八章 錯乱した魔王と、再会した親友(5)下
第四王子の私室で崩れ落ちる、という失態を晒してしまったが、その後はスムーズに対応して部屋を後にする事が出来た。
マリアは帰りの馬車の中で、ロイドのせいで朝に果たせなかった『リリーナを膝の上に乗せる』を成功させた。
残念な事は、ダンスのレッスンで疲れてしまったリリーナが、すぐに眠ってしまった事である。沢山話したい気分だったが、ぎゅっと抱き寄せて寝顔を堪能し、愛らしい柔らかな頬をつついて満足する事にした。
隣に腰かけたサリーも、しばらくすると珍しく寝入ってしまったので、マリアは彼に肩を貸してあげた。
二人分の温もりを覚えながら、今日は最高の一日で終わるかもしれない、と幸福感に包まれた。侯爵邸に帰ったら、もっとハッピーな事が待っているかもしれない。
「…………認めた人じゃないから、ダメだもの」
ふと、サリーが小さな呟きをこぼした。
「ん? 何が?」
マリアは、寝言だろうかと思いつつ尋ね返した。すると、肩に頭を乗せていたサリーが、一度頭を起こしてふんわりと微笑み「何でもない」と、少し恥ずかしそうに身をよじって、再びマリアの肩に頭を預けて目を閉じた。
「………………」
だから、なんでそう、いちいち可愛いのかな。
圧倒的な女子力の差を思い、マリアは沈黙した。
※※※
夕刻、マリアは「暇か?」と料理長のガスパーに呼び止められた。
目立つ橙色の髪をした屈強な中年料理長は、先程まで煙草を吹かしていたのか、彼が愛用している異国の葉の香りがした。彫りが深い顔立ちをしているせいで強面ではあるが、不敵な笑みを浮かべた眼差しは、愉快そうな輝きを宿している。
彼の向かいには、中途半端に赤毛を伸ばした庭師のマークもいた。
長身でひょろりとしたマークは、垂れた深い茶色の瞳をマリアに向けると、「よっ」と軽い調子で手を上げた。一度着替えたのか、作業着には土汚れが見られなかった。
マリアは、先程リリーナと別れたばかりだった。
もう少し愛らしい幼い主人と触れあっていたかった、と考えていたマリアは、ガスパーの次の言葉を聞いて目を丸くした。
「え。お嬢さまの湯浴み、私も手伝って来ていいんですか?」
「バカヤロー。元になった台詞を丸ごと変える勢いで聞き間違えんな。残念ながらそれは、お前の妄想と願望の産物だ」
最高に良い事が起きる気がしていたので、まさかとは思っていたものの、それはなかったらしいと、マリアは遅れて理解した。
マークが「マジで危ねぇ目をしていた」とドン引きする横で、ガスパーが怪訝な表情をした。
「なんだ、疲れてるのか?」
「圧倒的に癒しが足りない」
「すげぇ真剣な表情で断言されてもな。お前の潔さは、男としては毎回尊敬に値するぜ。さすがだ、マリア」
ガスパーは、真面目な顔で「むしろ俺は嫌いじゃない。男なら堂々と、がモットーだからな」と呟いて一つ頷いた。
「もう一度言うが、今日は、お前ら二人で買い出しに行って来い」
そう言って渡された買い出しリストには、いつも通り、契約を取って屋敷に運ばせていない分の少ない一般食材が記載されていた。町の人々と普段から交流を取るのも、アーバンド侯爵家の使用人に課せられた仕事である。
マリアは「了解」と答えたが、ふと思い出してガスパーに尋ねた。
「そういえば昨日と今日、マシューを見ていないんだけど、何か知ってる?」
マシューは、アーバンド侯爵家の長男であるアルバートの侍従にして、灰褐色の癖のない髪をした、童顔で温厚な好青年である。彼は普段、ぴったりとアルバートに付いているのだが、マリアは昨日の朝から、その組み合わせを見ていなかった。
ガスパーとマークが顔を見合わせて、遅れて気付いたように手に拳を落とした。ガスパーは、すぐにマリアへと視線を戻してこう言った。
「そうだよな。お前、日中は王宮に行ってるからなぁ。――あいつ、最近は坊ちゃんの指示で潜入調査もやってんだよ。ここ二日は、特に多忙らしい」
「また一人二役?」
「『国王陛下のため』の案件が、今回は相当デカいらしくてな」
マシューは、控え目な性格をした男だったが、その演技力は戦闘使用人の中でトップに立っており、全く別人のように自分を作り上げる事が出来た。臨機応変が利くところもアルバートに信頼されており、どんな場所にでも溶け込める才能を持っている。
先頭使用人の中で、執事長と料理長に続いて活動的なマシューを思い浮かべ、マークが「仕事が二重とか、体力のない俺には無理だわ」と肩を竦めた。
「というかさ、お前も王宮で『表』の連中と動いてるだろ。それ繋がりらしいぜ? ちなみに、今日はギースも出払っている」
「あら、珍しいんじゃない?」
「どうも探し物があるらしいな。実在しているのは分かっているが、現物が確認されていないお宝みてぇなもんで、保管場所の候補が上がったから、手っ取り早くギースを向かわせたって聞いた」
マークの話を聞きながら、マリアは、ロイド達に協力するように、とアルバートから頼まれた日を思い起こしていた。
あの指示が、ルクシアが【謎の毒】の正体を探っていると踏まえられてのものだとしたら、アーバンド侯爵家は毒の内容については『表』に任せて、作られた毒そのものを追っているのではないだろうか。
ジーンは、十六年前から未知の毒を追っている、と口にしていた。
今、本格的に【国王陛下の剣】が動き出しているという事は、つまり、魔法のようなその毒はただの推測ではなく、確かに存在していると確定されている状況なのだ。
国王陛下が中心となって進められているらしい一掃計画を円滑に、迅速に進めるにあたって、先に毒を確保する必要性が出ているのかもしれない。
まだロイドには知らされていないようなので、まだ極秘案件なのだろう。彼は、今回追っている件に毒が関わっていると既に踏んでいるようでもあったから、いずれは追って指示を受けるか、情報が公開されるとは思うが。
頭がパンクしそうだな。一体、どんな事が起こっているのやら。
そうマリアが思案しているそばで、マークが、けだるそうに欠伸を噛み締めた。
「忍び込むのは、ギースの十八番だし。まぁ、おかげで俺が、厨房業まで手伝うはめになってんだけど……」
「こういう時こそ使わねぇでどうするよ」
「俺、そのせいで睡眠時間がヤバいんすけど」
勘弁して欲しい、とマークが眉尻を下げて項垂れた。
ガスパーはニヤリとすると、「女性陣の仕事を増やす訳にゃいかんだろ」と言い、僅かに伸びた無精髭を撫でながら、含む眼差しをマリアへと向けた。
「旦那様としては、上手く進むようだったら一部は『表』の連中に回すつもりでいるらしい。俺たちにも仕事が回ってくるだろうから、お前のところも早く終わるといいが」
「うーん、どうかしらね……」
ロイドから頼まれた協力を達成するには、ルクシアが【謎の毒】の正体を突き止めるか、彼を狙う何者かを叩き潰す必要がある。大目に見るのであれば、【謎の毒】について、本格的な研究に乗り出せるぐらいの材料が揃う事だろうか。
頭が痛くなって来て、マリアは考える事をやめた。
マリアは頭脳派ではないのだ。ジーンのように、多くの物事を同時に考える事なんて出来ないし、腹の探り合いも無理である。アーバンド侯爵達も考えているだろうから、必要になれば、途中だろうと引き戻すだろう。
すると、これで話は終わりだと言わんばかりに、ガスパーが手を叩いた。
「よし。それじゃ買い出しに行って来い。ちなみに、マシューは『セザリウス・オーディー』って名前で動いているからな。頭の片隅にでも残しておけよ、マリア」
「セザリウス……セザリウス…………」
「駄目っすよ、料理長。マリアの事だから、数十分後には忘れてますって」
口の中で反芻するマリアを見て、マークが片手を振って指摘した。
「問題ねぇよ。マリアの場合、自分で思い出すのは苦手でも、見聞きすると記憶が引っ張り出されるタイプだからな」
ガスパーはそう言うと、笑うような吐息をこぼして踵を返し、「じゃ、頼んだぜ」と片手を振って歩いて行った。




