十五章 序&それぞれの思惑と迷惑な1日(6)上
一旦モルツに用を頼んだロイドは、自身の執務室で一人になったタイミングで、扉の隙間から入れられた黒い封筒に気付いて目を通した。
急きょジーンから上がったハーパーに関わる件の情報収集依頼や、彼が個人的に示してきた『ピーチ・ピンク』とかいうチンピラの小グループについては、明日アーバンド侯爵家の戦闘使用人の一人を直接調べに行かせる、という内容がそこには記されていた。
ならば正確な情報が得られるだろう。
まさかアーバンド侯爵が『信頼のおける戦闘使用人』を調べに向かわせるとは思わなかっただけに少しだけ驚いたものの、彼が直々に急ぎ情報を集めなさいと任命するくらいだから、現在動いている情報収集班以上の働きが出来る人間なのだろう。
それはかなり好都合である。何故ならハーパーの件に関しては、次のオークション開催まで時間がないこともあり、数日内では動きたい算段でこちらも急ピッチで用意を進めているからだ。
ジーンからの要望についてはこれで解決したと満足し、ロイドは、その走り書きの手紙を焼却処分した。しばらくもしないうちに予定通りモルツが戻り、御苦労だったと告げるべく顔を向けた時――
ロイドは、モルツの隣に珍しくグイードの姿があるのを見て、形の良い眉を片方引き上げた。
「なんだ、予定よりも早いな?」
「偶然すぐそこで合流致しました」
モルツが執務机の前で立ち止まり、銀縁の眼鏡の横を揃えた指先で押し上げながら、冷やかとも思える口調で報告した。
すると、その隣に立ったグイードが、「そういう事っすよ」と肩をすくめてこう続けた。
「ちょっと野暮用で近くを歩いていたもんですから、ついでにさくっと報告を終わらせようかと」
つまりいつものサボリか、と長い付き合いからそれを察して、ロイドは小さな苛立ちを覚えた。
とはいえ『惚気のグイード』は、ロイドが知る軍人の中でも、スマートに仕事をこなせる有能な男であるのも事実だ。奴はいつも、自分の仕事には遅れが出ないよう動くサボリの天才だ。そのついでに宰相ベルアーノか、騎馬総帥レイモンドあたりの胃を痛めて困らせたと思えば、悪くはないだろう。
朝一番にスケジュールを見たジーンが、頭を抱えてくれていたのなら、尚良い。
ロイドは、眉一つ動かさず涼しげに考えた。
マリア達の初日の視察活動が気になって、昨夜はすっかり寝不足だったのだ。何度「俺はロリコンじゃない」と唱えたか分からないし、何故かオブライトの事もぶり返して「またかよッ」とらしくなく一人で苦悩した。
二度目の一目惚れ? いや、まさかまさか……
頭を悩まし続けている独白が再び蘇りかけ、ロイドはふっと冷笑をこぼして、その思考を精神力で頭の奥へとねじ伏せた。
そういえばジーン達と飲みに行った程度で、最近は、気晴らしに顔を出していた仮面舞踏会にも参加していない。だからこんな余計な事を考えたりするのか。けれど、多忙である中で時間が作れない訳でもないのに、そっち方面については遊ぶ気にもなれないでもいるのだ。
グイードは、考えの読み取れないロイドの無表情を見て首を捻った。普段であれば、報告をしろと開口一番に求められて、すぐに追い出されるはずであるので珍しい事である。
それを知っているモルツも、空白の時間に疑問を覚えて、片眉を僅かに上げた。
「ベルアーノも参っていたくらいだし、もしかして、お前んとこも結構ヤバい感じで行き詰まってんのか?」
公式の場以外での普段の口調で声を掛けられ、ロイドは瞳だけを動かせて、話しかけてきたグイードを見やった。
「いちおう先輩だからな。悩みがあるなら俺が聞いてやるぜ、ロイド?」
「必要ない」
「あはははははっ、だよなぁ。お前に限って恋の悩みとかじゃなさそうだし、俺の出番ってわけでもないか!」
瞬間、バキリと音が聞こえて、グイードは笑い声を途切らせた。
グイードは、モルツと揃ってそちらに目を向けた。ロイドが腕を付いている執務机が、半ば凹んで割れてしまっている。ゆっくり視線を戻すと、総隊長である男が珍しくも黙ったまま視線をそらし、しばし室内にぎこちない沈黙が漂った。
「…………ロイド、お前、どうした?」
グイードは呆気に取られて、少しの間を置いてから、そう声を掛けた。
「え、体調不良とか? そういやお前、昔に高熱出した時も、ぶっ倒れる直前まで確か台詞が噛み合わなかっただけで、しばらく誰も気付かないくらい見かけは素面だったよな? ……あ。そういやポルペオに看病されたのを見て、ジーンとめちゃくちゃ笑っ――」
「気にするな、即刻で忘れろ」
体調をこじらせた事もほとんどなかった自分の忌々しい過去の醜態を思い出し、ロイドは威圧的にグイードを睨み付けた。
あれは、まだ少年師団長としても日が浅かった頃の話だ。唐突に歩けなくなって崩れ落ちた際、受け止めたオブライトに抱えられ、そのまま救護室に運ばれたのである。
ロイドはその時の温もりを思い出しかけて、またしても頭を抱えたくなった。
当時は軍医が不足していた時代でもあった。救護室に到着した直後、何故かポルペオが「オブライト。看病も知らない貴様に代わって、私が手本を見せてくれよう」と、解熱効果のある果物を持参して現れたのを覚えている。
まず、どこからそれを持って来たんだ。
少年だったロイドは、熱でぐるぐるする頭で思った。というか、お前はどこでオブライトが俺を運んでいると聞きつけた?
寒い季節というわけでもなかったから、それが風邪というやつなのか知恵熱と呼ばれているものなのか、ロイド自身分からなかった。
オブライトは困ったように笑って「知恵熱は十代の成長期特有だろうし、仕方ないさ」と言い、ポルペオは「生活習慣がたたったな、つまり風邪だ」と、いつもの仏頂面で偉そうに言った。二人の意見は、知恵熱と風邪で対立していた。
こちらを見下ろす彼らは、苛々するくらい大人びた顔をしていた。
子供扱いするなと思った。
けれど文句を返そうとしたら声が出なくて、咳が出た。
騒ぎを聞いて他の連中までやって来て「なんだ倒れたのか」と呑気な様子で言って、仕事が中断するのもお構いなしで、空気も読まず救護室に居座った。奴らは扉も閉めないから、通りがてらの連中までひょっこり顔を覗かせて立ち見していた。
――なぁ親友よ。倒れてから顔が熱で真っ赤になるとか、どんだけ強がりなんだよって思わね?
――……ジーン、あまり顔をつついてやるな。今にも切れそうになってるから。
――いいぞジーン、もっとやってやれ。なんなら俺の指も貸してやる。
――いや駄目だろグイードっ。オブライトもめゃくちゃ困ってるから便乗するな!
――大丈夫だって相棒。つか、さすが子持ちのポルペオ、林檎看病がさまになってるぜ。俺、気ぃ抜いたら笑いで腹筋が崩壊するわ。
――…………ぶっ殺す……
――無駄口を叩けるようにはなったようだな。ほれ、口を開けんか。余計な薬を飲むよりも効くぞ。
後輩君、早く良くなってね、とベッドに片頬をつけたままニールが言った。
風邪なんかじゃないと反論したのに、馬鹿なヴァンレットが理解してくれなくて、どこから持って来たのかマフラーでぐるぐる巻きにされた。
後で覚えてろよと威嚇しても、奴らはこちらが動けないと分かってか、逃げる気配も見せず相変わらず呑気で自分勝手だった。
迎えに来た若い執事と使用人達が、何故か「……坊ちゃま、ようございましたね」と涙ぐんで、仕事をサボッて救護室に居座っているだけの奴らに深々と頭を下げた。
大変申し訳ございません旦那様と奥様は今日もお帰りが遅く……とそんな事を執事に謝られた。いつもの事だろうに、若い執事は普段から変なところで謝ってくる。
そう訝って眉を顰めていたら、ジーンがなるほどと呟いて「ははは、いつも仲良くさせてもらってる同僚ですよろしく」と言って、そこにいた全員を指した。
良くなれ、元気になれ、と――
執事に抱えられて馬車に乗り込む際に、奴らに子供扱いのように頭をぐしゃりと雑に撫でられて見送られた。オブライトの手だけが、やはりとてもひんやりとしていた。
その後日に、ポルペオが牛乳に加えて、自身で作ったという手作り弁当を持って来た時は、本気で殺そうかと思った。
騎士の癖に手先が器用で、料理から裁縫までこなす男だと初めて知った一件だったが、なんでそこまで極めたんだ、と今でも疑問が拭えないでいる。
そこについても思い返してしまったロイドは、またしても執務机にヒビを入れてしまい、「畜生」と心の中で吐き捨てた。だから身長が伸びないんだとポルペオに「早寝早起き、たっぷりの食事と牛乳」の説教をされ、ジーンとグイードに大笑いされ殺意を覚えた後日話を、全精神力をもって記憶の向こうに放り投げる。
グイードに報告させて、とっとと追い出そう。
静かに控えて待つモルツと、のんびりとこちらを窺うグイードの視線が、またしても執務机へと移動する気配を覚え、ロイドは目先をそらすべく顔を上げてこう言った。
「グイード、ひとまずお前の報告を先に聞く――」
そう言い掛けて、続くはずだった台詞が途切れた。
執務室の扉の前に、ひっそりと一人のメイドが佇んでいた。エプロンを付けた長いスカートの前に手を置き、もう片方の手には、布で覆われた小さなバスケットを提げている。
扉の開閉音もなかったにもかかわらず、唐突に現れたメイドの存在には内心驚かされた。ロイドがピタリと固定した視線の先に気付いて、振り返り同じ場所に目を留めたところで、モルツとグイードも小さく目を見開いた。
その女性は、癖のある赤茶色の髪をキッチリと結い上げていた。年頃は三十代前半くらいだろうか。淑女然とした表情が似合うくらいには顔立ちも整っており、今の若い女性からは不人気な、デザイン性に欠けるシンプルな丸みのある銀縁眼鏡を掛けている。
彼女が身に包んでいるメイド服は、王宮や一般的に出回っている使用人服とは異なっていた。女性らしさを損なわないデザインながら、動きやすいような作り。長いスカートの先から覗くのは、軍仕様のしっかりとしたブーツである。
それは、最近見慣れた――マリアが着ている特注のメイド服によく似ていた。




