陰謀狩り 九 ~ 副伯
ギゼラの薬の効果があったのか、翌朝には僕の体調はほとんど回復していた。僕の口から噴き出したのは伯爵自慢の赤ワインで、血ではなかった。大事に至らなかったおかげで、朝食には燕麦の粥をすすり、僕は一人で歩けるようになっていた。
「ご無事で何よりです。でもお酒は控えて。今後もハーブを使って毒を出すようにしましょう」
それでもギゼラはあくまで慎重だった。ヒルシュ氏も顔負けといった様子で、僕の看病を彼女に一任した。
昼食時になり、昨晩のように人々が広間で再び顔を合わせる。しかし、晩餐会のような陽気さは欠片もなかった。座っているのは伯爵、副伯、ヒルシュ氏、連隊長、州長官らだけだった。今日はアウレリオ司祭だけが広間におり、傍に司教の姿はなかった。
毒を盛った犯人捜しに関しては、司教の期待したように名乗り出る者は皆無だった。晩餐会に参加していた貴族は騒動に巻き込まれるのは御免というように、その日のうちに帰った者が大半だった。伯爵の居城に残ったのは怪現象の調査に関わる先生と僕、州長官、連隊長、教区長、司教と司祭、カーロイ家の人々だけとなった。
幸い、晩餐に参加した貴族の中に毒の被害を訴える者はおらず、伯爵配下の召使いの中に犯人がいるのではないかと、副伯は疑っているようだった。しかし、誰にどう聞いたものか。
毒を盛ることはできても、その動機や目的がわからないので、怪しい人間を片っ端から調べ上げるより他に方法が思い至らない副伯は、傍から見ても明らかに苛立っていることが分かった。一方で、伯爵は普段の青白い顔から色味が失せ、毒を盛られた僕よりも不健康に見えた。
「カミル君、もう大丈夫なのかい? 昨日は本当に済まなかった。狩りもそうだし、晩餐でもあんな……」
伯爵が僕の手をとって何度も頭を下げる。そこまでされるとこちらが恐縮してしまう。
「怪現象の調査の前にこんなことが起きてしまうとは……。伯爵閣下、まだ誰の仕業なのか分からぬのですか?」
州長官のカールマーンが厳しい視線を伯爵に向けた。伯爵は狼狽えた様子で、口をもごもごと動かし、言葉に詰まってしまった。
「州長官殿、今ちょうど召使いたちに怪しい動きをしていた者がいなかったか調べさせているところです」
副伯が手を組み、視線を落としたまま代わりに答えた。
領主たる貴族の居城でこんなことが起きれば、貴族の威信に関わるだけでなく、王国から厳罰が下されることもあり得た。領主が領民の罪を見逃したり刑の執行を拒んだりすれば、自らの領地や財産まで剥奪される恐れがある。
それだけ領主の義務と責任は重かった。伯爵も副伯もそれを知った上で、焦りを隠せずにいるのだ。
そして、州長官としては、辺境の貴族と言えども、大貴族の一人がこのような事態に陥れば、その尻拭いをさせられることは分かりきっている。さっさと予定通りに怪現象の調査を始めなければ、自分の首すら絞められかねないという思いがあるのだろう。
お互いにこんなところで小石に躓いている暇はないというのが一致した見解のようだった。
その時、初老の召使いが部屋に入ってきて、副伯に何事か耳打ちした。副伯は召使いの言葉に一、二度頷くと、小さくため息をついた。
「昨晩、世話をした者に話をさせましたが、特に変わったことはなかったそうです。来訪者の中にも怪しい動きをした者はおりませんでした。毒を持ち込むようなことはできないはずです」
「まあ、それは誰だってそう答えるだろう。召使い同士で庇い合っていても不思議ではあるまい」
項垂れる副伯に、連隊長も諦め半分といった調子で応えた。
「そもそも、どの料理に毒が盛られていたのかも分からぬのでしょう。毒見の後で給仕していた者が、こっそりと毒を盛ったのではないですか?」
州長官が物事を整理しようと言葉を付け加える。
「あるいは、料理ではなく、杯や食器に毒を塗っておいて、それを使うように仕向けたのかも知れませんな」
毒の性質によっては、たとえ銀食器であっても、それが変色せず、毒を見抜けない場合もある。食器に毒が塗られていたということも確かにあり得る話だろう。
「ですが、杯や食器には、何かついているような跡はありませんでした」
僕は反論するつもりは毛頭なかったが、州長官の発言を否定するように、自分が確認した事実に基づいて意見を述べた。
「それに、誰がどの席に座ってどの食器を使うかなんて分かりません……誰かを狙うとしたら、とんでもない大博打になってしまいます」
「だとすれば、犯人はとんでもない狂人だ。そうでなければ、こんな騒ぎを起こすまい。兵士を呼んで、関係者全員を縛りあげて調べるべきだ」
連隊長が掌でテーブルを叩き、その音に伯爵がびくりと肩を震わせた。
「昨日今日ですぐに事実が明らかになるとは私も考えておりません。しかし、調査官殿たちが安全に出立できるように計らっていただかねば、それは別途、女王陛下に報告させていただくことになりましょう」
州長官は忍耐強く、しかし冷徹に述べた。
統治者から好意を受けなければ、封建貴族は生きていけない。王宮の意向に背けば下賜された私領を取り上げられ、領民のいない処女地に飛ばされることも珍しくないのだ。
王宮と領民の狭間で、どちらの意向を尊重すべきか天秤にかけ、苦しむ貴族は少なくなかった。伯爵は今まさにその分かれ道にいた。
その一方で、王立アカデミーの委任を受けて帝国から来訪した先生には大きな責任は無かった。さらにその助手である僕の責任など、本当に些細なもののはずだった。
勿論、下手な立ち回りを演じれば、地元の権力者に謀殺されかねない危険な立場であることも確かではあったが、僕が伯爵の友人であることもあってか、そういった真剣さは道中でも先生から微塵も感じられなかった。せいぜい、帝都の喧騒から離れて、しばらく長閑な辺境で旅行を楽しむが如くという態度だ。
実際に謀殺されかけた僕のほうは襟を正すべき時が来たと考えているが、先生の思考はその表情からは計りかねた。
不意に広間の外から騒がしい声が聞こえてきた。
「あら、こっちの部屋で合っていたかしら」
「伯母様、無理なさらないでください。私にお任せを」
「司教様、足元をご覧になってください。そこは段差が……」
姦しい声に食器の触れ合う音が交じり合う。
広間に入ってきた伯母、司教、ギゼラ、三人は、皆、料理の皿を持っていた。彼女らの後に続いて、教区長が初老の召使いとともに水差しとワインを持ってきた。
「さあ、どうぞ召し上がって。それでは、皆もお料理を置いてちょうだい」
唖然としている男たちをよそに、伯母がパンの入ったかごをテーブルに置いていく。
「司教!」
アウレリオ司祭が目を丸くして立ち上がる。
「どう。似合うかしらね?」
司教は普段の法衣ではなく、前掛け付きのスカートを身に着けている。しかし、幾何学模様の花柄を刺繍した前掛けには汁やら粉やらが飛び散っており、阿鼻叫喚の様相を呈していた。
「お客様にこのようなことをお頼みするのは申し訳ないとは思ったのですが、昨日の今日ですから……」
伯爵が恐る恐る釈明する。
「私の従僕ではなく、今回の件に関わっていないと思う方にお食事をご用意いただきました。どうかお許しください」
賢明というべきなのか、大胆というべきなのか。伯爵は頭を下げながら、何度か先生のほうを一瞥した。
間違いなく、これは先生の入れ知恵だろう。先生のほうはと言えば、素知らぬ顔で料理の皿を受け取っている。
「さあ、どうぞ」
音もなく近寄ってきた教区長が僕の背後から銀杯を差し出す。
「杯は縁から底まできちんと調べて、一つ一つ清潔な布で拭き取っています。どうか御心配無く」
「あ、ありがとうございます……」
これで毒のほうは心配ないかも知れないが、あの司教の料理について考えると、味付けのほうが不安になってくる。予想通りと言うべきなのか、昼食は晩餐と比べて、前衛的な味に変化していた。普段、美食に浴していると思われる伯爵や副伯、連隊長らは渋い顔でスープを口に運びながら、水差しから何度も水を杯に注いでいた。
貴族の中では、州長官だけが無表情のまま黙々と料理を片づけていた。事務作業のような規則正しい彼の動きは、最初に郵便局で出会った時と同じく、その裏にある質素な倹約家としての一面を伺わせた。
先生だけは満面の笑みで満足気に料理を平らげ、司教らに謝辞と賛辞を送っていた。人に取り入るチャンスを逃さないという意味では、先生の右に出る者はいないだろう。
結局、昨日の騒ぎが嘘だったかのように、昼食は平和裏に終わった。まだ毒を入れた者が分からない以上、料理について文句を言う者は最後まで皆無だった。
***
昼食後、先生と僕が客室で事件について考えを巡らせている時、思わぬ客人が現れた。当世風のカツラを脱いで、薄くなりつつある髪を束ねた痩身の男は、不機嫌とも諦めともとれる微妙な表情で先生の応えを待った。
「少し相談を。構わないか」
「どうぞ、お掛けください」
顔に疲れを滲ませながら、副伯は綿の詰まったソファに腰かけた。
「広間では話さなかったが、なるべく穏便に事を済ませたいからだ。だから、君たちだけに話す」
「勿論、他言いたしません」
先生は真剣な眼差しを副伯に向けている。副伯は先生を信頼していないと思っていたが、少なくとも非常時に活かせる知恵を持っているという点は認めているようだった。
「毒見役を務めていたギゼラが、昨晩、調理場で庭師を見たと言っている。嘘かどうかはわからん。ただ、調べないわけにはいかん」
「では何故、我々が?」
「伯爵とヒルシュ殿は庭師と懇意にしている。尋問しようとすれば躊躇するだろうし、他には庭師と聖職者を近づけたくない理由がある」
その理由は、庭師の少女が東洋人であるということで間違いない。新大陸の先住民を教化しようと言っていた州長官や、関係者を縛り上げようと言っていた連隊長に任せれば、必ず問題が起こるだろう。
今、城にいる者の中で最も中立性の高い立場から、この事件を調べられるのは先生と僕たちの二人だけだと、副伯は判断したようだった。
「かしこまりました。最善を尽くしましょう。私の専門は尋問ではありません。しかし、何かあれば必ずご報告いたします」
そこまで聞くと、副伯は上着のポケットから巾着袋を取り出し、テーブルに置いた。巾着袋がテーブルに置かれた時、僅かに硬貨の擦れ合う音が聞こえた。心付けということだろう。しかし、先生はすぐには巾着袋には手を付けず、代わりにスケッチブックと手帳を手に取ると、素早く調査の準備を始めた。
「君もボサっとしていないで、隣の部屋から計測器の鞄を持ってきてくれ」
「は、はい」
先生の言葉に我に返ると、僕は部屋の扉に近づいた。
「できるだけ他の者に感づかれないようにしてくれ。もし何もわからなければ、申し訳ないが君の悪酔いだったということで、事を終わらせたいのだ」
副伯は小声で付け加えた。
もしかすると、それが最も現実的で穏便な結論なのかも知れなかった。そう。新大陸の噂のように、毒そのものが勘違い。真実は若者の酩酊による吐瀉。しかし、先生に調査を依頼してしまった後では、これは却って期待値の低い仮説になってしまったように思われた。
僕が荷物置き場になっている隣の部屋から戻ると、部屋の雰囲気は明らかに険悪な方向に変わっていた。
「どうかされましたか」
「……」
副伯は苦虫を噛み潰したような表情で沈黙している。
「調査というものは、常に冷静に客観的な立場で行わねばならない。だから、無礼を承知でお尋ねしたのだ。伯爵閣下がもし亡くなったら、誰がアルデラ伯の地位を継ぐのか」
先生は穏やかに述べた。それは、つまり。
「ワーズワース殿は、私が爵位を狙っているとお考えのようだ。そのためにこのような陰謀を仕掛けたのだと」
大きくため息をついてから、副伯も答えた。まさか。先生は副伯が黒幕だと言うのか。
「伯爵には姉君がおられる。既に他家の貴族に嫁入りしているが。もしも伯爵が亡くなれば、彼女が伯領を継ぐだろう」
険悪な雰囲気の中でも、副伯は淡々と事実を話した。
「私がアルデラ伯になるのであれば、カーロイ家の従姉弟二人が突然亡くなり、さらに滞りなく領地が相続されなければならん。その計画の第一歩が今の状態であるなら、私が伯爵になるまでに異教徒との戦争が再開しているだろうな」
副伯はぶっきらぼうに皮肉を付け加えると、腕を組んで先生を睨みつけた。
「謀殺の計画が上手く進まず、失敗したから誰かを実行犯に仕立て上げて手打ちにしようなどと、私が考えていると思っているなら間違いだ。私は早々に君たちがこの城を立ち去って、調査を開始することを願っている」
「勿論、そうだと良いのですが」
先生は負けず劣らず冷たく突き放すように言った。
「庭師の小屋を調べに行ったら、その中で庭師が死んでいて、我々が罪を告白する書き置きを発見するなんてことが、ないとも言い切れますまい」
「……」
副伯は反論しなかった。ただ、腕を組んだまま目を閉じて沈黙している。
「どうか、ご無礼をお許し下さい。こちらはお返しいたします。ですが、副伯閣下のご希望通り、誰にも他言せず調査はいたします」
先生は硬貨の詰まった巾着袋を副伯のほうへと押しやると、いつもの三角帽を手に取った。
副伯は無言で巾着袋を上着のポケットへと戻した。しかし、副伯が先生を買収できないと悟ったのか、本心から調査を依頼しているのか、それは庭師から話を聞くまで分からない。
先生と僕は部屋の外で副伯と別れ、庭園へと向かった。




