四章 メイド、王宮へ行く(2)
リリーナの婚約が決まった時点で、専属メイドとして王宮に足を運ぶかもしれない、という未来は想定していたはずだった。
しかし、持ち前のうっかりさで、ド忘れしていたのがいけないのだろう。心構えが全然整わないでいた。
実際に足を踏み入れた瞬間、昔よりも落ち着いた空気を漂わせるキレイになった王宮内に圧倒されて「おっふ」と妙な声が口からもれた。
何もかも敷居が高いように感じる。懐かしいというよりは、妙な警戒心がこみ上げて緊張が解けない。
侯爵家の古風なままの屋敷や、調度品に慣れてしまったのかもしれない。
王宮内の、どこもかしこもキラキラとした輝きが目に痛い。歩く時に大理石が立てる音に、嫌な方向で胸がドキドキするのが止まらない。
首が痛くなるほど高い天井を茫然と見上げていると、案内してくれた衛兵の一人に「大丈夫ですか」と声を掛けられた。少し歩きだしてすぐ、今度は豪華な調度品に唖然と目を向けているところをサリーに「大丈夫?」と囁かれて袖を引かれた。
正面玄関から入る事はあまりなかったせいか、不慣れな道順風景にはそわそわした。
「こちらが奥の宮になります」
衛兵に進む先を促され、王宮内の職についているか、許可された特定の人物達しか出歩けない見慣れた回廊に、思わず安堵の息がこぼれた。
ここは、オブライトの頃によく出入りしていたのだ。騒々しい賑やかな空気はなくなってしまっているが、外観はどこも変わっていなかった。
第四王子の私室は、昔、第一王子と第二王子が、王妃と共に過ごしていた部屋をあてられていた。騎士達のいる区域を隔てて、王宮内で一番安全で長閑だといわれる場所だ。
少ない使用人と騎士が出歩くばかりの回廊の向こうには、人口の湖と、王妃が実家で愛していた薄い水色の、柔らかい丸みの形をした花弁を多くつける野草フィナリスが、その蕾を風で揺らせていた。
クリストファーは、私室の椅子に腰かけて、そわそわした様子でリリーナを持っていた。案内されたリリーナの顔を見るなり、ふにゃりと微笑んで「リリ」と呼ぶ。
思わず駆け寄りそうになったリリーナが、ハッとしたように立ち止まって、後ろ手をもじもじとして令嬢らしく一度礼をとって挨拶した。
マリアは、震える体をどうにか抑え込んで笑みを貼りつかせていた。
悶絶で崩れ落ちそうだった。
リリーナは侯爵令嬢として、クリストファーとは今回が初めての対面となるマリアを、自分専属のメイドだと立派に紹介した。金髪に金緑の瞳をした天使に「よろしくお願いします」と告げられた時、マリアは「鼻血出そう!」という本心を悟られないよう表情筋を総動員して、ニッコリと笑い掛けたのだった。
部屋には護衛騎士であるヴァンレットの他、王子付きのメイドが二人おり、リリーナが席に着いてすぐにケーキと紅茶が用意された。
サリーは出入り口の右側に立つヴァンレットの隣に、マリアは開いたままの扉を挟んだ左側の位置に立った。王宮のメイド達はこちらに背を向けて、扉の外に立つ衛兵のそばに控えた。
ガスパー手製のアップルパイは、クリストファーにも大好評だった。王宮の料理人が作ってもこんなに美味しくならないのだと、幼い彼が笑いながら話していた時、扉の外に控えていたメイドと衛兵がピクリと反応するのを見て、マリアは「あんまりけなしてやるな」と同情した。
人間、誰しも得意不得意はあるのだ。
最近気付いたのだが、ガスパーが料理人として有能過ぎるのだと思う。
ガスパーは異国の料理から、あらゆる身分層の調理法まで習得していた。繊細さの欠片もない態度と言動をする大男ながら、そのイメージを覆すような、超一流の芸術的な菓子やケーキまで手掛けてしまう天才なのである。
幼い二人が、こちらの存在を忘れるように話し出した頃、ヴァンレットが「数日振りだな」と、サリーとマリアを順に見てそう言った。
「マリアと呼んでもいいか。リリーナ様の騎士も、サリーと呼ばせてもらっているんだ」
「はぁ、私の名前を覚えてくれたんですね。別に構いませんが、護衛っていつもお一人なんですか?」
「いいや、今は少し席を外している者もいる。うむ、交代制なんだ。殿下が出歩く場合は、必ず二人以上であたるが」
固定されていないというのも、珍しい気がする。
軍の方で何かしら、特定の戦力を外せない理由があるのかは知らないが、護衛は大事な仕事だ。なぜ制御しにくいヴァンレットが配置されているのか、マリアには不思議でならない。
王族の護衛は、国王陛下の信頼を受けた者があたっている。確かにヴァンレットは裏切るといった事が出来ない、真っ直ぐで馬鹿な男だが、幼い王子が制御出来る人材ではないのも確かだ。
護衛は臨機応変に動き、判断できる能力も高く求められる。先日、リリーナとクリストファーの非公式のお見合いの際、護衛騎士にあてられていたモルツに関しても、同じ事がいえた。
モルツは実力のある男だが、口を開けば毒舌がこぼれ、ニコリともしない顔は子供には強烈な威圧感になるので、第四王子の護衛というのも妙な気がする。しかも、奴もヴァンレット同様に、制御がきかない男である。
そもそも、モルツが名乗っていた銀色騎士団の総隊長補佐というのは、実質的に軍の上から二番目の地位だ。普通なら、そんな人間を護衛につけない。あるとしても、それは王族が重要な場で公務にあたる時ぐらいだろうか。
ん? ドSで鬼畜な破壊魔だった、あの少年師団長にくっ付いていたあいつが『総隊長補佐』という事は……
彼に自己紹介された時から、何か、とんでもない事を見逃しているような気がする。
しかし、マリアがそれを考えようとしたところで「お揃いのリボンなんだね」と中性的な可愛らしい声が聞こえて、思考がぶっ飛んだ。
顔を上げると、クリストファーとリリーナが、大きな瞳を輝かせてこちらを見ていた。
天使が二人いる。え、何、どういう事?
「いいでしょう! 私とマリアはお揃いなのよ」
「いいなぁ。僕も同じリボンをしたいなぁ」
クリストファーはそう言って、少し残念そうに、シャツの襟元を締める細いリボンをつまんだ。
さすがに、ネクタイ代わりに幅のあるふわふわリボンは無理である。リリーナとマリアのリボンは、街中でも見掛けないほどに幅が太く、無駄に存在を主張するぐらい、いや、むしろチャームポイントになってしまうほどに大きいのだ。
しかし、マリアの脳裏には、自分と同じような髪型をするクリストファーの姿が過ぎってもいた。
うわぁ、もの凄く似合う。
むしろ、そうすると王子は女の子にしか見えないかもしれないッ。
「マ、マリア。抑えて、ね?」
サリーが泣きそうな顔で袖をひっぱったので、マリアは、自分が興奮して鼻息が荒くなっている事に気付いた。マリアはどうにか踏み止まると、不審者がられないよう冷静を取り繕った。
その時、ふと視線を感じた。扉の外の見える位置に控えていたメイドの一人と視線が合い、マリアは、その視線に含まれる期待的な思惑を察してしまった。
考えてみれば、可愛い王子がリボンしても問題ないのではなかろうか。
しかも、それを王子付きのメイドが許可するといわんばかりに瞳を輝かせているのだ。マリアは、名案とばかりに掌に拳を落とした。
「クリストファー様、一つ提案がございます」
声を掛けると、クリストファーが「なぁに?」と言いながらコテンと小首を傾げた。
下心のないあざとさは、もはや強力な武器である。マリアは、リリーナと同じように彼を撫でまわして抱き締めたい衝動にかられたが、ぐっと堪えた。
「すぐに同じ物はご用意できませんが、同じ色のリボンがないか、確認してみては如何でしょうか?」
今日のリボンは、マーガレットが「王子様の瞳の色と一緒がいいわよね」と明るい緑に、細く金色の生地で縁取りされていた物を選んでいた。明るい緑の色は希少色でもないので、細かい配色さえ気にならなければ、急きょ色だけでもリボンを揃える事は出来るだろう。
クリストファーが、開かれた出入り口にいるメイド達に、期待の眼差しを向けた。すると、待ってましたとばかりに颯爽とメイドがやって来て、私室にあった続き部屋へと消えていった。
その様子を見守っていたヴァンレットが、マリアの頭を見て「ふむ」と顎に手をやった。
「確かにお揃いだな。今日は揃えたのか?」
「今日も! 揃えているのです。毎日お揃いですわ」
小さな髪飾りなら分かるが、目印のような大きなリボンさえ気が付かないのは、ちょっと問題だと思うぞ、ヴァンレット。
「……ちなみにヴァンレット様、ご結婚は?」
「ん? 独身だが?」
「…………」
はたして男性の結婚適齢期は長かっただろうか。というより、こいつは結婚する気はあるのだろうか。
サリーが、ちらちらとヴァンレットを見た。マリアは彼に目配せし、小さく首を左右に振った。多分、奴はもう駄目なような気がする。大丈夫、一生独身の騎士が全くいないわけではない。
「ようやく俺の名を呼んだな。嬉しいぞ、マリア」
「今のお話の流れ、聞いていました?」
「うむ、『初恋』というものをしたら、結婚しようと思っている。ところで、なんで結婚するのだろうか?」
「話しが飛んで、また戻りましたわね。好きで一緒にいたいからではありませんか?」
マリアは彼の解答を得て、結婚は確実に無理だろうな、という残念な確信を持った。悟りを得ない限り、ヴァンレットは結婚出来ないに違いない。
妙な趣向は持っているが、性癖に関して問題のないモルツは、貴族としての意識も高かったので、恐らく結婚ぐらいはしているだろう。彼の暴力要求の対象は例外なく強い男だし、黙っている時と、仕事に取り組んでいる時だけは、まともに見える。
あれ、じゃあ私は何だ?
出会い頭に剣を向けられ、「もっと蹴って下さい」と真面目に求められた事実に、しばし理解が追いつかないでいたマリアは、ふと、奴も独身だ……と遅れて気付かされた。
思い返すと、侯爵邸で再会したモルツの指には、結婚指輪がなかった。
女性に対しては毒舌しか出ないとはいえ、あれはあまりにも毒舌すぎるし、辛辣すぎるうえ欲望に忠実に行動するせいで大人しくしていられない男だ。それに、彼の変態趣味を受け入れられる女性というのも、少ない気がしてきた。
その時、奥の部屋からメイドが戻って来て、クリストファーにいくつかのリボンを見せた。どの細いリボンも、明るい緑色をしていた。
「御針子が空いておりますので、少しお時間を頂けましたら、金のレースで縁取りも出来ますわ」
「えッ。じゃあ、お願いしてもいい……?」
もじもじと遠慮がちに、恥ずかしそうな上目遣いで尋ねるクリストファーは、男の子である事が信じられないぐらいに可愛かった。王子にしては謙虚的すぎる姿勢も、上の兄弟達と違っていて、マリアの目を引いた。
第一王子の場合は、王子然として「持ってきて」「あれをしたい」と気ままに望みを主張していた。気弱な第二王子も、兄の後ろに隠れつつも、自然と人を仕える人間だった。
大きな違いだなと、マリアは感慨深く思う。
王子付きのメイドは、慈しむように目を細めると「それでは、こちらのリボンを仕立ててもらいますわ」と言い、外の衛兵に指示を出した。
三人でお揃いのリボンにするのなら、真っ先にアルバートかフォレスに相談しなければならないだろう。このリボンが通常サイズなのか、特注のものなのかもマリアには分からないのだ。
「ねぇ、サリー。この大きいリボンをクリストファー様がするとしたら、どこにつけられるかしら?」
幼い二人が再び話しに夢中になったタイミングで、マリアは、ヴァンレットの向こうにいるサリーへと首をのばして、こっそり尋ねてみた。
「うーん、腰紐がついている服もあるから、それかな……」
「首輪みたいに首に巻いて、後ろでリボン結びをすればいいのではないか? 殿下がリリーナ嬢の物だとすぐに分かって、便利だろう?」
おい、今のは問題発言だぞ。王子を犬と同格で扱うんじゃない。
ヴァンレットの発言に、扉の外に待機していたメイドと衛兵が、素早く振り返ってこちらを見た。小さな声で「また近衛隊長が……」「頼むから侯爵一向に悪い印象を与えないでくれ……」と悲痛な囁き声が聞こえた。
やはり、皆ヴァンレットには苦労しているんだな、とマリアは思った。
「うちでも注文出来ないか、頼んでみればいいんじゃないか?」
「え、リボンを、ですか?」
「うむ。クリストファー王子は滅多にねだらない人だ。リボンぐらいのものであれば、欲しいと言えば出してもらえると思う」
珍しくまともな事を言うではないかと、マリアは少しばかり感心した。
クリストファー側からもリリーナに贈られ、侯爵家からもクリストファーに贈られるリボンだとすると、二人の仲の良さをアピール出来るし、確かに名案のような気もして来た。
これは、すぐにでもアーバンド侯爵に直接報告した方が良さそうだ。彼の方から国王陛下側へ打診されたら、恐らく、双方で上手く取り計らって事を進めてくれるに違いな――
「よし、今から行くか」
唐突に降ってきたその声に、頭の中で組み立てていて予定表がぶっ飛んで、マリアは、しばし固まった。
は? こいつ今、なんて言った?
そう思ったのは、マリアだけではなかったらしい。扉の外にいたメイドと衛兵も、もう見て見ぬ振りが出来なくなったように、完全に身体ごとこちらを向いて凝視している。
不意に、ヴァンレットの武骨な手が、がしりとマリアの腕を掴んだ。
「ちょ、待て待て少し落ち着けッ」
「マリア、どこかへ行くの?」
声に気付いたリリーナが、大きな瞳をこちらに向けて瞬きする。クリストファーも、きょとんとした表情でこちらを見てきた。
ヴァンレットがマリアの腕をしっかり掴んだまま、クリストファーに向かって「うむ」と揚々に肯いた。
「こちらからもリボンを発注できないか宰相に訊いてみます。殿下のお好みで、リリーナ様にプレゼント出来るのではと思われます」
「わぁ、それは素敵だね。うん、よろしくお願いします、ヴァン! あの、出来れば、リリの瞳の色の物とかも欲しい、かも……」
「仰せのままに」
恭しく騎士の礼を取り、ヴァンレットがマリアを引きずって踵を返した。彼は外に出ると、そばにいた衛兵に「少し席を外す。サリーが残るが、ハリアン小隊長がその辺りにいるから、護衛につけと指示してくれ」と手短に告げて歩き出す。
席を外すマリアと入れ替わるように、メイドと衛兵の一人が室内に入っていった。
彼に手を掴まれているマリアは、混乱している間にも、引きずられるように部屋から引き離されてしまう。このままではいけないと思って、マリアは、助けを求めるようにリリーナの元へ目を走らせたが、途端に固まってしまった。
そこにはニッコリと笑って「いってらっしゃい」と手を振る、リリーナとクリストファーの姿があったのだ。
畜生すごく可愛いな! 行ってきます!
面倒事の予感しかしないが、マリアは涙を呑んで、この任務をきっと遂行しようと強く心に決めた。




