◆第九話◆ セクハラ……?
「こんなに可愛い方が来て下さるなんて、すごく感激です」
「あ、ありがたきお言葉……」
「もしかして、社交辞令だって思ってるんですか。可愛いな」
シャルル王子の豪奢な部屋で、ずっと続いている甘ったるいやりとり。
可愛い可愛いと言われ続け、照れて真っ赤な顔で俯くティアナの肩をシャルル王子が抱きよせ、ティアナの胸元をそっとのぞき込む。
先ほどからシャルル王子が、さりげなく足を触ったり、腰をなで回したりするたび、二人の向かい側のソファーに座るクルーガーの両手に、ギリギリと力が入っていた。
「お名前は、ティアナ・アンダーソンさんですよね。ある程度のことは移動中に伺いました。父上は気骨のある良い女剣士と仰っておられるらしいし、僕をしっかり守ってくださいね」
「は、はい……」
王子がちゅっと音を立てて、ティアナの白い頬にキスする。
「な――っ!」
「素直で良い子ですので褒美です。もっといいご褒美をあげましょうか、ティアナ」
王子の繊細な指が彼女の太ももを這おうとした瞬間、クルーガーがティアナの腕を引っ張って自分の方へ寄せた。
「申し訳ございませんが、我々は明日からの予定ですので、また」
いたたたた、とうめくティアナの声も聞かず、クルーガーは強引に出口へと向かう。
「何か怒っているんですか、クルーガー」
王子の呼びかけに足を止める。
「いいえ、まさか」
シャルル王子は、自分の彼女への好意に気づいているだろう。
それを承知の上でクルーガーの前で彼女に触れ、そんなことを聞くのだから質が悪い。美しい見た目ほど、シャルル王子という人物は純真無垢ではなかった。
人の心を読むことに長けている分、彼はそこへ付け入って弄ぼうとする。
まるで、もがく鼠をいたぶる猫のように。
だがそんな彼の悪癖も、今に始まったことではない。王子が彼女をネタに、自分で遊ぶ分には大した害はない。
本当に厄介なのは、王子も彼女に本気で惚れてしまったとき。
彼は持ちうる王としての天賦の才を惜しみなく発揮し、あっけなく彼女を手に入れるだろう。
――そうはならないよう祈った。
「明日から楽しみにしています」
シャルル王子の楽しそうな言葉が、嫌に耳に残った。
「これはこれは隊長。お久しうございます」
シャルル王子の部屋を出てすぐ、銀色の長い髪を持つ男、ヴェイン・シルヴァに話しかけられた。
彼は壁にもたれ掛かったまま煙管の煙をくゆらせ、唇を細めて煙を吐き出す。
「今の隊長は貴様だろう、ヴェイン」
「まあ、そうなのですがねぇ。癖、と申しますか、反射的にと申しますか」
「へぇ、あんたが前の隊長か」
まるで品定めをするかのように、目つきの悪い小柄な少年が腕を組んだままクルーガーの周りを回る。
ディー・デイ。
最年少で剣士官となった彼の噂は、クルーガーの耳にも届いていた。十六という歳で難関を突破するほどの剣の腕を持つ彼は、なるほど、そんじょそこらの少年とは風格が違う。
彼のまだ幼さの残る目には、「迷い」など一切なかった。
「任命後すぐ辞めさせられたって聞くし、アンタ本当に強いのか?」
クルーガーはイライラしていた。
好意を寄せているティアナを王子にベタベタと触られ、頬とは言えキスまでされたことに。
一刻も早く特訓と称して彼女をフラフラにさせ、支えるふりをして思い切り抱きしめたい衝動に駆られているというのに、面倒な相手に絡まれ、静かなる怒りが頂点に達する。
「なあ、聞いてんのか? お――ッ」
ディーの腰から一瞬で剣を引き抜き、その切っ先を彼の目の玉数ミリ前へ突きつけた。
「さあ……前線から遠のいて、腕もかなり鈍ったからな」
最年少で剣士官になったからと言って何だ。
神童と、剣術の天才児と言われてきただけの少年になど、クルーガーは肩を並べさせるようなことはない。
クルーガーは無表情で剣を回して返し、冷や汗を流すディーの腰の鞘へ収めた。
ティアナはあまりの光景に、滑稽な顔で固まる。一瞬過ぎて、何も分からなかった。
「……ちっ」
ディーはそれだけでクルーガーの実力を解したらしく、悔しげに舌打ちした。
「で? お前がティアナ・アンダーソンか」
ディーは標的をティアナに変え、ほとんど身長の変わらない彼女を睨み据えるように見つめる。
「何で呼び捨て……」
「フン、口の利き方には気をつけろ、アンダーソン。年下でも俺の方が先輩なんだ」
子供のくせに偉そうに、とティアナはムッとした。
「すみませんでした、チビ先輩」
「な!? てめぇっ……」
「まあまあ、お二人とも。すみませぬ、ティアナ殿。ディーディー君はチェリーなので、女の子の扱いに慣れてなくて」
「テメェは、うるせぇんだよ隊長ッ! ってか、俺はディー・『デイ』だ! 『デイ』!」
上司へも媚びることなく噛みつくディーに、ティアナは首を傾げ、クルーガーを見上げた。
「何だ、上等兵」
「あの少佐……『チェリー』って、何ですか?」
一瞬、辺りが水を打ったように静かになった。
さすがのディーも、目と口を半開きにしたまま、ティアナを見つめる。
クルーガーも内容的に、「何ですか」などと聞かれて「こうです」とも答えられない。
「じ………………自分で調べ――」
「女性と交わったことのない、哀れきわまりない男のことですよ。要は童貞です、ど・う・て・い」
答えたのはヴェイン。
春風のような爽やかな笑顔を浮かべ、人差し指を立ててそう述べた彼に、ティアナの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
「え……? ………………え?」
妙なことを、好いている上官に聞いてしまった恥ずかしさで、ティアナは目を泳がせるしかできなかった。
§§§§§§◆§§§§§§§
「あーもう嫌っ!!」
さきほどのことは、思い出しただけで顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
布団に入ったが、日が落ちて静かになると、余計に昼間のことが思い出されて眠れない。
「水でも飲んで落ち着こうっと」
カーディガンを肩に掛け、ティアナは階段を下りていった。
台所に足を踏み入れ、水瓶から水を掬ってグラスに移していると、窓の外、バルコニーに佇む人影が見え、一瞬ヒヤリとした。
「……少佐?」
真鍮の懐中時計を見つめる、クルーガーの姿があった。
「まだ起きていらしたんですか、少佐」
ティアナに話しかけられると、クルーガーはそっと時計をポケットに隠した。まるで見られるのをはばかるように。
だがクルーガーは、ティアナに話しかけられたことは嬉しかった。彼女が何の戸惑いも見せず、自分の隣へ来てくれたことも。
今まで何度か、言い寄ってきた女と付き合ったことはある。だが、近くにいるだけでこれほど高揚し、同時に緊張させられるようなことはなかった。
それをおくびにも出さないが。
「お前こそ早く寝ろ。明日はいよいよ本格的に、シャルル王子の護衛につくこととなる」
「はい。でも少し目が冴えてしまったので、風に当たってから眠ります」
そう言ってティアナは手すりに手を置いて目を閉じ、短くなった髪を風に揺らした。思わず触れたくなるほどに柔らかそうで、それに仄かにシャンプーの香りがする。
しかし彼女の横顔はどこか、曇って見えた。その原因は察しがつく。
「ティアナ」
初めて上官に名前で呼ばれ、ティアナは心臓が跳ねたかと思うほどにドキッとした。
目を開けて顔を上げると、自分をじっと見つめるクルーガーの姿があった。
月に照らされた彼は、この世のものとは思えないほど美しい。
(ああ……やっぱりすごく格好いい!)
「不安なのか。この任務のこと」
突然の問いかけに、ティアナは目を丸くした。
彼が言ったことは紛れもなく、自分を眠れなくさせている理由の一つだった。経験の無いうちから、王子を守るという大役を担ったことが、どれだけ重荷になっているか、自分で気づかないはずもない。
でも、そんな気持ちを吐露すれば、きっとまたこの厳しい上官に、甘ったれていると叱られてしまう。
「平気です! 私だって軍人ですから」
空元気に、無理矢理笑って見せた。
クルーガーは、そんなティアナを真摯に見つめ、ゆっくりと顔を近づけた。
ほんの少し首を傾け、手すりに乗せていたティアナの手に、ゴツゴツとした男らしい温かな手を重ねる。
(――っ! これって……)
ティアナはいきなりの展開に頭がついていかず、ただ身を強ばらせていると、彼の動きは唇が触れる寸前で止まった。
「なら、早く寝ろ。体調管理も仕事の内だ」
「は……はい」
キスされるかと思った。だが、違った。
(って、何うぬぼれてるのよ、私は……。少佐が私のことを好きになるはずないのに。あーもう嫌ーっ!)
部屋に戻って布団を頭から被ってはみたが、身体が火照ってますます眠れなくなってしまった。
「危なかった」
クルーガーはティアナを部屋に帰したあと、一人そうごちた。いつもの鉄仮面男には程遠い、焦りを隠せない表情を浮かべて口元を抑える。
先ほど、あまりに自然に部下にキスをしようとしてしまった自分に驚いた。と同時に、強がって微笑む彼女への対応があんなことでは、先が思いやられる。
ティアナは自分の恋人ではないのだ。ああいった場面では、上官として、何か為になるアドバイスするのが適切である。彼女もそれを求めるはずだ。
それが――
「はあ……」
明日からは、またちゃんと冷徹な上官でいよう。そう月夜に誓った。




