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第五十七話・教育という言語に対するとりとめない個人的私見

 子どもはなぜ勉強しないといけないのでしょうか。こんな当たり前のことを、元子どもであり、現在大人になった私が考えてみました。



 我が国における義務教育は小学校と中学校です。この期間は大人になってから基本的な知識を最低限常識として持っていてほしい事象を学びます。特に小学校の授業は全部重要です。教科書に載っている授業以外に行事やクラブ活動通じて人間関係その他もろもろを学びます。それも勉強のうちです。

 しかしながら保護者や教師が俗に勉強しろ、というのは教科書上に掲載されている事柄を学ぶことです。テレビやゲームやパソコン上で仕入れた教科書掲載外の知識は勉強ではないのです。はっきりいって受験勉強上等です。私が置かれていた家庭環境はそうでした。私は学校以外にも塾や通信教育もやっていました。


 幸いなことに私は幼いころから基本的に新しい物事を知るという行為が好きでした。こういう書き方をすると格好がいいですが、クラスでは友だちゼロの子供で本好きになるという過程を経たからです。学校とは私にとっては読書の場、もしくは人間関係で不快な経験をする場でした。読書が好きというのは、起こりうる受験勉強に自然と適応していました。国語は特に有利ですから成績はよかったです。親は私のことを「成績のよい自慢の娘」 と言っていました。言われるたびに複雑な思いがしましたが、相手が喜んでいるのでこれでよいと思っていました。この感情に関しては、良いか悪いかは話がそれますので論じません。 


質問 ⇒ なぜ勉強しないといけないのか?


回答 ⇒ 勉強をしっかりやっておくと将来の可能性の選択肢が多くなるから勉強した方が将来的に何かとお得だからです。


(ついでに心の隅にちょっぴりある感想) ⇒ しかし多様性と個性が重視された現在となってはその「将来」 って何だろうかと思います。



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 大昔、高校生であった私はある先生に「なぜ勉強しないといけないのか」 と聞いたことがありました。自分なりにすでに答えを出していたのですがほかの人の意見も聞きたかったのです。前後の状況はよくは覚えていないのですが、先生から疑問があるなら何でも聞いてくれと言われて私は素直に聞きました。


 その先生の答えは「なぜそんなことを聞く? 生徒は黙って勉強しておけばいい。それがお前らの仕事だ」 でした。しかも叱責の語調と態度で言われました。私はうつむいて席に座りましたが、心の中ではこいつに聞いたのは間違いだったと激しく後悔しました。今でもそう思っています。これって答えになっていません。


 その先生は教室では存在感のない私を納得させる答えが己から出てこなかったことと、何を血迷って今日に限って発言するのかという意味合いで不快感を覚えられたのだろうと推察しています。生身の先生は、私にとって感情的な交流がない以上は、紙製の書籍以上の親しみなぞ持てませんね。


 大人になった私が出した回答は、勉強するということは知らないことを知る、知っていることをより深く知るという行為は自分だけにわかる自分だけの価値を高めてくれるということ。己の知識欲に応じて勉強すると己が楽しいのです。満点の点数を目指すためではありません。数字や順位だけを追うと励みにはなるがおもしろくない。少なくとも私はそうでした。 


 勉強……やり方が専門的になるとその方面での研究者になれます。その分野で未踏にまでいくと全人類の益になったりします。最初は小さな好奇心から、でOK。その小さな好奇心が知識欲になります。要はそういうことを知ることが楽しいから、になるのです。


 そういう知識欲が学校で行われる学科に沿うものであれば学校の現場と本人の進路選択の充実になおよろしいでしょう。多少の得意不得意の差は努力で賄えます。その場合は学校の成績が良くなりますし、本人も親も先生も大喜びで問題なしです。


 苦痛ならば問題アリです。救いは期間限定であること。


 テストや受験が終わるまで知識を無理やり詰め込みます。徹夜オッケー。とりあえず赤点とらなきゃなんでもいいや、とか。教師も生徒もやる気なしなら双方カリキュラム消化のためだけの時間を無駄に過ごすのです。何も残りません。


 広義の意味ではなく学校における勉強ができるということは、将来行ける学校の選択肢が広がる、つまり自分が大人になってからなりたい職業につける選択肢が広がるということです。でもそれは「学校へあがる」 話が前提です。つまり学校は上のステップ、つまり更なる上の学校へあがることが主目的であるということ。それ以外の個性ある人は時にはドロップアウトされたと一般的に思われます。それもどうかと思われる話です。


 その不特定大多数が通常とされている世界を目指しそれを最初からわかっている子供は、もしくは親がわかっていて子供がそうすべきだと小さい時から教えこんでいたという場合、早い時期から要領よく受験勉強をスタートします。後継ぎ問題などで専門職の資格取得並びに就業がどうしても必要なほど、必要な勉強をピンポイントで絞ってやります。現在の教育体制がそうなっているのですからそれに沿ってやる。


 一方受験なぞ関係ないさというご家庭の子供でも、学校に行きさえすれば最低限の教養が身につくようにプログラミングされているので、義務教育だけでOKならば特に塾などへ行く必要はありません。塾というものは受験勉強に有利なテクニックを教えてもらうためにあるのです。必要なければ不要です。だけど競争倍率が高い受験校を目指すならば学校の勉強だけでは不利です。塾なしで志望校に合格できる人もいますけど、少数です。そんな経済効率のよいお金もかからない頭の良い子供は少ないのではないでしょうか。とりあえず大多数の人は努力して勉強=競争しないといけない。世の中の歯車の一つとして、税金も支払わねばならぬ。世の中は助け合いをしないといけないという不文律がありますから、そういう税金搾取用働き蜂層も数多く必要なのです。


 さてそういう通常とされている世界にて高給が保障されている専門職や、社会的身分が高いキャリアは皆が将来の安定を求めますので狭き門になります。必然的に勉強がよくできる人だけがはいれるようになります。それを他覚的に知るにはちゃんと勉強したか、どのくらい努力してそれが身についているか試験するしかないのです。頭の中の能力を知るには、時間を決めて原始的に紙でやるかもしくは電子ペーパー上で質問を出して答えを書かせてその正解率を競わせるしかありません。このやり方でもって中学や高校、果ては大学入試を突破して無事卒業するまでがんばれるかどうかを図るバロメーターにするのです。


 通常社会が求める真面目さ、勤勉さ、他人への配慮、やさしさ等はまだ未成年なら未熟だろうし、人は変わることができる、ということで性格の悪さなどはこの時点ではわかりません。成績だけ良くて人の気持ちが理解できない人でも学力の高さで有名大学へ入学できます。有名国立私立大卒、もしくは医師や教師でたまにヘンな人が混じっているのはそういう理由です。そういう人も含めて入試成功者の多くは卒業後資格をとったり大学のネームバリューやコネで安定した職につけるだろう。


 子供が安楽に幸せに暮らしてほしいと思うのは親の愛情からきています。だから大人たちは子供に勉強しろというのです。ただし行き過ぎると教育虐待になります。大変残念なことですが、これで亡くなった子供もいます。心が傷ついて精神を病む子供もいます。親の愛情だというのを前提として育てると子供は混乱します。親の見栄やエゴからきているものも私は虐待の一種だと思っています。

 教育虐待の言葉が出たのでもう少し。親は小さな子供に期待をよせます。己がかなえられなかった夢を子供で……と。しかし子供は親に頼らないと生きていけません。子供にとっては全世界を親が支配している。時には己の感情も支配する。将来も。

 つまり、なすがまま、されるがままです。平成最後の春に、死にいたった目黒の五歳の少女の話はとても気の毒に思います。この場合の勉強方法は悪魔の所業です。体重制限付きですよ……ストッパー役をすべきだった実の母親が狂っていたのだろうと思う。





 今回も主題からそれまくりました。でも最初の方に書きたいことを書きましたのでこれで終わります……。


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