十四章 長かった四人の初動日の締め(3)上
デザートのプリンまで食べた後、公共食堂を出て一旦足を止めたところで、マリアは軍服の上着をジーンに預けた。
ヴァンレットに関しては、途中の宰相室に放り込んでくるから安心しろと、ジーンが快く引き受けてくれた。ニールが「じゃあ俺はサクッと報告書を投げ入れてくる!」と言い残して走り出したところで、互いに片手を振って解散の流れとなった。
彼らと別れたマリアは、一人、公共区から続く廊下を進んだ。歩き出してすぐ、なんとも長い一日だったような疲労感を覚えた。
朝からの出来事を振り返ると、それが気の迷いではないと分かって、目頭を丹念に揉み解した。思い返せば、今朝にロイド達に「手伝わせて欲しい」という決断を明かしてから、まだ半日も経っていないのだ。
ジーンの提案で四人の活動をする事になり、そのまま現場の下見へと向う道中で問題児組には苦労させられ、これから潰す事になる屋敷の用心棒に遭遇するという不運にも遭遇し、最後は、トドメとばかりにポルペオまで出てきた。
ほんと、長い一日だったな……
疲労感がたまっているような重さを覚えて、行き交う軍人と王宮勤めの大人達の間をゆっくりとぬうように歩きながら、思わず肩に手を添えて右腕を回した。気のせいか、まだ日中だというのに、既に筋肉が強張っている気がする。
これは、リリーナとクリストファーという二人の天使に、しっかり癒されなければならないだろう。
そう考えると、不思議と進める足取りも軽くなる気がした。オブライトだった頃のような逞しい身体であったのなら、友人である国王陛下アヴェインの息子達にやったように、可愛いなぁと片腕で抱き上げていただろう。
マリアは思わず、前世で過ごした二十七年と、今世で生きた十六年が残されている、自分の華奢な両方の掌を見下ろした。身体は違うというのに、小さな彼らを抱き上げた感触や温もりすら、この手で鮮明に思い出せるのだから不思議だ。
今は『マリア』であるとか、もう『オブライト』ではないだとか、そういう境界線が曖昧になって、つい錯覚してしまう。アーバンド侯爵に拾われたばかりの頃は、身体が軽過ぎる事に慣れなくて、重い剣を手放す事に少し戸惑ったものだ。
そういえば、あの日は雨が降っていたな。
ふとアーバンド侯爵との出会いの日を思い出しかけた時、どこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきて、マリアは「ん?」と足を止めて振り返った。公共区側から、こちらへ向かって走って来る青年の姿がある。
軍服の上から、長い白衣がバタバタと揺れていた。一体誰だろうと目を凝らしたマリアは、成人を迎えたにしてはやや背丈が足りない青年が、じょじょに近づいて来てようやく誰であるのか気付き、「あ」と声を上げた。
それは、ルクシアの件で一緒に活動にあたっている二十歳の文官、アーシュ・ファイマーだった。
短いブラウンの髪に、机仕事に属しているとは思えない、威嚇の印象を抱かせるややつり上がった目。懐かない番犬のように愛想なく顰められた表情と、ほどよく鍛えられた細身の腰元には剣がある。
何故かアーシュは、軍服の上に大きめの白衣を着ていた。サイズが合っていないせいで、手の半分が袖で隠れてしまっている。
最近見慣れてしまった誰かを彷彿とさせるような……と記憶を辿ったところで、マリアは、それがルクシアの恰好に似ているのだと気付いた。思い至って「なるほど」と掌に拳を落とし、走り寄ってきたアーシュに、にっこりと少女らしい笑みを浮かべてみせた。
「似合うじゃないの、助手さん」
雰囲気は軍人寄りだというのに、身体の厚みがないせいか、白衣で身を包むと知的さが増して違和感なく似合っている。モルツのような細いタイプの眼鏡でも掛ければ、目付きの悪さがカバーされて、意外と若い学者風に見えなくもない。
マリアはつい、度の入っていない眼鏡をしているポルペオの存在を思い起こした。太い黒縁眼鏡姿を想像されているとも知らないアーシュが、眉を顰めて「開口一番にそれかよ」と唇を尖らせた。
「毎日出入りしているのを気遣われたみてぇで、昨日の朝『どうぞ』って研究棟の奴らに渡されたんだよ。……この白衣、軍服よりも全然軽いから、取るのを忘れて本を返しに出ちまったんだ」
気に入って着ているわけではない、と主張するように、アーシュは小さな声でむっつりと答えた。
マリアは、それが照れ隠しである事に気付いて、思わず苦笑した。彼の瞳にはどこか誇らしさも隠れており、お揃いという事に少なからず嬉しさを覚えている様子も重なって、黒騎士部隊の軍服を正式に与えられたばかりの頃の、ニールやヴァンレットを思い出させた。
お揃いのジャケットっていいじゃん――……
今朝、そう口にしていたジーンの言葉が、脳裏に蘇った。
マリアは、確かにそうだな、と心の中で答えた。初めて軍服に身を包んだ日の事は忘れていない。堅苦しくて慣れないと言いながらも、オブライトは本当は、くすぐったいような気持ちがとても新鮮で――
「お前、これから第四王子のところか?」
尋ねながら、アーシュが、とりあえず歩こうぜと眼差しで促してきた。
マリアは過去の思考を止めて、彼を見つめ返した。どうやら、途中まで送ってくれるらしい。やっぱりきちんと女の子扱いをしてくるところもあるんだよなぁ、と思いながら、彼と並んで歩き出した。
「そうなるわね。アーシュは、これからルクシア様のところに戻るの?」
「まだ時間があるからな、もうちょっと論文の資料もまとめておきたいっつうか。それにしてもびっくりしたぜ、内密の件らしいけど――というか、何でお前が『制圧任務』に抜擢されてんだよ?」
ジロリと横目に睨まれてすぐ、ジーン達と活動する事になった一件だろうと察し、マリアは乾いた笑みと共に視線をそらした。
「うん、急でごめんね。私も突然すぎて、その、そっちに顔出しに行く暇もなかったというか……」
自分で協力続行を希望した結果、こうなった――とは、どうも言い辛い。
マリアは、なんと答えて良いか分からず、突っ込んで訊かれたらどうしようかと視線を泳がせた。経緯についても、上手くぼかして説明出来るようなものではないし、かと言って、彼が納得するような嘘をつける自信もない。
「……まぁ、なんつうか総隊長様が相手だと、突然色々決まっちまうのも分からなくもない。俺の時も、呼ばれたと思ったらその場でレイモンド総帥様を紹介されて、即行動開始だったからな」
視線を返さないマリアを見て、アーシュは後ろ手に頭をかき、「俺らは怒ってるわけじゃねぇよ」と罰が悪そうに告げた。
「詳細は分からねぇけど、今回もまた役割があって、総隊長様の指示でメンバーの一人に組み込まれたって口だろ? まぁ正直なところ、ベテランの軍人と動くって聞かされた時は、驚いたけどさ……」
アーシュは、来ていた宰相ベルアーノからマリアの件を伝えられた直後、ルクシアが『完全にこちらから外されるのか』『今日は顔も見せにこられないのか』と珍しく強い敵意を露わに、厳しく追及していた様子を思い起こした。
そこで、ハタと思い出して、アーシュは「おい」とマリアを呼んだ。
「宰相様の話じゃ、その軍人班ってのは臨時の活動で、お前は引き続き俺らと一緒なんだよな? 向こうの動きがない間は、こっちで待機になるってのは本当か?」
「数日内限りの部隊班みたいなものだし、行動の指示がない限りは、今まで通りルクシア様のところを手伝うわよ」
宰相ベルアーノから話を聞いているのならば、正確に伝わっているだろう。
その点にマリアは安心して、それを裏付けるようにきちんと答えてみせた。しかし、アーシュが疑い深くこちらの顔を覗きこんで、もう一度「本当か?」と近い距離から訊いてくる。
「じゃあ、明日はこっちに来られるんだな?」
「? そうね、明日の活動予定は聞かされていないから、登城次第そっちに行くと思う」
「そのまま、その軍人メンバーのところに行くわけじゃない?」
「…………急ぎの招集指示は受けていないけど?」
こいつは一体どうしたんだろうか、妙なもんでも食ったのか?
マリアは思わず、アーシュがほっと胸を撫で下ろして「宰相様の話は本当みたいだな」と呟き、背を起こす様子を訝しげに見つめた。そもそも、再三確認するように訊いてくるなんて、彼にしては珍しい行動のような気がする。
「あのな、アーシュ……? ――じゃなくってッ、あのね、アーシュ? 何か急ぎの用事でもあるの?」
つい後輩部隊員に接するように素の口調で呼び掛けてしまい、マリアは慌てて、少女らしい言葉遣いで言い直した。
思案していたアーシュは、マリアの冒頭の台詞を聞き逃した。後半部分の直された言葉をタイミングよく拾い上げた彼は、察しろよなという目を彼女に向けたが、やはり不思議そうに首を捻られてしまうのを見て、顰め面で渋々こう言った。
「……顔見せないと、ルクシア様も心配するだろうが」
「…………はい?」
なんで顔を出さないと、心配するんだ?
マリアは、再び首をコテリと傾けた。研究の助っ人という役割については、あまり役に立っていない自覚はある。そもそもルクシアは、こちらがある程度戦える人間であるらしいとは察しているのだから、ジーン達との活動に関して心配はしないとも思うのだ。
すると、こちらを見下ろしていたアーシュが、心底呆れたと言わんばかりに半眼を向けてきた。
「お前さ、その男らしい小ざっぱりした物の考え、少しどうかと思うぜ」
「なんで私が叱られる形になってるのよ、おかしくない?」
「まさかお前も剣を持つのか? つか、扱えんのかよ?」
「……えぇと、大丈夫よ。護身術の嗜み程度には剣も扱えるから」
ルクシアと行動を共にしている間、もし何かしらの荒事が起こったとしたら、血が駄目なアーシュに代わって、彼の腰にある剣を使わせてもらうつもりでいる。マリアは本音を口にしないよう、乾いた笑みで回答をぼかした。
アーシュは、「ふうん?」と訝しげに眉を寄せた。身につけているのは体術技だけでないらしいと把握しつつも、外見十四歳というかなり小さくて細い彼女が、剣を振り回すイメージが浮かばず首を捻る。
「筋力馬鹿だから、剣も持てるって事なのか?」
「ちょっと待って。筋力馬鹿ってひどい」
「レイピアならまだしも、普通の女なら並みの剣を振り回すのは無理だろ。結構重いし」
女の子扱いしてくる割に、その言い方には躊躇がない気がする。
特別に小振りの剣でも支給されるのだろうか、とアーシュが疑問を覚え、マリアが言い訳しつつ反論しようと口を開きかけたその時、遠くの向こうから轟くような悲鳴が上がり、廊下にいた全員がビクリと足を止めた。
悲鳴の内容までは聞き取れなかったが、本気で助けを求めるような、若い男の情けない声――だった気がする。
長い廊下に居合わせたメイドや男達と同じく、マリア達も、思わず揃って足を止めていた。ぎこちなく辺りの様子を窺ったアーシュが、小さくざわめく廊下の様子を確認し、悲鳴の聞こえた先へと目を戻して、彼らと同じ事を口にした。
「なんの騒ぎなんだろうな……?」
「さぁ…………。というか今の、聞き慣れた悲鳴だったような……」
咄嗟に思い浮かんだ人物については、全力否定したい。
食堂で別れてから、そんなに時間は経っていないはずなので、気のせいだとは思いたい。解散した直後というタイミングで、またしても騒ぎを勃発させているとは考えたくないが、悲鳴の発生源が王宮内を移動している様子には、猛烈に嫌な予感しかしない。
悲鳴がじょじょに近づいて来ていると気付いて、立ち尽くしていた通行人達が、嫌な予感を覚えたように顔を強張らせた。悲鳴が聞こえてくる方向を警戒しつつ、彼らがそろりそろりと端へ寄り始める。
その光景は、マリアに十六年前の日々を思い起こさせた。脳裏には再び、空気を全く読まない赤毛のお調子者が過ぎっていた。
アーシュが、やや緊張したように唾を飲み込んだ。女性恐怖症であるものの、最近マリアに関しては症状が出ないらしいとは気付いていたので、廊下の向こうを注視したまま、隣の彼女の肩をゆっくりと浅くつついた。
「…………ひとまず行こうぜ。この辺り、軍人が暴れるのもよくあるんだ」
「…………よくある事、なんだ……」
マリアは、素の口調で呟きを落としてしまった。王宮内の秩序や治安は一体どうなっているんだろうか、と頭が痛くなる。
瞬間、今度は言葉も鮮明に聞き取れるくらいの近さで、その悲鳴が轟いた。
「変態が出たぁぁあああああああああああ!」
廊下中に響き渡った大絶叫に、居合わせた全員が、ギョッとして反射的に振り返った。
一斉に向けられた視線の先で、廊下の曲がり角から、真っ赤な髪をした一人の男が勢いよく飛び込んで来た。その男は、両足で急ブレーキを掛けるように方向転換し、逃走の進行方向をこちらへと変えた。




