三章 お嬢さまのお見合い(2)
久しぶりに見た過去の記憶に、マリアは、寸でのところで出そうになった悲鳴を飲み込み飛び起きた。
今日はリリーナの見合いの日だ。昨夜は心配事もなくなってぐっすり寝入ったはずだが、目覚めは最悪だった。マリアは、いつもより冷たいシャワーで汗を流した。
先日再会したヴァンレットのせいで、記憶が引きずられたに違いない。
ヴァンレットと出会ってからの数年が、特に激動の日々だったような気がする。その中でも特に、オブライトが絶命する二年前に就任した、王宮一番のゲス野郎であった少年師団長は特別過激だった。
彼が起こす数々の事件を、国王陛下は腹を抱えて笑い転げ「いいぞ!」と奨励を飛ばし、その収拾に家臣が走り回り、宰相が胃潰瘍で何度も倒れたと風の噂でも聞き……
何度思い返しても、二十五歳からの二年間が、本当に大変だった。
黒騎士部隊でも、ヴァンレットの他に問題児の新人がいたが、騎士団側でも、少年師団長とは別に、個性的で性格に問題の多い新人も目立った。休日ってなんだっけ、というぐらい一人でゆっくり過ごす時間がなかったような気がする。
良くも悪くも、オブライドの近くにはいつも友人知人が集まって騒がしかった。
王宮の行事に引っ張り回され、反国王派の断罪劇に付き合わされて修羅場に放り込まれ、所属の部隊が違うのに、まとめて少年魔王に「使えない新人もろとも粛清してくれる」と追いかけ回されるのも日常茶飯事だった。
マリアは、先に衣服を整えて、蜂蜜色の縁取りがされた水色リボンを手に取った。
このリボンは、リリーナが「マリアの瞳の色ね」と一番気に入っている色のものだっ。濁った赤い瞳だった時代には何とも思わなかったが、最期に見た青い空の色が印象的で、今の『マリアの瞳』に悪い気はしていない。
毎日の日課ですっかり慣れてしまった化粧台の前に座ると、マリアは、顔がすっきりと見えるよう横の髪をすくってリボンでとめた。ダークブラウンの髪を手で払い、腰にあたる柔らかい髪の動きを感じながら、立ち上がる。
何度見ても、鏡の中の少女にオブライトの面影はない。
それでも、こうして眺めていると、すっきりと通った鼻筋に切れ長の瞳、少し長めだった明るいブラウン寄りの灰褐色だった髪型も、不思議と鮮明に思い出せるのだ。
多分、マリアが、オブライトであるせいだろうとは分かっている。
どちらも自分であり、どちらも否定するつもりはない。
どんなに姿形が変わろうと、いつだって心だけは自由なのだから。
※※※
陽も昇らない早朝の時間とはいえ、いつも通りの起床時刻だったのだが、屋敷に来るまで不思議と誰にも会わなかった。
不思議に思いつつ屋敷の玄関を開けたマリアは、そこに広がる光景に目を瞠った。
広間には簡易テーブルが設けられ、そこには大量のアップルパイが並んでいたのだ。既にマリア以外の全使用人が集っており、小皿に移したケーキを食べていた。
マリアを朝からジトジトとさせていた思考は、食欲の前に吹き飛んだ。こちらに気付いたギースが「あ、来た」という表情を浮かべた。
「え、これ何? どういう事? 食べていいの?」
「ようやく来たな」
コック服の袖をまくったガスパーが呟いて、マリアに「おいで」と手招きした。
「おはよーさん。とりあえず景気付けのアップルパイだ。昨日までの準備で皆忙しくしてたからな、俺からの差し入れってやつだ。旦那様から許可はもらってるし、始業三十分前まで、食える分だけ食っちまいな」
そう言ってガスパーが、ニヤリと不敵に笑ってマリアの頭を撫でてきた。
マジか! あんたは神様ですか!
マリアの機嫌は一気に回復した。むしろ、悪夢を見たあとの最悪な気分は完全に払拭された。アップルパイは焼き立てで温かく、秋の肌寒い早朝の風を受けながら出勤した身には、ご馳走だった。
上機嫌で食べ進めた結果、マリアは三十分で一ホール半を胃に収めた。普段はアルバートの侍従としてあまり屋敷にいないマシューが、それを見て「久しぶりに見ると衝撃的ですね……吐きそう」と青白い顔でぼやいた。
全員で片付けを手早く済ませた後、執事長フォレスの合図で、各自それぞれの持ち場についた。
第四王子が訪問する数時間ほどは、内勤作業がメインとなるので、出迎えるまでが仕事のピークだ。客人を招いた状態で使用人が表立って仕事をするものではないので、その間は代表であるエレナ、カレン、マーガレット、フォレスの他はほぼ待機状態となる。
リリーナの世話がない数時間、マリアはマークと共に、客人から見えない位置にある大畑の雑草取りにあたることになっていた。
◆
来訪を告げる複数の豪華な馬車が滑り込む直前、フォレスは使用人一同を呼び寄せ、「殿下を驚かせないように注意してください。すっ飛んで隠れてしまうと、旦那様が陛下から伺っているそうですから」とマリアたちに注意した。
なるほど、第四王子は本当に人見知りらしい、とマリアは思った。
桃色のドレスに身身を包んだリリーナは、アーバンド侯爵にエスコートされて玄関先に立った。そばにはサリーが控え、エレナとカレン、そしてサポート役としてマーガレットが待機した。
マーガレットは、三十歳には見えない童顔のおしとやかな女性だ。幼い顔立ちながら女性的な身体付きをしており、メイドの中で一番愛想が良い。母親のような柔らかさがあるため、リリーナが幼い頃は彼女が乳母の役も務めていた。
アーバンド侯爵家のメイドは、彼女たちとマリアの他に、二十代の働き盛りが四人しかいなかった。屋敷の掃除から主人達の世話まで、侍女長エレナを筆頭に全八人であたっているのだ。
それは、屋敷の規模に対すると、異常なほどに少ない数である。
対外的には「他の屋敷よりも少々少ない人数で」とぼかしており、その実数を知る外部者を作ってはいない。戦闘メイドは、特注の武器仕込みの丈夫な軍靴に近いブーツで、広大な屋敷内を常人の数倍のスピードで移動できる身体能力を持っているのだ。
馬車が到着した時、マリアは、マークと一緒に畑に向かっている最中だった。
残念ながら、マリア達の日程では、幼い王子達の姿を拝見する事はない。ヴァンレットを含む護衛騎士達には会いたくないので、マリアとしては、安堵と残念感のない混ぜになった複雑な気持ちを覚えていた。
屋敷に到着した人間の気配を数えると、合計二十人は超えていた。
騎馬隊の蹄の音も複数あるので、恐らく護衛騎士の他にも王子付きの衛兵達が来ているようだ、とマリアとマークは察した。
「おーおー、さすが王族。坊ちゃんに一人に対して、物騒な数を寄越してんなぁ」
同じように気配を探っていたマークが、感嘆とも呆れともつかないような息をこぼした。
「いちおう少ない数で来ているのよね? これじゃあお忍びって感じがしないわね」
「王族なんてそんなものだ。盛大なのだと、軽く一小隊分は超えるからな。結構出来る奴が何人かいるみてぇだし、陛下も考えて配置してんだな」
敵の強弱まで読み取れないマリアは、「そうなの」と首を傾げつつ相槌を打った。マークが、ちらりと彼女を見下ろして片眉を引き上げた。
「不思議だよな。お前って敏感に気配を読み取れる癖に、相手の力量が全然読めないとか、珍しくね?」
「そうかしら。考えた事もなかったわ」
「昔から変なガキだったもんなぁ。訓練とはいえ、執事長の殺気にあてられても平気で笑って反撃してたのって、お前が初めてだぜ。恐怖を感じる器官が故障してるんじゃね?」
そう言って茶化すように笑ったマークの明るい茶色の瞳が、僅かに揺れた。マリアは気付かず、その言葉につられて古い過去を思い出していた。
オブライト時代から、よく鈍感だとは言われていた。
国王陛下アヴェインに出会ってすぐに言われたのは「お前は恐怖を感じないんだな」という、オブライトがこれまで考えた事もなかった自身の欠点だった。
認識し感じ取ってる感情の幅が狭くて鈍い、という他人からの評価については、マリアは、今でも半ば実感が持てないでいる。
命のやりとりで怖さを感じないのは、戦士としては優秀だ。しかし、騎士は使い捨ての駒ではないのだぞと、アヴェインは忠告していた。そういった人間は、本能的に自分の命を大事に出来ないから、早死にしやすいらしい。
恐怖が強さを測る主体感覚として機能する中で、それがないとなると、実際に剣を交えて危ない状況になるまで気付けないのだそうだ。
マリアとマークは、ひとまず、野菜畑の雑草抜きから始める事にした。
急ぎの作業でもないので、作業手袋をはめて二人でマイペースに雑草を引き抜いていった。
「『鼠』が出たら、一匹は残しとけって言ってたか?」
手を進めながら、マークが小さな声でそれとなく口にした。
国王陛下に牙を向ける者があれば、根元を絶たなければならない。アーバンド侯爵家だけの招かざる客人であれば問題ないが、今回は少々勝手が違う。
「そのまま地下牢に置いとけって言ってたわよ」
「喋れればいいんだっけ」
「じゃあ峰打ちかしらね」
「騒がしくさせられねぇからな。はぁ、俺は静かな仕事ってのは苦手なんだよなぁ。面倒臭ぇ」
「出番があれば、の話でしょ。今日はニックたちが全員で警備にあたっているんだし、そのためにアルバート様もマシューを置いていったんだから」
それにしても、天使のようだと言われている第四王子が気になる。
マリアは頭上の青空を見上げた。
リリーナがうまく行くようであれば、今後姿を見る事もあるだろうとフォレスには言われたが、絵姿ぐらい確認しておきたかったなぁと、ぼんやり思った。




