九章 その毒の名は(1)上
リリーナが、王宮で教育を受け始めて五日目。
ジーンとの再会から二日が経ち、マリアは、五回目の登城を迎えた。王宮で続けて出迎えてくれたのは、時間があったらしいレイモンドで、この日も彼が三人を待っていた。
レイモンドは、子を持った大人の暖かい雰囲気でリリーナとサリーに接したが、マリアを見ると、落ち着かせていた鳶色の瞳に若々しい光りを戻した。目尻に薄い笑い皺を刻み、労うように笑って「やぁ、マリア」と親しく声を掛けた。
ロイドの騒動から始まり、巻き込まれ関わり続けた事もあって、随分と打ち解けられたようだった。
「アーシュと上手く活動出来ているようで、ほっとしている」
レイモンドは、こっそりと、そんな本音も語った。
ヴァンレットは、第四王子クリストファーに付いているので、朝と午後に顔を会わせた。マリアは、彼から「報告は大丈夫だった?」と思い出したように聞かれた時、笑顔を貼り付かせて「先日に、問題なく経過報告をしました」とだけ答えた。
不思議だが、この二日間、ロイドからの呼び出しはなかった。
ジーンと予想外の再会を果たしてから、レイモンドとヴァンレットの他には、見掛けてもいない。
広い王宮で、特定の友人に出会う確率の方が低いのだ。
マリアは、一瞬脳裏に過ぎった『嵐の前の静けさ』という嫌な予感を否定した。
その間、第四王子の世話と護衛にあてられた者達の間で、クリストファーとリリーナに強い人気も集まり始めていた。
クリストファーとリリーナは、毎日、揃って同じ大きなリボンを身に付けている。国王陛下と、アーバンド侯爵家から揃いのリボンが贈られており、帰り際に次のリボンを決めて別れる、という日課が続いていた。
愛らしいリリーナは、城内でもすっかり「リリーナ様」「リリーナ嬢」と、着々とファンを作っていた。
そのせいか、当初は『リボンをした珍しいメイド』という印象で見られていたが、最近のメイド達は、マリアのリボンに羨ましそうな眼差しを向けるようになっていた。
何故か、男達もマリアのリボンに熱心な視線を送って来た。
今朝に関しては、小さな声で「いいよなぁ」と願望のような呟きをこぼす兵士までいた。
さすがにお前達は無理だろう……というか、軍服のどこに付ける気だ?
マリアは、まさかと思いながらも、心の中でそう呟かずにはいられなかった。
※※※
この二日間、ルクシアは研究私室に閉じこもっていた。
タンジー大国に関わる書籍は全て確認したが、彼が求めるような収穫は得られていなかった。それでも、ルクシアは【謎の毒】を調べるにあたっては、タンジー大国を除外するつもりはないらしい。
彼は「タンジー大国の周辺地の毒、それから国交のあるところも」と調べる範囲を広げ、研究機関から資料を取り寄せ、図書資料館にマリアを向かわせて、昼食を研究室で済ませるぐらい没頭していた。
マリアは珈琲を淹れ、食事を用意し、研究室と図書資料館を往復するのがほとんどだった。
助手としてルクシアに大きく貢献したのは、アーシュだった。彼は速読と絶対記憶力を最大活用し、それぞれの毒を比較し、調合の際の反応も併せて確認し、ルクシアに報告出来るぐらいまでに急成長していた。
「俺は考える事が苦手で、知識を詰め込んでいるだけなんですよ」
ルクシアに褒められたアーシュは、自信もなさそうに笑った。ルクシアは「そんな事はありませんよ」と、少し驚いたように言った。
「研究助手でない事が惜しいぐらいに優秀です。私は、ずっと一人でしたから、人手があるのが心強いとは知りませんでした。本当に助かっていますよ」
「俺は素人なので、お役に立てていたら嬉しいですけど……ッて痛い!」
「自信を持ちなさいよ、アーシュ。私とは比べ物にならないぐらい立派だから」
珍しく後ろ向きなアーシュを励ましてやるべく、マリアは、彼の背中を軽く叩いてやった。
アーシュが我に返ったように蒼白になり、遅れて気付いたように「蕁麻疹ッ」と慌てて確認し出した。彼が女性恐怖症であった事を、うっかり忘れていたマリアも、思わず目を丸くして、彼の身体に異常が出ていないか凝視してしまった。
数秒ほど確認し、蕁麻疹といった兆候がない事を見て取ったアーシュが首を捻り、マリアは胸を撫で下ろした。
「一瞬だから大丈夫だったのか……危うく国で一番不味い気付け薬を飲まされるところだった…………」
「びっくりした~。ごめんな、アーシュ」
「ほんとにな~……ッて違うわ! お前女だろ!? 女がバカ力で背中を叩くんじゃねぇっての!」
思わず素で謝ってしまったマリアは、すぐにルクシアへと向き直った。
「すみません、ルクシア様。私、アーシュと違って全然役に立てていません」
「おいコラ無視すんなッ、勝手に話を戻して、なかった事にするな!」
目を通せる本のページも少なく、マリアがきちんと協力出来ているのは、身の回りの世話ぐらいだ。二日前に書き上げた報告書も、あまりに不評だったのか、あれ以降アーシュから書けとも言われていない。
しばし目を見開いていたルクシアが、ふっと、大きな金緑の瞳を困ったように細めて笑った。
「いいえ。あなた方がいてくれて、とても良かったと思っています」
最近、ようやく父上達の言葉が理解できそうな気がしています、とルクシアが独り言のように続けて、十五歳よりも幼く見える顔に苦笑を浮かべた。表情は大人びてもいたが、取り繕う様子がないせいで、どこか年相応にも見えた。
彼の後半の呟きは理解できなかったが、マリアは何だか嬉しくなって、腰に手を当てて胸を張った。
「一人よりも二人、二人よりも三人って言いますからね!」
そう教えてやると、ルクシアが感心したように「なるほど」と頷いた。しかし、アーシュは「……物理的な方の話じゃねぇよな?」と片頬を引き攣らせていた。
◆
宰相室に呼ばれたのは、その翌日の、六回目の登城を迎えた日だった。
ルクシアが三日目振りに食堂を利用する事になり、三人で食堂まで足を運び、食事を終えて戻ろうとしたところで、伝言を頼まれていた若い騎士が、マリアに声を掛けたのだ。
ルクシアとアーシュは、状況報告かもしれないと察した顔で、マリアを見送った。マリアも、もしかしたらロイドが忙しいため、宰相のベルアーノが報告をもらっておくように指示されている可能性を思った。
宰相が一人で待っているだろうと執務室へ足を踏み入れたマリアは、入ってすぐ、彼の書斎机の前にいたモルツと目が合った。
「お前、総隊長と喧嘩でもしましたか」
「何でモルツさんがいらっしゃるんですか」
開口一番に言われた言葉に対して、マリアは思わず、真剣な顔でそう訊き返してしまった。
モルツは、黒に近い色素の髪が邪魔にならないよう、横にしっかりと撫でつけ、相変わらず氷のような美貌をたずさえていた。切れ長の艶やかな碧眼でマリアを見降ろし、揃えた手で眼鏡の横を押し上げる。
モルツと会うのは三日前振りだが、感慨深さは全く覚えない。
マリアは、ひとまず彼を素通りする事を決め、宰相の方へ足を進めた。
部屋の主である宰相のベルアーノは、大きな身体を書斎席の長椅子に沈めていた。少々張りのなくなった銀髪を、清潔に見えるよう整えてはいるが、モルツとのやりとりに疲れたと言わんばかりに、水色の瞳には覇気がなかった。
マリアが心中を察しながら「こんにちは」と声を掛けると、ベルアーノは、やや疲れ気味に目を和らげて「先日以降だね。突然呼び出して済まない」と苦労の窺えるような吐息混じりの声で答えた。
改めて室内を見渡したマリアは、先日ロイドによって破壊された執務室が、王宮の職人たちの技術で完璧に元通りになっている様に感心した。
いつも素晴らしい技術だな、と頷かされていただけはある。
思えば昔から、王宮内で騒動が勃発するたび同じように感じていた事を、マリアは懐かしく思った。特にロイド少年が入隊し、就任してからは安全な場所など、どこにもなかった。
「私を無視するとは良い度胸です。実に素晴らしい。空気のように扱いつつも、蔑む視線ぐらい寄越すべきだと思います」
「放置プレイじゃねぇよ」
考え耽っていたマリアは、反射条件のように言葉を返していた。遅れて口が滑った事実に気付き、少女らしく口に手をあてて、そっと視線をそらした。
しばらく、ぎこちない沈黙が続いた。
唖然とするベルアーノから向けられる視線が、とても居た堪れない。
「……嫌ですわモルツ様。たかがメイドに、そのような事が出来るはずがございませんし」
マリアは視線をそらしたまま、どうにか取り繕いの言葉を口にした。
「完全な棒読みですね。先程入室した際『モルツさん』と口にした時点で、お前は抜けています。そして友人認定しましたので気遣いは不要です。総隊長とは喧嘩ですか?」
「そこで話しを戻しますか」
マリアは、正面からモルツを見つめ返した。彼の碧眼をじっと探ってみたが、どういう目的があっての質問なのかは読めなかった。
ひとまず、マリアは疑いを断つ事を考えて、自信溢れる愛想笑いを作った。
「喧嘩も何も、総隊長様にそんな事出来ませんわ」
「三日ほど前、あの総隊長が、ソファの上で珍しい姿勢をして転がっていたのですが。はあ、羨ましい。一体どんなご褒美があって――」
「誤解されるような事を口にしないで下さい」
妙な吐息をこぼすな。ベルアーノに誤解されたらどうしてくれる。
ニールの誤解を解くのも大変だった事を思い出し、マリアは苛立ちを覚えた。彼の変態的な発言に終止符を打つべく、憮然と仁王立ちし一気に捲くし立てた。
「確かに私は、あの方に仕事の報告を致しましたが、意見の相違がありましたので、思わずその場でぶっ飛ばしてしまいました。それだけです」
ベルアーノが「『そんな事』が出来てるじゃないか」と茫然としたように呟いた。モルツが「なるほど?」と器用に片眉を引き上げる。
マリアとしても、普段であれば、ロイドからの報復に怯えるところではあるが、あの時の彼は正気ではなかった。あれはロイドが悪いのであって、マリアが行ったのは立派な正当防衛である。
彼が受けた苦痛については、同情する気もない。
奴の記憶はごっそり飛んでくれただろうかと思いながら、マリアは仁王立ちのまま、顎を持ち上げてモルツを挑発するように睨み付けた。
「それで? 総隊長様は、逆上でもされているんですか。言っておきますが、私は謝りませんよ」
「お前は一気に失礼になりましたね。いいでしょう。そのままもっと虫けらを見るような目をなさい」
阿呆、誰がそんな目をするか。お前の要望には絶対に応えないからな!
マリアは断固拒否の意思を示すべく、胸の前で腕を組み、こちらを冷やかに見降ろすモルツの目を見つめ返した。彼の形の良い切れ長の瞳は、相変わらず知らない人間が見れば、一瞥されているとも受け取れるぐらいに鬼畜じみて見える。
そう改めて考えた時、ふと、一つの解決法が脳裏を過ぎった。
マリアは無い想像力を働かせ、不躾にも、友人の顔をまじまじと観察した。思うだけならタダだろうと、顎に手をあてて真剣に考えてみた。
「……『虫けらを見るような目』か。眼鏡を取って、自分の顔を鏡で見た方が手っ取り早いんじゃ……?」
「お前は残念な人間ですね。考えている事が口に出ていますよ。Mの世界も色々と深いのです、それを何も理解していないようですね」
途端に、モルツが残念そうに「ふぅ」と弱々しく首を振った。
そんな深い混沌なんか覗き込むつもりもねぇよ、とマリアは本気で彼が嫌になった。
「なんで私が悪い感じになってるんですか。そもそも、理解するつもりはな――」
「こう見えて、ベッドの上では攻めです」
「そんな事誰も聞いてねぇよ!」
お前阿呆なの!? ……あ。畜生こいつ、ただの変態だった!
マリアが心の中であらゆる罵倒を叫び、地団太を踏む様子を気にも留めず、モルツは揃えた指先で眼鏡を押し上げると、「総隊長についてですが」と勝手に話の路線を戻した。




