七章 懐かしいあの人は(2)
走って、走って、死体を避けて駆け抜けた。
たった一人立っているであろう、あの人を探して、「一番乗りだぜ」と、いつもの調子で迎えに行った。
けれど、そこにいたのは、泣き崩れているヴァンレットだった。
ひどい顔をして、助けを求めるように俺を見た。
俺は膝を落として、震える手をどうにか堪えて、あの人の腹に突き刺さっていた短剣を抜いた。
仲間たちが駆けつけて場を踏み荒らした時、俺の耳が、土砂のはねる音を拾った。
そんなに出血の見られなかった、あの人の隣の土に手を触れると、染み込んでいたらしい血がべっとりと手を染めた。
生きているみたいに生温かくて、気味が悪くてズボンに拭ったが、しばらくは乾く様子がなかった。
「お前、軍を離れるつもりなんだろ? 暇なら付き合えよ」
縛られるのは嫌いだ。型にはまるのも性に合わない。
それでも、たった二年の思い出だったとしても、俺は流浪の傭兵には戻れなかった。
――俺、【騙し打ちのニール】は、そうして副隊長を手伝う事にしたのだった。
◆
モルツを一思いに沈めたマリアは、乱れた呼吸を整えるべく肩を上下させていた。
自ら暴力を求める楽しみとやらは、理解し難い世界だ。それに加担すると想像しただけでおぞましく、ぞわぞわと込み上げる生理的な震えが止まらない。
上空から鳥の囀りが聞こえてきた頃、ヴァンレットが小さく首を捻った。
「マリア、便秘か?」
「違いますッ」
だからッ、お前は、何で全部そこに結びつけるんだ!
以前にも強く感じたが、女性に対しては完全にアウトな台詞選択だ。今のタイミングで言われると、うっかり理性が切れて、オブライトとして猛然と説教してしまいそうな気がする。
更なるストレスを感じる前に、マリアは深呼吸をして自分を落ち着けた。
遅れて今の状況を把握したヴァンレットが、モルツの方へ目を向けて「大丈夫か?」と声を投げた。余韻を味わっているのだから止めるな、というように、うつ伏せたままのモルツの手が、サッと上がった。
ヴァンレットは首を左へ傾け、数秒の間を置いて「うむ」としっかり答え、モルツの手がグッと親指を立てた。
一見すると、長い付き合いによる友人同士の以心伝心にも受け取れるが、二人の心が全く違う事を考え、食い違ったまま互いが一方的に納得しているのは明白だった。
絶対分かっていないだろう。お前らは、ちっとも伝心してないからな。
マリアは目頭を押さえ、揉み解しながら「ぐぅ」と声をこぼした。奴らの思考構造を分析しようとするのは、危険だ。レイモンドだって何度も「頭がおかしくなりそうだッ」と、オブライトに助けを求めてきたのだから。
ようやく少し冷静になれたマリアは、ふと、先程のヴァンレットの様子を思い出した。
「そういえば、先程はどうされたんですか?」
気になって尋ねてみると、ヴァンレットが、きょとんとした様子で首を右へと倒した。
時間差でリセットされたらしい。
マリアは、精神的な疲労を覚えて「あ、やっぱり何でもないです」と、早々に話題を打ち切った。
その時、無駄に頑丈なモルツが復活した。
彼はゆらりと立ち上がると、ずれた眼鏡を中指で押し上げて元の位置に戻した。身体についた土埃を慣れたように払い落とすと、シャツの襟を正し、真面目な顔で「ふぅ」と息を吐いた。
「お前は本当に容赦がない」
お前が迫ってくるからだよ。正当防衛だ。
モルツの口調からは満足感が見て取れて、マリアは露骨に軽蔑の眼差しを向けた。頭の中ではドMとしての満足感を堪能しているにも関わらず、こうしていると完璧な軍人に見えるところも憎たらしい。
オブライト時代、彼に巻き込まれて「え、黒騎士ってSの趣味があるの?」と、もう少しで勘違いされそうになった忌わしい過去は忘れない。
「ところで、お前達はこれから第四王子のところですか?」
「ええ、そうですわ。先ほど、第三王子のところから引きあげてきたところですの」
マリアは、女子力を挽回しようと口調を整えたが、彼の考えが分かって、つい不貞腐れた声が出た。
モルツは少し顎を上げると、「途中までご一緒して差し上げましょう」とマリアを見降ろした。先ほどの褒美の礼だと言わんばかりの、堂々とした宣言だった。
そういえば、こいつは一体誰から『許可』をもらって飛び降りたのだろうか。
渋々ヴァンレットとモルツの間を歩いて回廊を上がったところで、マリアは当初に感じていた疑問を思い起こした。しかし、前方を歩く細身の男に目を止めた途端、注意がそちらへと引っ張られた。
人の絶えた回廊には、マリア達とその男以外に人がなかったから、珍しい赤毛が余計に目を引いたのかもしれない。
見事に赤い色の髪をした男は、王宮では見慣れないくたびれた服を着込んでいた。成人男性の平均からすると華奢な体格だったが、剣術の嗜みはあるようで、細身ながら無駄なく鍛えられているのが、服の上からは見て取れた。
マリアはその男の、肩まで伸ばされた髪先が全て外側にはねているという、既視感のある個性的な後頭部に嫌な予感を覚えた。
まさかな、と心の中に浮かんだ可能性を打ち消した。
目の前を歩く男は剣も持っていないので、きっと他人の空似だろうと思い直す。
すると、向かう先の角から二人のメイドが現れた瞬間、その男が唐突に後ろへとひっくり返った。死んだように両目を見開き、呼吸も止まって胸の動きもない。
モルツは足を止めただけで、慌てる素振りを見せなかった。
ヴァンレットも、二回ほど瞬きをしたが、「おや」と首を傾げただけで動き出す様子はない。
「……」
あの野郎。
出来るだけ関わるべきではないと感じたものの、二人のメイドが被害者になるかもしれないと思うと、どうしても見過ごす事が出来ず、マリアは歩き出していた。
マリアが歩き出してすぐ、メイド達が、倒れている彼に気付いて顔を顰めた。どうやら赤毛男を知っていたようで、遭遇するぐらいなら大回りしようと思ったらしく、来た道を足早に戻っていった。
その様子に安堵しつつも、マリアは、十六年前と変わらない彼のろくでもない趣味と、今は続けられているのか分からない、心臓によろしくない彼の悪戯について考えた。
マリアは、スカートを押さえると、仰向けに倒れている男を見降ろした。
数秒経っても、彼が飛び起きて脅かしてくる様子はない。
男は、本当に死んでいるかのように眼を見開き、苦しんだかのように口も薄らと開けていた。
しかし、自分がよく知る人物だと顔を見て確認したマリアは、容赦なく右足を振り上げ、男の腹部を思い切り踏みつけた。
「ッ痛ぇ!? そこで踏んじゃうのッ?」
「そうやって下から覗こうだなんて、最低ですわ」
死体を演じていた男は、大人のメイド達の気配が遠のいていく様子を探ると、「ちぇ~」と唇を尖らせて、残念そうに身を起こした。
彼は黒騎士部隊にいた、ニールという男だった。
小手先が器用で、重傷も死亡も小道具を使って一瞬で演じ騙してしまうので、仲間内では【騙し打ちのニール】と呼ばれていた。
とはいえ、死んだ振りという最大の特技があるだけで、他には悪戯好きの子供騙しのネタを少々持っている程度だ。
オブライトが知る限りでは、ほとんどロイドにのみ使われていたような気がする。
ニールは、ヴァンレットより一歳年上で、入隊時期は同じ頃だ。まるで十代そこそこの少年のように、スカート捲りや覗きを楽しんでいた一番落ち着きのない部下だった。
しかも、ヴァンレットのように空気を読んだ発言が出来ないタイプで、ロイドと顔を会わせるたびに切られていた。
グイードよりも逃走の手際が良かったから、いつも上手く逃げていた男でもある。
過去を思い返していたマリアは、面倒そうに立ち上がったニールの姿を見て、目を丸くした。
別れた年月から計算すると、彼は今年で三十七歳になるはずだが、その容姿も雰囲気も十六前のままだった。反省のない態度と表情も、失望するぐらいに精神的な成長が見られない。
「ショックだなぁ、初めて見た子は驚いてくれるのに。しかも、いきなり踏むって……」
「突然倒れるなんて不審ですわ」
「なるほど。でもな? 王宮の長いスカートだと、覗くのは無理じゃん? 俺はスカートじゃなくて、下から見る胸の張り出し具合を拝もうと待っていただけであって。まぁ、そのついでに驚かせるのもイイ訳だけど」
それはそれで最低だよ。何やってんだよ、お前は。
マリアは虫けらを見るような目を向けたが、ニールは気にも留めず「はぁ」と溜息をついた。
「最近は中々成功しねぇのよ。スカート捲りは卒業したってたのにさぁ」
「もう警戒されているからではないですか?」
「俺は大人の女が好きなんだ。なのにさ、全然胸もない子供に踏まれるとか、ちっとも楽しくねぇじゃん?」
「うふふふふ」
「あはははは」
大丈夫だ、冷静に接すれば問題ない。
マリアは心の中で深呼吸し、愛想笑いを張り付かせた。
彼は黒騎士部隊の人間なのだから、関わってしまうような事は極力避けるべきだ。出来るだけ話を短く済ませて、別れてしまう方がいい。
幸いにして、目の前で起こりそうになったチカン行為については防げた。それに今の彼が、死体の演技で女性を誘い、突然スカートを捲るような事をしていないと知れただけでも安心できる。そう、彼だって少しは成長しているのだ。
そもそも、マリアは胸のサイズに関して、コンプレックス等といったものは抱いていない。
「君、小さいねぇ」
「おほほほ、――胸が、ですか?」
「え? 違うよ、身長。十三歳ぐらい?」
「十六ですわ」
「えぇぇ、本当にぃ? 大きなリボンも超似合ってるのに? あ、分かった。貧乳か!」
大正解だろうと言わんばかりに、ニールが良い笑顔で、指をパチンと鳴らした。
ズケズケという口の悪さのせいで、毎度ロイドに殺されかけていたというのに、彼は学習していないのだろうか?
彼が剣も持たずに、今は何をしているのだとかは気にならなかった。元から自由な男ではあったし、服装から王宮勤めではないとは分かる。
マリアは、困った元部下を思って「ふぅ」と息を吐いた。
「一言よろしいでしょうか。人間の成長期は、二十二歳まであるのですわ」
「首ッ、首しまってるから! というか、女の子の成長期ってじゅ――」
「二十二歳までは成長します」
片腕でニールの胸倉を掴み上げたまま、マリアは右手に拳を作り、笑顔でそう断言した。
突然の事態に動揺していたニールが、ふと、記憶を辿るように首を捻り「二十二歳って、どこかで聞いた名台詞のような……?」とぼやいた。
その時、モルツが颯爽とやってきた。
彼がぴったりと横に付くのを見て、ニールが「うげっ」と声を上げた。
「何でドMがここにいんだよッ、離れろッ。俺は、お前なんて変態は絶対に殴らな――」
「その拳の方向を、速やかこちらに向けて下さい」
「え、そっち?」
一瞬身構えたニールが、呆けたように目を瞬いた。
マリアは、横から出てきたモルツを思い切り睨みつけ、「阿呆か!」と反射的に怒鳴り返した。
「向けろと言われて向ける奴はいない!」
「お嬢ちゃん、女の子が『阿呆』なんて言っちゃダメだよ、まずは俺を解放してくんない?」
「分かりました。ではニールを殴った後に、いつものように私を蹴って下さい」
「うーわ、そういう関係か。とんでもないな。あ、ヴァンレットじゃん! この変態引き取ってッ。出来ればこの凶暴な子供も!」
「誤解を招くような発言はしないでもらえないか!?」
ヴァンレットが「仲がいいなぁ」と首を傾けた時、一組の足音が、騒ぐマリア達の近くで止まった。
他人の目をすっかり忘れていたマリアは、咄嗟に口をつぐんで、恐る恐る視線を動かせた。モルツとニールも言葉を切り、ヴァンレットと共に「誰だろうか」と目を向けやった。
四人の視線の先にいたのは――
「……また胸倉を掴み上げてる」
そこには、茫然とこちらの様子を見つめている、レイモンドの姿があった。




