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狩人狩り 一 ~ 皇帝

 皇族と廷臣の一行が帝都の新市街(フォアシュタット)北西に建てられた帝国大学へ到着したのは、時計の針が十時を回ろうかという頃だった。

 今日という日は、ようやく帝位に落ち着いた皇帝に、大学教授たちが初めて御進講を行う記念すべき日だった。


 朝九時四十五分頃、帝都の中心部から西に五キロほど離れた緑地にある夏の離宮から、帝都の郊外(フォアオルト)新市街(フォアシュタット)を区切る城壁を抜けて、貴人の一行が四頭曳きの儀装馬車に乗って市内に入った時には、大勢の市民がその様子を間近で見ようと集まっていた。街路を挟む建物からも、窓から身を乗り出して市民が手を振っている。


 こういった高貴な行列がある日には、馬車が通過する予定の街路に面した建物の主たちは、見物のために窓際の部屋を金で貸し出すのがお決まりになっていた。そのおかげで、市内の人通りは行列のいる側といない側で、喧騒と静寂のコントラストを描いている。


 僕は大学の校舎の窓から、市内を行く貴人の一行を遠目に眺めていた。とは言っても直接、彼らの馬車の行方を追うことはできない。だが、市民の歓声から馬車がゆっくりと彼らの間を通過する様子を伺うことはできた。


――皇帝陛下万歳! 皇后陛下万歳!


 市内は皇帝夫妻を称える歓声で満たされていた。時折、花束や帽子が宙に舞うのも見える。帝都で皇帝夫妻を敬わない者は一人として存在しないかのようだった。


 そして、実際にそうなのだろう。若く美しい皇后は、女王として王冠諸邦コルヴィナを束ね、コルヴィナの大貴族(マグナート)とともに敵対する選帝侯同盟軍を打ち破るきっかけを作ったのだから。皇帝のほうはと言えば、即位前は皇帝家に婿入りした身であったため、女王の戴冠式の間ですら単なる添え物扱いされていたが、念願の帝位を手に入れたことで、最近になってから皇后と並んで尊敬を集めるようになった。


 帝国軍と選帝侯同盟軍の戦いも今や膠着状態に陥り、和平が結ばれる日も近いと噂されている。結果がどうなるかは蓋を開けるまで分からないが、皇帝が帝都で内政に目を向ける時間を作れるということは、戦況はそこまで悪くないのだろう。


 僕は貴人たちが大学を訪れ、しかも彼らに名前を紹介されるという名誉に与かった興奮から、いつもより楽観的な気分になっていた。


 そう。なんと先生や卯月とともに、僕たちはアルデラ伯領での怪現象の調査が評価され、御進講の折に皇帝に挨拶する機会を得ることになったのだ。僕の人生でこれほどの幸運は今まで存在しなかった。

 いつもは面倒な雑務を押し付けてくるばかりの担当教授が、教授会でこのことを打診し始めた時には、僕は神の存在を確信した。


 そのような経緯(いきさつ)で、僕は学生としてはただ一人、名立たる大学教授たちとともに皇帝の前に並ぶことになっている。他の騒がしい学生連中の大半は御進講が終わるまで寮や学外に追い払われていた。尤も、スケジュールとしては正講義も終わる時期で夏休みも近いので、気の早い学生はさっさと帰郷し始めていたが。


 誰もいない校舎は暗く澱んだ雰囲気に包まれている。一方で、野外にある植物園や動物の飼育施設はこの日のために整備され、夏の陽気に相応しい姿を見せていた。

 植物園の入口の一画にある薔薇園は、上から見ると赤い薔薇と白い薔薇が鮮やかなツートンカラーを描くように植えられている。赤と白の帯で作られた帝都の徽章(きしょう)と同じ模様にするためだった。


「カミル君。君も正門まで来たまえ。もうじき陛下がご到着なさるぞ」


 杖を持った恰幅のいい紳士が階段の踊り場から僕に声をかけてきた。僕の担当教授、マシュー・ギルマン・ド・モンバールだった。


 モンバール伯爵はいつもと変わらず、どこを見ているか全く分からない、魚のように突き出た目をギョロつかせながら階段を降りていった。ガリアの王国から訪れたこの《半魚人》じみた紳士が御進講を行うことを、皇帝一家はどう思うのだろうか。


 僕が正門に行くと、既に大学教授や関係者たちが揃って貴人の一行の到着を待っていた。すべての学部――神学部、法学部、医学部、教養学部の四学部からそれぞれ一、二名ずつ、今回の名誉ある役目を仰せつかった大学教授が肩を並べて、二手に分かれて列を作っている。しかし、その中に先生の姿は無かった。


「やあ、ワーズワース君を見なかったかね?」


 僕の姿を認めて、先生の師匠であるサー・ランドルフ・ルークラフトが僕に尋ねた。先生と同じくアルビオンの連合王国出身で、長身痩躯に面長のこの博物学者は、これから式事が始まるにも関わらずリードを付けた三毛猫を胸に抱いている。


「いえ、見ていませんが……」


「そうか。できれば君にワーズワース君を探してもらいたいのだが。私がここから離れたらウルタールが不安がると思うのでね」


 ルークラフト卿はウルタールという名の愛猫を撫でながら、他人事のように言った。

 仕方ない。先生のいる場所は見当がついていたので、僕はすぐに医学部の研究棟に向けて駆け出した。馬車の速度は極めて遅かったから、今からでもまだ間に合うだろう。


 医学部の研究棟は僕の所属する教養学部の教室棟と植物園を挟んで隣り合う向かい側にあった。出入りする機会は殆ど無い。


「よお、珍しいな」


 研究棟の入口には、番兵のように立っている学生がいた。実際、万が一の事態が起こらないように、警備のために立たされている学生の一人だった。


「ヴィルマー、ちょっと中に入れてくれないか。先生を、ワーズワース先生を呼ばないと」


「あのルークラフト教授お付きの、男装の美人秘書か……。いいぞ。多分、まだ解剖学教室にいると思う」


 美人秘書? あの人も口を開かなければ花ということか。しかし、それが棘のある薔薇であることは、この遊び好きの学生には告げないほうがいいのかも知れない。

 内科医志望の学友、ヴィルマーは欠伸をしながら入口の鍵を開けた。


 教会や病院の遺体安置所(モルグ)と同じく、研究棟の地下にも屍霊術のための解剖学教室があった。神学部や医学部の出身者からの多額の寄付により築かれた解剖学教室には、ヴァルド市の教会にあった遺体安置所(モルグ)とは比べ物にならないほど多量の凍血石が設置され、夏場でも凍えるほどの冷温を保っている。


「先生! 早く出てきてください! 皇帝陛下がいらっしゃいますよ!」


 僕が解剖学教室中に響くように声を張り上げると、遺体に聖別を施すための大理石の祭壇の上で、一つの影が動いた。


「時間か。もう少し涼んでいたかったのだが……」


 先生は気怠そうに、自分の脇に置いていた三角帽(トリコーン)に手を伸ばした。


「何を呑気なこと言ってるんですか。早くしてください」


「わかった、わかった」


 先生の手を引いて急いで正門まで戻ると、丁度、貴人の一行が到着する寸前だった。僕たちは慌てて列の最後尾に並んだ。僕の目の前には、コルヴィナの貴婦人が着る簡素なベルベットのドレスを纏った卯月が立っている。


 アルデラ伯爵に頼んで、急遽、送り届けてもらったドレスではあったが、それを着て皇帝に謁見するのが一介の庭師の少女だとは誰も思うまい。しかし、着慣れないドレスに身を包んでいるせいか、卯月の顔は何となく気難しい表情に見えた。


 純白の軍服を纏った帝国軍の騎兵に先導され、皇族と廷臣たちの儀装馬車の行列が大学の前へと横付けされる。儀装馬車の周囲は騎兵によって守られ、その遥か後方で、市民の接近を歩兵たちが阻んでいた。


 まずは廷臣たちが儀装馬車から降り、大学教授たちの列に加わった。官房長のバルテンシュタイン男爵、陸軍大将のダウン伯爵、外交顧問のカウニッツ伯爵、財務顧問のハウクヴィッツ伯爵、そして陸軍元帥のシュマルトン侯爵。廷臣と言えども夏場に厚手の正装は辛いらしく、その服装は些か控えめに思えた。


 齢九十のシュマルトン老侯爵はコルヴィナ随一の大貴族(マグナート)エステルハージ家の出身であり、コルヴィナ王国軍独自の真紅の軍服に身を包んでいた。同じく真紅の軍服を着ている孫の若侯爵に手を握られ、杖をつきながら老侯爵が最前列に並ぶと、いよいよ皇帝一家の乗った儀装馬車の扉が開いた。


 きっちりと髪粉をまぶした白いかつらをかぶった皇帝は、その帝位に相応しい金糸で彩られた衣装で現れた。その顔立ちは近寄り難い威厳に満ちた支配者というより、闊達として朗らかな印象を湛えている。


『テレーゼ、足元に気をつけて』


 皇帝は先に馬車から降りると、すぐに皇后に手を貸した。彼の言葉は確かにガリアのものだった。ガリアの王国に近い領地を故郷とする皇帝は、帝国の公用語よりもガリアの言葉を話すほうが慣れているようだった。


「ありがとう、フランツル」


 皇帝に続いて皇后が大らかに微笑みながら現れた。皇后も称号に見合うだけの宝飾品をあしらった優美なシルクのドレスを纏っている。


『さあ、マリアンネ。帝国大学に着いたよ』


「お父様、ありがとう」


 皇后が馬車から降り立つと、皇帝は足を患っている第二皇女を馬車の中から抱きかかえ、召使いの少年が押す車椅子へと優しく彼女を降ろした。皇帝夫妻には他にも子供はいるが、幼い子供は置いてきたようだった。今年、十歳になったばかりの第二皇女のみが、皇帝夫妻とともに御進講に付き添うようだ。(第一皇女は誠に残念ながら生まれてすぐに亡くなった。)


「ようこそ、お待ちしておりました。皇帝陛下、皇后陛下、皇女殿下。皆様をお迎えすることができ、帝国大学一同、誠に光栄です」


 大学教授たちを代表して、医学部の教授であり侍医長のゲラルド・ヴァン・スヴィーテン男爵が挨拶する。彼も北方の連邦共和国から招聘(しょうへい)された廷臣の一人ではあったが、今日は御進講を行う教授の一人として皇帝を迎える側にいた。


 スヴィーテン男爵の両脇からルークラフト卿(と彼の猫)とモンバール伯爵が歩み出て、皇帝一家に記念品を贈呈する。皇帝には金属的な光沢を放つ新大陸の昆虫と鉱物の標本、皇后には薔薇のブーケと新大陸の宝石で作った指輪、皇女には新大陸の鳥類の羽で作った羽ペンと美しい髪飾りが贈られた。


「ありがとう、スヴィーテン男爵。こんな素晴らしい贈り物をいただけるなんて、思いもしませんでした」


「滅相もないことです、皇后陛下。今日(こんにち)、我々の成果があるのも帝国が発展し、両陛下の眷顧(けんこ)に与かっているからこそです」


 記念品は帝国大学で営まれている研究と冒険の成果を如実に示すためのラインナップだった。家族の嗜好を綿密に調査したスヴィーテン男爵が厳選した記念品を、皇帝一家は気に入った様子で満足気な笑みを浮かべながら互いの品について暫し談笑した後、それらを近衛兵に預けた。


 さて、歓迎が終わった後はまず皇帝一家と廷臣を引き連れて大学内の施設の見学が始まったのだが、最初に訪れた動物飼育施設について、僕は記憶がはっきりしていない。幼獣のうちに新大陸から連れてこられ、成獣まで成長したバイソン――黒っぽい(たてがみ)と角が生えた大きめの牛――がこの日に限って機嫌が悪かった気はしている。


 そして、檻から放たれた野牛が木の柵を破り、僕の眼前まで迫ってきたような夢を見たような……。

 幸い怪我人はいなかった。この若い野牛は威嚇行動をとりはするが、人を襲うほど獰猛ではなかったからだ。


 それに、大学教授や学徒が命懸けで新大陸の自然に立ち向かっていることが雄弁に証明されたのだから、皇帝一家や廷臣にも良い印象を与えることができたことだろう。皇后に至っては笑顔で「野牛にこんな芸当を仕込むなんて、面白いことをお考えになるのね」とまで言っていたような朧げな記憶もあるし。


 何れにしても僕は動物飼育施設の見学について、その詳細を思い出せない。それ以後、僕はバイソンに絶対に近づかないようにモンバール伯爵から厳命を受けたが、普段の雑務に比べれば実に些末な指示だった。

18/05/17 ちょっと不定期更新になります。二話以降の投稿も今しばらくお待ちください。

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