伯爵は小さなサボテンのつけたピンクの花を指でつつきながら、不敵な笑みを浮かべたまま言った。モンバール伯爵はカウニッツ伯爵の言葉を好意的に受け止めようと、張り付けたような愛想笑いを浮かべている。
「花なんて見せびらかせたところで、列強の大使の心をなびかせられるわけがなかろう……」
伯爵たちの遣り取りを遠目に見ていたバルテンシュタイン男爵が小さく呟いた。男爵の言葉は尤もだ。しかし、若いカウニッツ伯爵は自信に満ち溢れ、ガリアの言葉遣いも洗練されている。そこにはガリアの華やかな宮廷でも通用する魅力があるように見えた。
「さて、それではこの温室の特別な仕掛けをお見せいたしましょう」
皇帝一家や廷臣たちの動きに気を配るように、スヴィーテン男爵が温室の外に待機している学徒に合図を送った。
外で屍霊術の鐘の澄んだ音が響いた。それと同時に屍人形が機械を動かし始める。船舶や鉱山で排水に用いられるポンプが上下し、汲み上げられた水の流れる音が聞こえてくる。
水は温室上部にぶら下がった水樽まで引き上げられたようだった。水が一定まで貯まると、水樽の重さに応じて次の仕掛けに接続された鐘が鳴り、別の屍人形が動き出した。今度は足で大型の鞴を動かし、空気を送り込んでいく。
何が起こるのかと温室にいる全員が天井を見上げた次の瞬間、水樽から飛び出た管に別の管から空気が噴射され、霧が舞い散った。温室上部の毛髪湿度計がゆっくりと稼働し、湿度の上昇を観測する。人工の霧がガラスの天井を覆い、そこに淡い虹が現れた。
『なんと幻想的な……。素晴らしい』
皇帝が感嘆の声を漏らした。虹の出現は計算外だとしても、人工の霧は間違いなくこの仕掛けが意図したものだ。今回はパフォーマンスを目的としたものだったが、この仕掛けは暖房による温度の上昇を抑えつつ、空中に水分を補給する確実な方法だった。
上手く仕掛けが作動して一段落したところで、一行は温室を出た。夏場に蒸し暑い温室での長居は無用だった。
「丁度良い機会ですから今ここで、この温室の設営に尽力し、怪現象の調査を成功させた調査官の皆様をご紹介いたしましょう」
スヴィーテン男爵が先生、卯月、僕たちに皇帝一家の前へ出るように促した。御進講の途中で紹介されるとは言われてはいたものの、急な流れに緊張が一気に高まる。スヴィーテン男爵からは地元の言葉で挨拶して構わないとは言われていたものの、どうしたらよいか僕は直前まで迷った。
『アルデラ伯領での調査を担当いたしました、ミシェル・ワーズワースと申します。この度は皇帝、皇后両陛下、皇女殿下への謁見をお許しいただき、身に余る光栄と存じます』
先生が三角帽を脱いで深々と頭を下げた。先生の口から出てきたのはガリアの言葉だった。皇帝に配慮したようだ。
「貴方があの調査報告書を書いた調査官ですね。貴方の働きには私も感謝しています」
「勿体ないお言葉です、皇后陛下。すべては帝国の発展と平穏のため」
先生は皇后の言葉にも慇懃な態度で応えた。普段の立ち振る舞いからは考えられないほど畏まった先生は、一歩引いて固まっている僕と卯月に目を向けた。
『彼らは今回の調査を支援してくれた私の助手です。どうか彼らからもご挨拶を』
皇帝一家と廷臣たちの視線が集まる。僕の体温は温室に逆戻りしてしまったかのように高まってしまった。
「ワ、ワーズワース調査官の助手を務めました、ナジ・カミルです。このような機会をいただき、誠にありがとうございます」
「先程、野牛の芸を見せてくれた学生ですね。貴方も学問に励んで、その力を役立ててくださいね」
「は、はい!」
皇后の大らかに微笑みにも、緊張のあまり言葉が口から出てこなかった。急いで簡単な挨拶を済ませると、僕は逃げるように先生の後ろへと下がった。次は卯月の番だった。
「アルデラ伯爵カーロイ・ジグモンド様の下で、庭師として御勤めさせていただいておりました、松本卯月と申します。私めのような者に御挨拶の機会を設けていただき、感謝いたします」
卯月はコルヴィナの言葉で感謝の意を述べた。コルヴィナの言葉に通じていない皇帝に、皇后が耳打ちして卯月の挨拶の内容を伝えている。皇帝は見慣れない東洋人の少女に対して、どう反応すべきか少し戸惑いがあるようだった。
「彼女は調査だけでなく、屍霊術を用いた温室の仕掛けについても考案したのですよ。実に素晴らしい才能を持っています」
コルヴィナで良い経験の無い皇帝に対して、スヴィーテン男爵が取り繕うように付け加えた。その時、シュマルトン老侯爵が杖を手に歩み出てきた。
「アルデラ伯……松本と言うと、カーロイ家の家内騎士であったはず。何故に庭師など?」
「それは……」
「いや、申し訳ない。今の言葉は聞かなかったことに」
老侯爵の問いに卯月が言葉を詰まらせていると、老侯爵は頭を振った。
「先の異教徒との戦争で、先代のアルデラ伯はコルヴィナの大貴族の中でも最も果敢に戦った者の一人。アルデラ伯に続いて、彼の配下も多く命を落とした……。コルヴィナにとってカーロイ家の者たちは、王家に血と命を捧げた英雄ですぞ」
そう言って老侯爵は卯月の手を取った。
「その後裔ともなれば必ずやコルヴィナの、いや帝国のお役にも立つでしょう」
陸軍元帥でもある老侯爵のお墨付きで、卯月の紹介は締め括られた。歴戦の将軍の後ろ盾もあって、卯月は正体不明の東洋人の庭師ではなく、皇帝にも大貴族の有能な家内騎士の子孫として認識されたようだった。
「同じコルヴィナ出身の者として、同国人の栄誉は私も嬉しく思います。どうかアルデラ伯爵にもよろしくお伝えください」
老侯爵を支えていた若侯爵エステルハージ・アンドラーシュも卯月に挨拶を述べた。
「現在、帝国軍ではコルヴィナ出身の貴族の子弟から、陛下の近衛兵を編成する案が出ております。手短かではありますが、是非、アルデラ伯爵にも御通達いただければ幸いです」
僕たちにそっと耳打ちして、若侯爵は老侯爵を支えながら次の見学先である標本館へと向かう一行の中へと戻っていった。
アルデラ伯爵が皇帝の近衛兵……。全く想像のつかない姿だった。若侯爵には申し訳ないが、今の話こそ聞かなかったことにすべきだろうと、僕は思ってしまった。




