45話 友哉くんと一緒
「本当に泊まっていかないの?」
玄関先で、義母が心配そうな顔をして、私に優しく言葉をかける。でも、私は首を横に振り、その厚意を断った。
「明日も仕事あるから」
「そう……。でも、いつでも帰ってきてね。待ってるわ」
「ありがとう、お義母さん」
家族のあたたかさに触れ、今までの寂しさが嘘のようになくなった。自分一人だけが辛い思いをしていると思い込んで実家に寄り付かなかったのに、今日は長い間のもやもやした気持ちを晴らす事が出来た。きっかけはどうあれ、バラバラのように思えた家族への思いが、今ここで一つになったような気がした。
「それじゃあ、おやすみなさい」
そう言葉を残して義母に背を向け、数歩歩いたところで、もう一度義母の方を向いた。
「あのね、お義母さん。私……」
静かな住宅街で漏らした、小さな小さな私の叫び。その私の叫びに、義母は静かに頷いた。
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電車を乗り継ぎようやく自分の街に帰ってきた。もうすでに時間は深夜を回っている。
家族との会話を終えた満足感がやけに私を高揚させ、変に目が冴えてしまっていた。このままアパートに帰って眠ろうと思っても、どうやら今日は眠れそうもない。私は駅から近い、あのお店に向かって歩き出した。
「いらっしゃいませ」
渋い声が私を迎えてくれた。ここは友哉くんが働くバーだ。とても久しぶりに訪れたような気がするけれど、実際あれからそれほど時間は経っていない。
「めぐみちゃん!? こんな遅くにどうしたの?」
カウンターの奥から顔を出したのは、友哉くんだ。今日も蝶ネクタイがとても決まっている。
「実家の帰りなの。ちょっとだけ呑みたいなぁって思って」
そう。少しだけ酔いたい気分だった。家族との絆を確認して気分は良かったけれど、アパートに帰れば隣の部屋に律がいる。それを意識してしまうと、どうしても苦しくて悲しい気持ちがふつふつと甦ってしまう。こんな夜は、少しでも酔っ払って、気持ちを昂らせておきたい。
入り口付近の傘立てに傘を置き、そのまま真っ直ぐカウンターに腰をおろす。そして目の前に出されたのは、あたたかいおしぼりだ。渋い声のマスターが、ほんの少し微笑んでそのまま手元にあるグラスを磨きだした。顎下の髭が、やたらとセクシーに見えるマスターは、そのまま私の前を友哉くんに譲った。
「で、どうする? 何を呑みたいかな?」
「んー……軽めのがいいかなぁ。あ、シャンディガフがいいな」
「わかった。シャンディガフね」
シャンディガフとは、ビールをジンジャーエールで割った飲み物で、口当たりが非常に軽くて呑みやすい。しゅわしゅわした喉越しも好きだし、ジンジャーエールでほんのり甘いのもお気に入りだ。
「はい、お待たせー」
目の前に出された、透き通ったゴールドのシャンディガフ。グラスの中の炭酸の泡が、しゅわしゅわと下から上へと立ち上る。グラスを指先で持ち上げて、くいっと一口喉に流し込むと、喉が嬉しそうにしゅわしゅわぱちぱち鳴っている。
「うーん、おいしい!」
笑みを浮かべながら友哉くんの方を向くが、友哉くんはあまり顔色がよくないようだ。
具合でも悪いのかな? そう思って声をかけようとしたが、友哉くんが私より先に声を出した。
「……めぐみちゃん、とてもやつれたね。何か、辛いことでもあったの?」
友哉くんの言葉が、私の胸にぐさりと刺さる。何かあったなんて微塵も感じさせないように笑顔を取り繕っていたのに、お見通しだといわんばかりに的確に友哉くんは私を見抜いた。
辛いこと、か。あったよ。大好きなのに別れてしまった。今でも胸の真ん中に、ぽっかりと大きな口を開けているように穴が空いているもの。律の顔を思い出すだけでも涙が零れそうになるけれど、友哉くんの前では泣けない。私の涙を見せられる男性は、たった一人と決めたから。だから泣かない。ぐっと奥歯を噛み締めて無理矢理涙を引っ込めて、心配させないように笑顔を浮かべた。
「やつれちゃった? やだなぁ、かっこわるい。でも心配しないで! 大したことじゃないの。でも、心配してくれてありがとう」
一気に友哉くんに言った後、目頭まで溢れ出した涙と一緒にシャンディガフを飲み干した。美味しいお酒も、今日はとても苦く感じる。でも、少しだけ。ほんの少しだけど、律を忘れられるような気がする。だから私は、一気にグラスを空けて、もう一杯頼んだ。流れるアルコールが、少しでも気を紛らわしてくれるのなら……そう、今だけでも。
アルコールが良い具合に頭に回ると、目がとろとろと溶けそうなほどの眠さが襲ってきた。
「ほら、めぐみちゃん。もうお酒は終り! お水飲みなさい」
コトリと目の前に置かれた水が入ったグラスは、友哉くんの優しさ。でも、そんな優しさは、今はいらない。もっともっと、酔って酔って酔っ払って、私の身の回りに起こった出来事を忘れてしまいたかった。
「いらな~い……お酒のほーがいい」
グラスを目の前からずらし、空になったグラスを掲げた。でもグラスは友哉くんに取り上げられたまま、返ってこない。
「うー……おしゃけ」
呂律の回らない口で、ぶつぶつと呟く酔っ払いの私。きっと友哉くんは鬱陶しいと感じただろう。ごめんね。でも、こうせずにはいられなかったんだ。律と別れてすぐは、悲しさもあったけれどどこかで淡い期待を抱いていられた。でも、一ヶ月も経った今、もう淡い期待を抱き続けるのは無理があった。「別れた」という辛い現実に、私は自身が打ちのめされてしまいそうで、こうしてお酒に逃げたのだ。ダメな女だとわかっているけれど、正面から現実を受け入れられる余裕が、今はとてもじゃないけどなかった。
「季節も、毎日も、みんなくるくる回っているのに。私だけが止まっている……」
ぽつりと独り言を漏らしたまま私はテーブルに突っ伏して、目を閉じた。そしてそのまま、寝息を立てたのだった。
目を覚ましたのは、なぜか自分がゆらゆら揺れているような気がしたから。目を開けると、一番先に見えたのは誰かの肌。これは、首、かな? 寝ぼけながらしぱしぱと瞬きすると、今私がいる位置にぎょっとした。ここは、友哉くんの背中。私、おんぶされてる!
「ととと友哉くん! ごめんね、私! 歩けるから!」
「お。起きたの? いいよ別に。少しお兄さんに任せなさい」
はっはっはとさわやかに笑う友哉くんの背中は、広くてとてもあたたかい。煌く金髪が美しく、隙間から風が通るたびにふわふわと毛先が揺れた。それにしても、お兄さんか。友哉くんが本当のお兄ちゃんだったら、どんなに心強いか。底抜けに明るい笑顔を、いつも見せてくれそうだ。
しばらくの間、私は友哉くんの背中に甘えて、そのままおぶさったまま色々考えていた。これから先、私はどうするのか。そして……。
「めぐみちゃん」
考え事をしていたら突然声をかけられ、驚いて体勢を崩しそうになってしまった。もちろん、落っこちたりなんかはしてないけど。
「な、何?」
「あのさ、前に大学でご飯食べた時、めぐみちゃんを一人で残してきちゃったことがあったでしょ? あの埋め合わせするって言ったこと、覚えてる?」
ああ、確かにそう言っていた。全然気にしてなかったのに、友哉くんが気にしてわざわざ部屋にまで来てくれたんだっけ。……あの時は、律と私の仲もあまり良くなくて、ただ彼を生意気でむかつく年下の男としか思っていなかった。あの頃が、とても遠くに感じる。
「今度、一緒にバイクでどっか行こうか」
それは突然の、デートのお誘い。
驚いてしまって一瞬声が出なかったけれど、私は友哉くんのお誘いに頷いた。少し、律のことを考える時間を減らしたほうがいい。少し悪いとは思ったけれど、こうして素直に友哉くんのお誘いを受けたのだった。




