50話 くるくる
アパートを出てから私は実家に戻ってきた。あの日実家に戻り家族との溝をしっかり埋めたとき、義母に尋ねたのだ。
『私、この家に戻ってきてもいい?』と。義母の答えは、「勿論」とのありがたいお言葉を含んだ頷きを一つ貰った。だから私は、彼女の言葉に甘んじたのだ。
実家に戻り三日経った頃、萌が少しだけ不満を口にする。でもそれは、本心ではないことくらい、すぐにわかった。
「もう~、お姉ちゃんが戻ってから、部屋が狭い狭い」
「ごめんね、萌」
「……まぁいいんだけどさぁ」
私の部屋だった場所は、すっかり荷物で埋まってしまっていた。だから今は、萌と一緒の部屋で過ごしている。仕事は一応続けているけれど、この家からは少し遠い。なので、会社には辞める事を告げ、辞めるまでの一ヶ月はしっかり働くことにしたのだ。まぁ、遠いので不便と言えば不便だけど、今は新しい仕事を見つける気力がまったくといっていいほど湧かない。
アパートは利人さんに頼んで、荷物を送ってもらうことにしてある。けれど、まだ荷物は届かない。利人さんにも都合はあるだろうから、私は何も考えずに毎日暇な時間を過ごしていた。
暇というのは、どうしてこうも眠くなるのか。暇さえあれば眠っている。眠れば、律のことを考えずに済むから。もう、忘れなくちゃ。そう思いながらも、まだ毎日律のことを考えては、胸を痛める毎日は続いていた。
「お姉ちゃん、新しい恋をしよう」
その晩、萌は唐突に私に切り出す。萌にはちゃんと律のことを話した。彼女も律のことが好きだと言っていたので言うのに勇気は必要だったけれど、打ち明けたときの彼女の言葉は実にあっけらかんとしたものだった。
「そうなんだ」これだけ。拍子抜けしてしまった私は、萌におそるおそる聞いてみた。
「萌は、律のこと好きだったよね?」
「んー、好きだけど……彼氏にすると疲れそう」
なんという言い草。律は意地悪だけど優しいもん! と、まだ律を擁護する言葉を口にすることができるくらい、まだ私は彼を忘れられなかった。萌は律をいいな、と思ってはいたけれど、その程度の気持ちだと私に打ち明けた。
「だって、色んな人に出会うんだもん。たった一人だけに好きな人しぼるなんて出来ないもん。好き! て思ったら一直線に向かってくよ、私」
そうだったね。萌はそういう子だった。ある意味、彼女の行動派な部分は羨ましいところがある。臆病な自分とは対照的な魅力溢れる妹に、少なからず私は嫉妬していたところがあった。今でもそんな萌が、いつも輝いているようで羨ましい。萌はいつだって真っ直ぐなのに、私が捻くれていたせいでそれすらも見落としていたのかもしれない。もっとちゃんと自分を好きにならないと、この先誰も好きになれないような気がする。
「そうだね。私も萌を見習わなくちゃ」
「そうそう! 頑張ろうよ、お姉ちゃん」
今この瞬間、初めて妹と姉妹になれたような気がした。
**
萌の言葉が身に沁みて、私は確実に前に進み始めていた。今まで見ることも拒んでいた求人誌などに目を通すようになり、何か資格を取得しようと就職に役立つものを漁っていた。この先も実家でこのまま世話になるのも悪くは無いけれど、やっぱりもう自立するべき年齢になっている。とにかく、一人でもやっていけるような環境を整えなくては、そう思っていた。でも、実際は何をしたらいいのかよくわからず、これといって得意としているものもない。本当に一からのスタートが、今始まった。
雑誌をぺらぺらと捲りながら、何か良い仕事はないかと探しながら、ふと思う事がある。それは、アパートを出て行くときに投函した、律宛の手紙のことだ。ちゃんと彼に、私の気持ちが伝わったのだろうか。それだけが心残りだ。携帯の待ち受けは相変わらず律の笑顔の画像がある。けれど、いつまでたってもその待ち受けを変更することが出来なかった。
携帯を見つめ胸に抱きながらベッドに転がると、ふつふつと会いたい気持ちが湧いてくる。
――元気かな……律。今頃何してるのかな。……会いたいなぁ。
ぎゅっと握り締めた携帯。私の気持ちがどうか、彼に届いてますように。それだけを願いながら時間が過ぎていった。
手紙にはこう書いた。
『律がとても大好きで、毎日が楽しくて楽しくて仕方がなかった。律も私を想ってくれていたのに、裏切ってしまったこと、とても申し訳なく思っています。今までありがとう。そしてさようなら。律のことは、いつまでも忘れない』
誰かと幸せになって、と書こうと思ったけれど、それだけは書けなかったのだ。だってそれは、私の本心じゃないから。本当は律が今でも大好きだし、その彼の隣に他の女がいて笑い合っている姿なんて望んでいない。だからどうしても、書けなかった。律の幸せを望むなら書くべきなのかもしれなかったのに、最後の最後で私はその言葉を綴る事ができないまま。それは私の小さな小さなわがままだった。
恋愛ってどうしてこんなに難しいんだろう。気がついたら好きになっていて、色々なことを知るたびに震えるほどの喜びを感じていた。彼の言葉に一喜一憂しながらも、毎日が楽しくて……その気持ちは、今どこに行ってしまったのか。大きく溜息を吐きながら、再び携帯を見ると、変わらない律の笑顔がそこにある。どんなに手を伸ばしても届かない、眩しいほどの笑顔を浮かべている彼に、今は会いたくてどうしようもない。そんな時だった。
「え!? な、何……? どういうこと?」
ベッドの上で横になり目を閉じていた私がゆっくり目を開いたら、目の前に律が立っていた。相変わらず眼鏡が下がるのか、ブリッジを指で押し上げながら私を真っ直ぐ見下ろしている。慌ててベッドから起き上がり、律を見つめたまま体勢を整えると、律の名前を呼ぶ前に彼にきつく抱きしめられていた。
「ごめん。何度謝っても許してくれなんて言わない。でも、謝らせてくれ。ごめん、本当にごめん」
強い力で抱きしめられて頭はパニック寸前。でも、この懐かしい律の匂いが私を現実へと呼び戻す。何度も耳元で謝る律の言葉に、私は涙が滲んだ。
「律だぁ……律、律」
何度も繰り返して呼んでしまう彼の名前。呼ぶたびに彼の手が私の頭をくしゃりとなでる。触れたくても届かないと諦めていたのに、今はこんなに間近にあるなんて、まるで夢でも見ているようだ。
「律、ごめんなさい。律を苦しめてごめんなさい。私が臆病で過去のことを言えなかったから、いっぱい律を傷つけてごめんなさい……ごめんなさい」
涙で声が上擦って、私の声が彼にちゃんと届いたのかわからない。でも、声で返事をすることはなかったけれど、代わりにさらにきつく抱きしめられた。
「悪いのは俺。臆病なのも俺。自分の過去から抜け出せなくて、アンタを傷つけた。だからどうしても自分と向き合ってからじゃないと迎えに来れなくて、こんなに時間が経って……どんどん不安になって、怖かった」
律は、私と同じことを思っていた。それだけで嬉しさが込み上げる。私を抱きしめながら律が言葉を続け、その間ずっと、律の体は震えていた。最後に言った「不安になって、怖かった」とは、私と離れていたから? 律も、そう思ってくれていたの? 胸の奥深くに沈めた関係の修復願望。それが一気に流れ出し、私の口は慌しく言葉を発していた。
「律と一緒にいたいよ。いっぱいいっぱい触れ合って、喧嘩もして、たくさん笑いたいよ」
私の願望はこれだけ。別に結婚したいとか、豪華な食事に連れてって欲しいだとか、一切考えていない。ただ、大好きな律の隣で笑っていたいだけなの。自分の望みを一気に律に伝えたら、嬉しさと悲しさが入り混じった涙が流れ、ついでにちょっとだけ鼻水も出た。体面を繕っていられないくらい、私は必死に律に伝えようと言葉を紡ぐ。でも、喉の奥で次の言葉が引っかかってしまい、うまく出てこなかった。いっぱい話したいことはあったのに、律の顔を見たら全部わからなくなった。でも、一番伝えたい肝心の言葉だけは、まだ胸にいる。それをちゃんと伝えなくちゃ……そう思い、涙でぐしゃぐしゃのみっともない顔を律に向け、彼の瞳から目を反らさずに大切に言葉を口にした。
「律が好き。忘れることができないくらい、律が好き。好き、好き、好き……」
何回言っても伝え足りない。彼の心に、私の言葉は響いたのだろうか。その答えは、彼が私を抱きしめ、唇を塞ぐことでわかった。熱く深い、愛を感じる唇は、私のすべてを焦がしてしまいそうなほど、激しくて優しい。呼吸を忘れるほど没頭したキスは、幸せの味がした。
**
「重くない? 私持つよ」
「これくらい、どうってことない。俺、男だもん」
律と手を繋いで歩く私。彼が私の荷物を手に持ち、反対側の手は私の手を握ってくれている。
あれから私と律は私の両親を説得し、元のアパートへと戻ることになった。家族はみんな「後悔しないように」と口を揃えて、私を快く見送ってくれた。代わりに、時々ちゃんと顔を見せることを条件に出したが。そして律の話を聞くところによると、私のアパートの荷物はそのままにするように利人さんに言ってあるらしい。長い間送られてこなかった私の荷物はどうなったのかな、と思っていたけれど、そんなことになっていたなんて。利人さんは笑顔で快諾し、引越し業者に断りを入れてくれた上に部屋の空気の入れ換えなどもしてくれたらしい。嬉しいやら申し訳ないやら……今度ちゃんとお礼をしなくちゃ。
帰り道、律はなんだかもごもごと言い辛そうにしていたが、蚊の鳴くような声で私にポツリと呟いた。
「そういや、友哉さんと二人で出かけたって?」
「え? あ、うん。バイクで海に連れてってもらったよ」
「バイクって、あんなに密着するやつで?」
「まぁ……否定はしないけど」
すると律は唇を尖らせて少しだけ不機嫌なオーラを漂わせた後、小さな声で嫉妬心をあらわにした。
「……俺以外の男と、くっつくなよ。なっ」
真っ赤に顔を染め、照れ隠しのように眼鏡のブリッジを押し上げる。その仕草がなんとも言えず可愛くて、それでいて律の独占欲丸出しな言葉が嬉しくて、繋いだ手に力を込めた。
「うん。気をつけます!」
「よし」
満足そうに頷くと、辺りをきょろきょろと見回してから私の頬に、小さなキスを一つ落とした。自分からキスをしたのに突然カーッと赤くなり、ちょっと挙動不審になる律が可愛い。
正直、こんなに満たされる思いはもう、一生縁がないと思っていた。不倫と知ったあの時から、私は自分のしたことを後ろめたく感じていて、幸せを掴むことは二度と出来ないと覚悟していたのだ。もう、律とは一生会うことはない。二度と隣を歩けない。そう思って実家に逃げた。それらを振り返ってみると、アパートから出て行くときに言ってくれた利人さんの言葉を思い出す。
『道はひとつじゃない』
逃げ道しか用意されていないと思っていた私に、こんなに素敵な道が用意されていたなんて夢にも思わなかった。そして意地を張って律の隣にいることを拒んでいたら、それこそ後悔するところだっただろう。これから先、律との関係がうまくいくかいかないか、それはまだわからない。でも、確かに『後悔』はしていない。自分の気持ちに素直になれたから、決して今日選んだ道を後悔することはないと思う。
季節はくるくる回り、私の生活も目まぐるしいほどくるくる回った。辛いことも巡ってくるけれど、止まるよりよっぽどいい。
これから私は自分に素直になり、相手に優しくなろう。律が言ってくれたように私はくるくる表情を変えて、自分の気持ちを全面に押し出そう。あ、もちろん、臨機応変に。ね。
雄大なオレンジの夕日に向かって歩く私達の影が、仲良さそうに寄り添っている。これからも、ずっとずっと仲良くしていきたい。
自分の場所を見つけて、自分の存在意義を確認して、今はただただ幸福感で満たされている。そっと胸に手を置き、とくとくと嬉しそうに高鳴る鼓動を感じながら、幸せに浸っていた。
やがて見えてきたアパートには、知っている顔が全員そろって私を迎えてくれた。大きく手を振り私を迎えてくれる皆があたたかくて、嬉しくて。そしてちょっとだけ恥ずかしかった。短期間の家出から帰還したような気分だ。けれど、それとは裏腹に、私の気持ちは晴れやかだった。
手を振ってくれているみんなに向かって、私も大きく手を振る。そして彼らの顔を見て大きな声で挨拶をした。
「ただいま!」
帰ってきました。私の場所へ。
完結までお付き合いくださった皆様、どうもお疲れ様です。そしてありがとうございます!
その後など、番外編の予定はございません。
彼らの未来は、どうぞご自由にご想像くださいませ。
3月末からのお付き合い、ありがとうございました!
2011年5月31日 こたろー




