八章 錯乱した魔王と、再会した親友(2)下
ルクシアは作業台に戻ってくると、本日の指示を下した。
「タンジー大国に関わるものは、ここに持ってきた本の他はありませんので、頑張って読破しましょう」
作業台に積み重なった本の山は、腰掛ける面々の頭の高さを超えていた。
タンジー大国の本が圧倒的に少ない、とルクシアは説いていたはずだが、これで数が少ないと言われても実感が持てない。マリアとしては、結構あるもんなんですね、と言っていいものか悩ましかった。
いや、何も考えない方がいいのかもな。
ルクシアとアーシュが、読み進めるものについて小難しいやりとりをする傍らで、マリアは、しばし呆然と積み重なった本の頂上を眺めていた。
気のせいか、特に力も入れていないのに、薬を塗られた額が軽くツキツキと痛む。
「おい。露骨にドン引きするなよ。女としてアウトな顔になってんぞ」
「マジか。え、何も考えないようにしたんだけど、顔に出てた?」
「ほんっと呆れたやつだよな、女が『マジか』なんて使うなよ。ほれ、お前のは薄い本なんだから、頑張れ」
アーシュが呆れたように言い、字が比較的大きな本を見繕って、マリアに手渡した。
読書は大の苦手ではあるが、この作業が嫌という訳ではないのだ。けれど、それを告げようにも説明するのは難しく、うまく納得してもらえる言葉も探せないと気付いて、マリアは結局「うん」とだけ答えて本を受け取った。
オブライトであった頃、テレーサにタンジー大国の出身だとは聞かされたが、彼女はあまり自国については語らなかったから、マリアはタンジー大国をあまり知らない。
マリアとして関わる事はないだろうと思っていただけに、タンジー大国に少しだけでも触れられる機会が出来た縁は感慨深く、テレーサの出身国とあって、個人的にも少し興味があった。
もしかしたら、知る事が叶わなかったテレーサと深い関わりのある土地も、この中にはあるのかもしれない。
そう想像すると楽しくもあり、マリアは「よしっ」と意気込んで本を開いた。
タンジ―大国には、集落によって習慣や文化も異なる民族が暮らしており、市民の間では安価な薬草を使用した独自の調合薬も出回っている。
マリアがアーシュから手渡されたのは、その中でも、使い方を間違えると毒になる薬草が載せられた図鑑の一つだった。
原料ジダンドは、地中に住む伝説上の生き物に似た球根。名前の由来は、その昔、一人の女が熱病に倒れ、そこにやってきた地中霊ジダンドがその球根を煎じて与え……
国の特色なのか、名称の由来がお伽噺や物語に関連されているものが多かった。小難しい説明書きばかりではないので、なんとなく面白くも感じる。
タンジー大国は、きっと信心深い人種の国なのかもしれない。
マリアは自然とそう考えながら、ページを捲った。
「ん……?」
お伽噺で、そして物語のよう。
ふと、そのキーワードが思考の片隅に引っかかり、マリアは違和感を覚えて手を止めた。
思えばずっと、タンジー大国、毒、赤い唇と聞いてから、胸にもやもやとした物が残っている。マリアが思わず首を捻ると、それを横目に止めたアーシュが顔を上げた。
「おい、どうした? 本から目が離れてるぜ」
「あ。……その、タンジー大国の薬草とか毒って、結構物語になっているものが多いんだなぁと思って」
それが面白いと感じたのは嘘ではないが、口に出した事で、自分の中に目新しいという思いが込み上げていなかった事にも気付かされた。
タンジー大国では、名称の由来がお伽噺や物語になっている事も多い。
それを、以前から知っていたような既視感も覚えて、マリアは困惑した。
アーシュが訝しげに眉を寄せ、「まぁ、そうみたいだな」と答えたところで、向かい側にいたルクシアが、一度本から顔を上げてこう説いた。
「あちらは多神教国家ですから、恐らくそこが影響しているのだと思います。有名な自然遺跡に関しても、国内で伝えられている神や精霊の名前が付けられているものが多いようです。特産品であるアルプの果実は、女神アルプが土地を荒していた猿神へ送った知恵の実、だとも伝えられていますし」
アルプの果実。
その名前の由来を聞いた事があるような気がした時、ぐらりと脳が揺れ、思考があやふやになった。
目の奥が鈍く痛むのを感じて、マリアは目頭を揉み解した。
甘い匂いが、古い記憶から鼻先に蘇るような気がする。
黒い髪をした彼女は、アルプが大好きだった。向こうの国の女性の間では人気なのだと言って、更に甘く加工された香水まで持っていた。
テレーサは、いつも強く甘い匂いがしていたが、あの日だけは違っていたように思う。
オブライトの敏感な鼻にも好印象な、どこか酔いそうな甘い香りで……
あの日とは、いつだっただろうか?
あの頃オブライトは、誰かに、何かを伝えるべきだろうか、とも悩んでいたはずだ。しかし、どうしてか、集中力を振り絞っても思い出すことが出来ない。
まるで、本能的な拒絶でもあって、思考が邪魔されているような気がする。
あ。そういえば、基本的に物覚えは悪かったな……
マリアは、疲労感のまま机に突っ伏した。深い溜息をつき「なんだったかなぁ」と素のまま呟く。
頭上からアーシュの「もうダウンか?」という声が降って来たが、顔も上げる気力が湧いてこず、手をひらひらと振って応えた。
「つか行儀悪ぃな。がさつ過ぎるにも程があるだろ」
「己の記憶力と、集中力のなさを痛感してる……」
「は? どういう事だよ、意味分からん」
「うーん。なんというか、似たような話しをどこかで聞いたような、見たような……?」
「ふうん、それって、タンジー大国に関わる話しか? なら、読んでいたらそのうち思い出すんじゃね?」
関わるかどうかも曖昧なのだが……と心の中で呟きかけ、まぁ諦めるしかないかとマリアは頭を上げた。しかし、不意に、先程のロイドの表情が蘇り、それは精神的な疲労を受けた心にはダメージが大きくて、再び机に突っ伏してしまった。
畜生。せっかく忘れかけていたのに、なんでこのタイミングで出てくるかな。
ロイドは、パーティーに集まる華やかな男達の中でも、一際目立つ美貌の少年師団長だったが、性格はドSでゲス野郎だ。これも嫌がらせの一環なのだと、単純に考えられる状況であったのなら、割り切るのも楽なのだが……
前触れもなくポンと思い出してしまった理由は、何となく分かっている。
元々そういう世界には疎かったのだから、切実にやめて欲しい。
この世界で女性の婚期は、十六歳から二十二歳だ。マリアは、アーバンド侯爵に「望むのなら、見合いの協力も惜しまないよ」といわれ、「テレーサとのような、フワフワとした幸せな恋愛は良いよなぁ」と薄々考える事はあった。
しかし、今回の一件で、自分とテレーサのような愛が、少数派なのかもしれないと不安に思った。
なんというか、ロイドに向けられたような、あの強烈な眼差しや熱に耐えられる自信がない。最後に彼に放った罵倒は覚えていないのに、生々しい表情が中々記憶から消えてくれないのが、それを証明しているような気がする。
ああいうのは、自分には無理だと感じてしまうのは、元同性であるせいなのだろうか。
それとも、オブライトであった頃の二十七年と、マリアとして生きた十六年を足しても、理解に及べない未熟な精神ゆえなのか。
「ん? つまり、馬鹿ということか……?」
一つの結論を導き出したマリアは、軽くショックを覚えた。それは、いわゆる中身が『おこちゃま』のままという事なのだろうか。
嘘だろう、信じられん、まさか。いやいや、自分に限ってそのような事は……
マリアが悩ましげに頭を抱えていると、ルクシアが心配そうに眉を寄せた。彼はアーシュからも目配せされてしまい、思案するよう視線を泳がせると、小さく息をついてこう提案した。
「どうやら、集中力が切れたようですね。あなたの事ですから、少し歩けば集中力も戻ると思いますし、読み終えた分の本を返却してきて頂いてもよろしいでしょうか?」
「力仕事ですか。ならば、お任せ下さい!」
気分転換には、身体を動かすのが一番である。
マリアは即答すると、必要のなくなった本の山を両手で抱え持った。頭よりも高く積まれた本の横から、前方を確認しつつ歩き出したマリアを見て、アーシュが「おい、それじゃあドアが開けられないだろ」と声を掛けた。
しかし、意気揚々と鼻歌交じりに「ふんふん」とリズムを刻み出していたマリアは、それに気付かなかった。
二人の男達がフォローに回る暇もなく、マリアは大量の本を持ったまま軽々と歩き進むと、ドアを慣れたように足で押し開けた。この手の扉は、ある程度の強い力を加えれば開いてくれる事を、彼女はオブライト時代に体得していたのだ。
ルクシアとアーシュが、唖然とした様子で硬直した。
「……ッてコラ、お前はどこの道端で育った野生児だ!」
アーシュが説教する声を上げたが、数秒遅かった。
既にその場を離れていたマリアは、「ふんふんふ~ん」と鼻歌をうたいながら、小走りで颯爽と図書資料館を目指したのだった。




