十章 進む事態と、揺らぐ心(2)下
後ろの大魔王が剣を腰に差し、急速に距離を詰めるように一気に走り出す様子を見て、マリアはギョッと目を剥き、走り続けるジーンの横顔に視線を戻した。
「おいコラッ。めちゃくちゃ怒ってるけど、お前一体何をした!?」
「ははは、落ち着けよ、親友。俺がお前抱えてるの見て、余計にプッツンしただけだって。ちょっと走り回ってりゃ話題がそっちにそれるだろうから、――それまで少し付き合って?」
そう軽い調子で言い、ジーンが、目尻を下げてへらりと笑った。
「ふっざけんな意味分からんわ!」
「毒の事とか色々と思い出したみてぇだし、俺としては心配もしていたんだ。いやぁ、元気そうで良かったよ」
「おいッ、話しをそらすなよ!?」
マリアは拳を固めた。カラカラと笑う友人をぶちのめしてやろうと目を座らせたところで、アーシュがそれに気付いて、「頼むからやめろッ」と慌ててマリアに忠告した。
「後ろが冗談じゃ済まない事になってるから! 今大臣様を殴ったら、お前共々自滅するぞ!?」
殺気が迫ってくる事を思い出し、マリアは「そうだった」と拳を解いた。アーシュと共に、改めてそろりとそちらを窺うと、真っすぐこちらに駆けてくるロイドの姿があった。
再び視線が絡み合ったロイドが、腰の剣に指を掛けた状態で舌打ちし、「ジーン!」と怒声を張り上げた。
「触るな! くそッ、なんでそいつを抱えてる!」
「俺達お友達になったんだよ~。何、これ、欲しいの?」
ジーンが棒読みで答え、脇に抱えたマリアを示すように抱え直した。その拍子に、スカートからチラリと覗いた膝の後ろの白さに、途端にロイドの殺気と眼光が増した。
ロイドが殺気立つ目を辺りに走らせると、近くに居合わせた男達が、彼の眼差しに「見たやつは手を挙げろ。俺が殺してやる」という脅しの言葉を察し、「何も見てないっす!」と慌てて顔をそらした。
よくは分からないが、殺気が増した総隊長の迫力に、アーシュは本能的な危機感から冷や汗を浮かべ「やべぇ」と思わず本音をこぼした。視線を前に戻し、走る事に専念するよう足に力を込める。
ジーンが忍び笑う様子が触れた身体から伝わって来て、マリアはうんざりした。
数日前の押し倒し事件を、どうやらロイドが覚えていないらしいとは察せたが、少しの罪悪感ぐらい残っていた方が都合が良かったかもしれない。そうであれば、ロイドの足は止まってくれた可能性もある。
強く頭突き過ぎたのかもしれないな、とマリアは遠い目で考えた。
その時、隣を必死に走るアーシュに聞こえないよう、ジーンが声を潜めて「親友よ」と言った。
「お前も無関係じゃないんだぜ。俺らが追っていたのは例の毒だったが、陛下はな、個人的に俺と一緒になって、【黒騎士】の死の真相の詳細についても追っていた」
「それって……」
「陛下は、調査に邪魔になると考えて、【黒騎士】にまとわりついていたいくつかの死の謎を隠蔽して俺に託したわけだが……まぁ、十年が過ぎた頃には、自然となくなっちまった依頼だったけどな」
死の真相というのは、オブライトが死んだ経緯と全貌なのだろう。現実を受けとめるために、ジーンと同じように国王陛下アヴェインにも、それが必要だったのかもしれない。
そういえばアヴェインも、一番の友達だ、と笑っていた男だった。
マリアが彼らの立場だったとして、もしテレーサに「さよなら」と書かれた遺書だけをもらったとしたら、どうだろう。毒で死んだとだけ伝えられても、納得はしなかったと思う。せめて、彼女の最期を知りたいと望むはずで……
思えば、手紙というものに全て託してしまえれば良かったのだろう。自分が見た事、聞いた事、そして、その決意に至った事の全てと、自分がやろうとしている事を。
オブライトは手紙を書いた事がなかったから、不苦手な字でようやく、短い感謝と別れの言葉しか記さなかった。考えるだけの余裕がないほど彼は苦悩し、テレーサの姿ばかりを目で追っていたから。
「ロイドが今更、その疑問を掘り返すように俺のとこに来やがったんだよ。まったく、今の仕事に専念しろっつうの」
その様子を思い出したように、ジーンが「やれやれ」と息を吐いた。
マリアとしても、先日話を聞かされて、自分の死んだ経緯についてジーンが知りたいと思っている事は念頭に置いていた。アヴェインも、ジーンと同じ気持ちだったとも、今ので理解はした。
しかし、この現状については、どうしても解せないでいる。
「触れられたくない内容に私が関わっている事は分かったが、何故そこで『今の私』が出てくるんだ?」
「だから言ったろ、あいつにはお前が有効なんだよ。しかも、予想以上の効果には、笑いが止まらねぇな」
いつものゲス振りはどこにいったのやら、とジーンが、堪え切れないとばかりに喉の奥でクツクツと笑い、前を見据えながら言葉を続けた。
「とりあえず何にせよ、今深くほじくり返されるのは拙いだろ。……昨日の件だけでも結構なショックだったってのは察せるし」
ジーンが口の中で小さく言い、一瞬笑みを消して「この俺を本気で敵に回そうってんなら、本気で再起不能にしてやるところだが……あいつはバカじゃねぇから御しやすいし、そもそも他の連中があれなんだよなぁ……吉と出るか、凶と出るか……」と思案するように呟いた。
彼の言葉は口に中に消えてしまい、マリアは聞き取れずに顔を顰めた。
「つまり何だ。怒りで矛先を変えさせるための餌って事か?」
「相変わらず鈍いなぁ」
普段の呑気な表情に戻ったジーンが、マリアを見降ろして、二回ほど瞬きをした。
「でも、まぁ、そういう事にしておいても大差ないし。いいよ?」
「よくねぇよ! 阿呆か!」
叫び返した拍子にアーシュが気付き、「お前は大臣様になんて言葉使ってんだッ」と青い顔でマリアの頭を軽く叩いた。加減された叩きっぷりを見たジーンが、「仲良いのなぁ」と笑った。
「大丈夫だって、文官アーシュ君。さっきも言ったけど、俺とマリアは普段から敬語なしの関係だし?」
「えッ、あれって本気だったんですか!?」
「ははは、友人になった経緯については省くけどな~。むしろ、親友みたいに意気投合しちゃってんのよ、俺達」
マリアは二人会話を聞きながら、走りながら叩くという新しい器用な一面を見せたアーシュを、ジトリと見やった。しかし、アーシュは持久力がないのか、荒い呼気を繰り返しながら懸命に足を動かせていて、こちらの睨みに気付いてくれなかった。
どれぐらい走っただろうか。後方のロイドの怒り具合を確認したジーンが、王宮の中央広間に出たところで「よし」と口にした。
「俺はこれから『表』の奴らと謁見があるし、あいつもそろそろ本題を忘れてくれてるだろ。アーシュ君、巻き込んで済まなかったな」
「あ、いえ、……」
「納得出来ないぞジーン! こっちは腹が苦しいうえ目も回るんだが!?」
「はははははッ、お前のためにさ、とっておきの美味い酒も用意してんだ。それで勘弁してくれよ、親友。――本当は、夢なんじゃねぇかって、また会いたくなったんだよ」
ああ、お前、本当にココにいるんだな、とジーンが呟いた。
痛みが覚えない絶妙な加減で、抱えている腕にぎゅっと力が込められた。マリアは、後半の彼の台詞が上手く聞き取れなかった事もあり、訝しげに思って顔を上げた。しかし、疑問を問い掛ける暇もなく、猫のように片腕で持ち上げられてしまっていた。
近くから目が合った途端、ジーンが、にっこりと、無精髭の面には不似合いな爽やかな笑みを浮かべた。マリアは、嫌な予感がして顔を引き攣らせた。
ジーンは、アーシュへ視線を移すと「文官君」と愉しげに言った。
「俺の親友を、よろしくな」
その言葉が告げられた瞬間、マリアの身体が少しばかり宙を舞った。
投げ渡されたのだと気付いた時、マリアは「おわっ」と色気もない声を上げていた。アーシュがギョッとして、慌てて彼女を受け止めたが、細身の彼は受け止めた衝撃と重さを支え切れず、そのまま後ろにひっくり返った。
咄嗟の事だったが、どうにかマリアに怪我をさせないよう配慮したアーシュが、思い切りマリアの下敷きになって「ぐぇっ」と苦しげな呼気を吐き出す様子を見て、ジーンが「ふはっ」と愉快そうな笑みをこぼした。
「こりゃあ良い。じゃあなッ、親友!」
ジーンはそう言い残すと、颯爽と走りながら後方へ首を向けた。
「おーい、ロイド総隊長~? 悪いけどさぁ、俺、そろそろ仕事に行くわ」
「まだ時間があるんだ、逃がす訳がないだろう! 彼女との事をきっちりと説明してもらう!」
「やだ怖い、何ソレ、深い仲を疑われている的な?」
すっかり本題を忘れてやんの、とジーンは口の中で呟き、カラカラと笑った。
「というかさ、マリアが気になっているんだったら、お前が助け起こすぐらいの紳士さを見せればいいじゃん。――あれ? 何々、なんか思い出した? いい歳して頬がちょっと赤いぞ~」
「ぶっ殺す!」
「はははははははっ、無理無理、おじさん今から謁見あるし?」
騒ぐ男達のやりとりと喧騒が、あっという間に遠ざかっていった。
マリアはぐらつく頭を抱えながら、アーシュの上から退いた。自分のせいで受け身が取れなかったのだろうと推測すると、申し訳なさを覚えて、考えもないままアーシュに手を差し出した。
「ごめん、アーシュ。大丈夫?」
「なんだったんだ、あの騒ぎ……」
手を借りて立ち上がったアーシュが、顔を顰めながら、打ちつけた背中に手をやった。彼はマリアを受け止めた時の衝撃を思い返しながら、「大臣様、軽そうに担いでたけど、結構鍛えてんのか?」と口の中で疑問を呟いた。
……あれ? そういえば、触れても平気なのか?
マリアは、遅れて彼の女性恐怖症を思い出した。自分の頭を叩き、身体を受け止め、手を取ったアーシュを、思わずまじまじと観察してしまう。
いくら待っても、彼の身体にその兆候は表れなかった。いつの間にか、友人同士の接触が出来るまでになったらしい。出会い頭の怯えようや、うっかり失神させてしまった数々の失態を思い返すと、とても大きな進歩だと思えた。
重度の女性恐怖症も、このまま改善を見せていく可能性もあるのではないだろうか。そう考えると、まるで弟分のような後輩や、若い部下の成長を目の当たりにするような感慨深さも覚えて、マリアは「すごいな」と自身の素直な感想を口走った。
すると、その呟きが聞こえたのか、アーシュの訝しげな眼差しがこちらに向けられた。
「あの騒ぎ、マジでなんだったんだ?」
「えぇと、その……うん、友人が申し訳ない…………」
マリアは、うまい言い訳も思い浮かばず、アーシュからそろりと視線を逃がした。
「……マジで友達なのか……お前ってさ、結構大物なんじゃねぇの?」
「タダノメイドデス。というか、アーシュだって、親友兼幼馴染の殿下がいるでしょ」
話しをそらすように指摘すると、アーシュが考えるように目線を上へやり「そう言われてみると……確かにそうだな。なんだ、普通なのか」と半ば納得するように首を捻った。
その時、思案していたアーシュの肩に人がぶつかった。
先程の逃走劇で疲弊しきっていたアーシュが、「うわっ」と声を上げてよろめいた。彼の身体が床に転がりそうになったのを見て、ぶつかってしまった人物が細く華奢な手で、慌てて彼の腕を掴んで支えた。
「ごめんなさいッ、少し急いでおりましたものですから」
そう声を掛けて来たのは、図書資料室のカウンターにいつも座っている女性司書員だった。マリアは、挨拶よりも先に彼女の豊満な胸に目がいってしまい、「今日もいい形だな」と思ってしまった。
アーシュが、しばし茫然としたように女性司書員を見つめ返した。彼は自分の腕を掴む白い手へ目を落とすと、もう一度彼女へ視線を戻し、さぁっと血の気を引かせた。
文官服の襟から覗いた首元から、じわじわと蕁麻疹が広がっていった。
ようやく女性の胸元から顔を上げたマリアは、彼の症状に目を止めて「あ」と呟いた。アーシュからようやく手を離した女性司書員が、心配そうに目尻を下げて「大丈夫?」と、彼の顔を覗き込んで尋ねる。
「~~~~~~ッ!?」
元々、重度の女性恐怖症なのである。大丈夫なはずがない。
アーシュ自身、マリアに触れても大丈夫なようだとは遅れて察していた。思えば最近、マリアに関しては異性としての恐怖感は全く抱いていないのだ。ルクシアと二人で話したように、まるで仲の良い男友達のように気楽でいられる。
しかし、そんな事を考えるだけの僅かな余裕も、目の前で揺れる豊満な身体をした女性司書員の存在で吹き飛んだ。アーシュは声なき悲鳴を上げて、そのまま後ろにひっくり返った。
ゴンッ、と鈍い衝撃音が響いたが、意識を失ったアーシュは、白目を剥いたままピクリとも反応しなかった。
マリアが「そっちの反応は相変わらず健在かよッ」と駆け寄る中、女性司書員を含む周りの通行人達がギョッとしたように飛び上がり、男達が野太い声を上げて「救護班を呼べ!」と騒ぎ立てた。




