七章 懐かしいあの人は(1)
明日もルクシアの研究私室で集合する事を決め、まだ時間のあるアーシュを残して、マリアはヴァンレットと共に戻る道を歩き出した。
危険な薬物も置いてある薬学研究棟は、離れに完全孤立の塔として建てられているため、こちら側は人の出入りも少なく静かだった。体重の違う二つの足音が、耳に心地良いリズムを刻んでいる。
ふと、マリアは、ヴァンレットの視線に気付いて目を向けた。
こちらを見降ろす彼は、相変わらず呑気な表情をしていたが、先程と少し雰囲気が違っているような気がした。何も言わないまま視線を正面へ戻す仕草も、普段はあまり見られないものだ。
ヴァンレットは、昔から熊のような身体をした犬みたいな男だった。負の感情そのものが欠落しているのではないだろうかと疑うほどに悪意を知らず、かなり前向きな思考で物事を捉え、毎日を楽しく過ごしていた。
しかし、空気が読めない彼は、同時に、自分の悩みや不安感にも疎い男であったのだ。
「ヴァンレット様、何かありました?」
マリアが尋ねると、彼は肯定とも否定ともとれない口調で「うむ」と答え、何も考えていないような顔をマリアへ向けた。
「手を、引いてもらってもいいだろうか?」
迷子にすらならないような場所で?
そもそも、こっちは二回目の登城なのだという認識を彼は持って――……いないんだろうな。
迎えに来たぐらいなのだから、普通なら彼が案内するのが当然だ。しかし、そんな事も考えつかないヴァンレットは、マリアに連れていってもらいたいのだと全身の空気で訴えていた。
苦い顔で見つめていると、ヴァンレットが、どこか困ったように目尻を下げた。
大の男なので全く可愛くないが、まるで耳と尻尾を垂れて寂しそうにしている子犬が脳裏に浮かんで、マリアは仕方なく彼の手を取った。
「分かりました。道が分からなくなったら、伺いますからね?」
疑われる事はないだろうと思いつつも、念を押すように告げた。彼は懐くような笑顔を浮かべて、しっかりと肯き返してきた。
マリアは彼の手を引いて、東回廊を目指すべく歩き出した。途中、何度か横顔にヴァンレットの視線を感じてチラリと横目に見やるたび、それとなく彼の視線が離れていった。
ヴァンレットはポジティプな馬鹿だが、こういう時は大抵、何か言いたい事を持っている場合が多い。
マリアは溜息をこぼした。王宮沿いの脇道まで辿り着いたところで、足を止めて彼と向かい合った。
「ヴァンレット様、何か悩んでいる事がありましたら、相談に乗りますわ」
「悩みではないと思う」
自分で言っておきながら、よく分からないというように彼は首を捻った。
「マリアは第三王子と一緒にいて、俺は護衛の任務についていた」
「ん? まぁ、そうですわね」
「途中ですれ違ったりもしなかった。楽しそうに騒いでいると聞いて、王子達と三人での散歩も楽しそうだと思った」
「……楽しそうに騒いだ覚えはありませんし、仕事中に散歩もしません」
ただの移動だよ。騒ぎに至っては事故である。
彼の認識能力と思考構造には謎が多かったが、ヴァンレットが結局のところ、何を言いたいのか分からずマリアは眉を顰めた。
ヴァンレットは首を右へ、左へと傾けながら「うーん」と呑気に青い空を眺めていたのだが、唐突にしょんぼりとしたように肩を落とした。
彼がこのように落ち込むのは珍しくて、マリアは驚いて手を離すと慌てて様子を窺った。
「おい、どうした?」
思わず素で尋ねてしまったが、ヴァンレットは気にした素振りを見せなかった。寂しそうに項垂れたまま、二、三度、チラチラとこちらに視線を寄越してくる。
しばし思案するような間を置いた後、ヴァンレットが一つ頷き、マリアを見降ろした。
「俺も構って欲しい」
「――は?」
こいつ、今何て言った?
ヴァンレットの薄い茶色の瞳は、まるで子供のようにキレイに済んでいた。本心から純粋に、ただ構って欲しいのだと告げている事が分かって、マリアは唖然とした。
「王子達ばかりが構われるなんて、ずるいだろう。俺とも遊んで欲しい」
構って、遊んで欲しいって……お前は子供か! しっかりしろよ三十六歳!
マリアは頭を抱えたくなった。どうしてなのかは知らないが、前世と同じように世話を焼いて、構ってもらえる人間として彼に認識されてしまっている事に気付いた。
マリアは、難しい表情でヴァンレットを見上げた。
どう説明すれば彼に諦めてもらえるのか、分からなかった。
ちっとも可愛くない、むしろ男臭くもある彼の縋るような目が、じっとこちらの反応を待っていた。寂しくて構って欲しいと、幻覚の耳と尻尾まで見えるような気がする。
十六年前の彼の姿が、今のヴァンレットと重なった。
ああ、もうッ
マリアは、彼の手を掴んで力任せに引き寄せた。こっちを見るなと言わんばかりに、半ば屈む形になった彼の芝生色の短髪頭を片手で押さえつけると、思い切り乱暴に撫でた。
「はぁ。まいったな。分かったよ……いえ、分かりました。では、私とお友達になりましょう、ヴァンレット様。あなたが認めて下されば、今から『マリア』はあなたのお友達です。構うのも遊ぶのも、友人だから出来ることでしょう?」
オブライトにとって、ヴァンレットは手間のかかる弟みたいな後輩だった。一番問題を起こす部下で、そして友人だったのだ。
マリアは、少女らしくない苦笑を見られたくなくて、しばらくヴァンレットの頭を押さえつけていた。十六年前よりたくましくなった彼の後頭部を見つめながら、困った奴だなと、知らず寂しそうに微笑んだ。
自分を落ちつけて、そっと手を離した。
ヴァンレットが顔を上げて、驚いた目を向けてきた。
マリアが、得意の愛想笑いをにっこりと浮かべると、彼は嬉しそうに笑って「うむ」と力強く頷いた。
ああ、その顔も昔のままだなと、マリアは、彼に気付かれない程度に目を細めた。
「実は、昔はよく撫でてもらっていた」
「――そうなんですか」
「こう、頭をガシガシとされるのが好きでな」
知ってるよ、ヴァンレット。
二年も懐かれて、振り回された。皆から褒めるように頭を撫でられるのが好きな、本当に犬みたいな奴だった。
「友人という事は、褒められる事があれば撫でてもらえるのだろうか?」
「ん? まぁ、褒められる事があれば」
普段は迷惑ばかり起こす彼も、時々上手いこと動き、褒められるような働きを見る事があった。そんな時、オブライトは「偉い!」「俺の苦労も決して無駄じゃなかったのか……ッ」と、気持ちのままに彼の頭を撫で回していた。
とはいえ、大半はねだられて、仕方なく付き合っていたのだが……
マリアが思い出しながらそう答えると、ヴァンレットは、すっきりしたように身を起こした。それから、閃いたとばかりに「よし」と切り出して、マリアに向かって両手を広げた。
「分かった。抱き上げてやろう」
「待て、何が『分かった』だ。――じゃなくて、なんでそうなるんですか、ヴァンレット様」
「友人なら『様』を付けないし、敬語もいらないのではないだろうか?」
「私はメイドですから、今すぐには無理です。努力はします」
折角メイドとして、淑女らしいマナーや礼儀作法を叩き込まれたのだ。これ以上に女性らしさが損なわれでもしたら、教育にあたってくれたエレナ達が泣く。
すると、ヴァンレットは、実に不思議そうにマリアを見た。
「子供は抱き上げられるのが好きなのだろう?」
「……」
国王陛下アヴェインの子供を抱き上げていた時、オブライトは、ヴァンレットにそう教えた事はある。
しかし、それは十六歳の少女には適用されないと、普通は分からないものだろうか?
「――ヴァンレット様、私は十六歳です、子供ではありません。というか、そんなに頭を撫でられたいんですか?」
「周りの者は、なかなかやってくれなくてな」
三十六歳である近衛騎士隊の隊長の頭を、堂々と撫でられるような人は少ないだろう。そもそも、ヴァンレットに構っていたのは、面倒を見ていた黒騎士部隊の面々がほとんどだったのだ。
数秒ほど考えて、マリアは小さく溜息を吐いた。
最期の日、オブライトは「帰ったら沢山褒めてやるから」と、彼をやや強引に副隊長に押し付けた。その罪悪感が良心をチクチクと刺してくる。
マリアは、半ばやけになって指でしゃがむよう合図した。ヴァンレットが瞳を輝かせて頭を下げたところで、両手に力を込めて、容赦なく彼の頭髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
普通の使用人だったら罰則ものだぞ。
そう思いながら、マリアは複雑な心境で手を動かせた。芝生のような彼の髪は、いつも、まるで刈り取られた固い草をなぜているような気分にさせられる。
しばし頭を撫でられていたヴァンレットの身体が、ピクリと揺れた。
「――――さん」
下を向いていた彼が、何事か口の中で呟いた。
唐突に、大きな両手がマリアの腰をガシリと掴んだ。さっと顔を上げたヴァンレットが、こちらをまじまじと見つめてくる。
彼の唐突な行動に驚いて、マリアは手を止めていた。なんだろうか、と訝しく思っていると――
「……『もっとご褒美を下さい』」
ヴァンレットが、どこか茫然とした様子で言葉を紡いだ。
同じ言葉を、オブライトであった頃に聞いたような気がして、マリアはギクリと身体を強張らせた。
「は、はは……ヴァンレット様、どうして敬語なんですか」
「ん? そういえば、何故だろう?」
話しをそらすように問い掛けると、案の定、ヴァンレットはいつもの調子に戻って首を捻ってくれた。
マリアは、内心落ち着かなかった。
彼の眼差しが一瞬、マリアの中のオブライトを見つめたような気がしたのだ。
その時、その場にいないはずの男の声がした。
「話しは聞かせて頂きました。彼に『ご褒美』とやらがあって、私にはないとは、冷酷鬼畜野郎だとは思いませんか」
そんな主張が上空から聞こえてきた直後、すぐ近くに何かが落下してきた。
着地の衝撃音が起こり、マリアは腰を掴まれたまま「ぉわ!?」と、少女らしかぬ声を上げた。舞い上がる土埃へ目を向けると、そこには、直立での着地を見事に成功させているモルツがいた。
モルツは自然な仕草で土埃を払い落とすと、眼鏡を掛け直し襟を整え、冷ややかな表情でマリアを見据えた。
「お前とは先日振りですね」
「待て待てッ、お前はどこから湧いて出た!?」
「三階からですが、何か? 許可を頂いて飛び降りましたので、問題はないかと」
何か? じゃないだろうッ、どんだけ頑丈な身体してんだよ!
ヴァンレットがマリアの腰から手を離し、モルツを見てきょとんと首をかしげた。
「モルツ、地面が抉れたりするから駄目だといわれていなかったか?」
「『行け』と言われましたので、『行きます』と答えました。つまり、許可は頂いています」
「阿呆かッ誰がそんな許可を出すんだ! 普通は止めるわ!」
驚きで平常心が保てず、心の声がそのまま口から飛び出した。
途端にモルツがこちらを振り返り、「ところで」と口にしたので、マリアは反射条件のように身を強張らせた。
先ほど聞いた『ご褒美』という言葉から、モルツが起こす行動は一つしか思い浮かばなかった。
平常心ではない今聞いてしまったら、高い確率で嫌悪感が爆発するに違いない。
そう分かって距離を置こうとしたマリアは、冷静でなかったために後ずさる方向を間違えた。向かってくるモルツから離れようとばかり考えて、背後の壁の存在をすっかり忘れていたのだ。
やばいと感じた時には、既に遅かった。
逃げ道を断つようにモルツが目の前に立ち塞がり、マリアは、間近から見降ろしてくる美麗な男を見て頬を引き攣らせた。思い切り拒絶したいのだが、罵倒も彼を喜ばせるだけだと分かって、「あ」とも「う」ともつかない声をこぼしてしまう。
「ヴァンレットだけというのは不公平です。分かりました、私も今日からお前とは友人関係です。ですから思い切り痛いのを下さい。さぁ、さぁどうぞ」
彼の鮮やかな碧眼が、異様な輝きを宿してマリアを熱心に見つめて迫ってきた。
次の瞬間、マリアは本能的な危機感から、モルツの腹に思い切り拳を叩き込んだうえで、踵落としをくれていた。




