二十六話 眠れる少女の起こし方
俺は真っ直ぐと山川へ続く横道に向かったのだが、その途中で見知った顔に出くわした。
誰かといえば、数日前のテストの返却日に話しかけてきた、間延びした口調が特徴的な女の子である。
……最近仲のいいグループの一人だし、もしかしたら光理は彼女と一緒にいたのかもしれない。
そう考えて声をかけたものの、彼女は口元に人差し指を当て、ほんの少しだけ考え込むようなそぶりを見せてから首をゆっくりと横にする。
「……さあ、私は知らないけど~? 少なくとも、こっちに来る途中で見かけた覚えはないな~」
「……そうなのか?」
「う~ん。入れ違いになったんじゃない? 一緒に探してあげたいのは山々だけど、ちょっと班の仕事を頼まれてて時間がないんだ~。じゃ、ごめんね~」
そして、それだけ言うと、引き留める間もなくキャンプ場の方角へと駆け足で行ってしまった。
……入れ違いか。
確かにそれは盲点だった。
あいつの性格上、一人でぼんやりと川を眺めているよりは、そっちの方が自然な気がするし。
俺はそんな考えと共に、踵を返そうとして――。
「わぷっ……!」
何やら生暖かいものが顔にぶつかってきて、思わず小さな悲鳴を上げた。
「な、なんだ、こいつ……?」
反射的に手を伸ばし、むんずと掴みあげる。
そいつは俺の掌に収まるぐらいの大きさの黒々とした物体で、途端にきぃきぃと鳴き始めていた。
――蝙蝠だ!
そう判断して手をパッと離すのと、俺の指先ががぶりと噛まれるのは殆ど同時だったと思う。
「いってぇ……!」
ぶつかってきたのは向こうだというのに、当たり屋か何かか。
流石に文句の一つも言ってやりたくなるが、動物相手なのだ。
きっとすぐに飛び去ってしまうに違いない。
涙目になりながら、俺は宙を見上げるのだが……。
そこには意外な光景が広がっていた。
気を引きたいかのように、蝙蝠は俺の周りをくるくると。
そして、俺が呆然と見つめているのに気が付くと、再度、顔面へと体当たりを敢行する。
「……まさか、ついて来いって言いたいのか?」
今度は寸でのところで躱すと、有り得るはずがない言葉をぼそり。
しかし、蝙蝠はそれが正しいといわんばかりに、器用に滞空したままこちらを向いてこくり。
……蝙蝠と意思の疎通が出来るなんて、聞いたことがない。
馬鹿げた考えだと思いつつも、何故だか俺はその奇妙な道先案内人の指示に従ってしまっていて、置いて行かれないよう必死に横道を走り抜ける。
そして、その先で見たのは、辺りに散らばるリンゴの残骸と――
川の中に倒れ込む、銀髪の少女の姿だった。
◆
「……大丈夫か!?」
俺は坂道を駆け下りながら声をかけるのだが、光理はうつ伏せのままピクリともせず、何も返事はない。
一体何があったのか。
動転しながらも抱き上げれば、かつてと比べて華奢になってしまった身体は驚くほど軽く、不安が加速するばかり。
そして、視線をあいつの身体へと落とし――
「な、なんだよ、これ……」
ただ、愕然とした声が零れていた。
……さっきまでは日焼けの一つもなく、透き通るような白さを保っていた肌。
だが、今では全面が、あたかも酸をかけられたかのように爛れている。
いつもなら涼やかな声に併せてコロコロと変わるはずの面立ちも、常に苦悶で歪められていて、死人を思わせるほど青白い。
ぞっとするほど体温は低く、命が潰えていないと指し示すのは、ひゅーひゅーと微かに漏れ出る呼吸の音だけだった。
――吸血鬼は流水に触れてはならない。
脳裏を過るのは、以前伝え聞いていた吸血鬼の弱点の一つ。
それがこの惨状の原因であるのは、火を見るよりも明らかだろう。
何故なら、あくまで傷を負っているのはあいつの体だけ。
着ている体操服は、精々水を吸ってピタッと肌に張り付いているぐらいで、それ以外には然したる損傷はないのだから。
「くそっ……!」
このまま死んでしまうのではないか。
拭いきれない不安が澱みのように湧いてきて、俺はそれを振り払うかのように急いで川岸へと向かう。
バシャバシャという水音が、やけに耳障りに感じられた。
そして、傷に障らないよう、ゆっくりと光理を地面に寝かせると、心の中で自分に何度も『落ち着け』と言い聞かせる。
……落ち着け。
一度だけではあるが、俺は似たような光景を目にしているはずだ。
それは、光理の転校初日の放課後。
あいつは日光に触れて小さく火傷を負ったものの、魔力さえ補充すればすぐに傷は癒えると笑っていた。
無論、軽度か重度かの差はあるだろう。
とはいえ、同じことをすればきっと――。
「……悪いな」
意識を失ってる相手の唇に触れるのはなんとなく罪悪感があって、小声で謝ってから、半開きだった光理の口に右腕をあてがう。
続けて、犬歯のあたりに強く押し付ければ、鋭く尖ったそれはあっさりと俺の皮膚を貫いていた。
「頼むぞ、飲んでくれよ……」
いきなり液体が口に入ってきたこともあり、光理は「んっ……」と小さく声を。
しかし、意識を取り戻すまでには至らないようで、それでも反射的にこくこくと飲みはじめる。
……これで回復してくれればいいんだが。
俺はそう願いながら、凍えてしまいそうに冷たいあいつの身体を、少しでも暖めようと強く抱きしめていた。
◆
……それから、どれだけの時間が経っただろう。
光理の傷が癒えているのを一瞥して確認すると、俺はおぶりながら坂道を引き返していた。
そうして、大道に出てきた辺り。
「に、仁田君!? 何処に行っていたんだ!?」
血相を変えて駆け寄ってくるのは豪炎寺だった。
「いつまで経っても戻ってこないから小清水さんと一緒に探していたんだ。何かあったんじゃないかとな。……って、凄い顔をしているぞ!? 平気なのか!?」
「わ、悪い……心配をかけたな。でも、気を失ってるけど、もう平気なはずだ」
確かに、光理を探しに行くというには時間が経ちすぎている。
班のメンバーが不安になるのも当然で、申し訳ないことをしたと思う。
だが、時間をかけた分、峠は越えたはず。
勿論、油断するわけじゃないが、血色も随分良くなっていて、豪炎寺の懸念は杞憂に終わるに違いない。
……と、俺は思っていたのだが。
「いや、背中にいるアーディガンさんも心配だが、そうじゃなくてだな! ボクが言っているのは君の方だ。まるで、死人のような――それに、腕の傷はどうしたんだ!?」
「……野生の動物に襲われたんだ。でも、ちゃんと追い払ったし、このぐらい気にしなくていいぞ。実際、怪我してるのは腕だけだろ――?」
心配をかけないよう、適当な出まかせと共に明るい顔を作ったつもりなのだが、豪炎寺はまるで幽鬼でも見るような視線をこちらに向けていて、慌てて俺の身体を支えようとしてくる。
……そんなにひどい顔をしているんだろうか。
確かに、これほど長く光理に血を与えたのは初めてだ。
まだ傷が癒えていない時点で頭がガンガンして来て、臓腑を毟り取られるような吐き気が何度か襲ってきた。
とはいえ、決して貧血を起こすような量じゃなく、身体に大きな影響があるようには思えない。
どうにも俺には実感がなく、豪炎寺の言葉が何処か遠く夢現のように聞こえていた。
「すまん、豪炎寺。光理のことを担いでもらえるか……?」
「あ、ああ……」
しかし、合流して安心したからか、どっと疲れが身体を襲ってきて、軽いはずの光理がやけにずっしりとして感じられる。
このままじゃ、立っているのも難しいぐらいだ。
だから、光理をしっかりと豪炎寺に託すのだが、途端に全身から力が抜けてきて、抗えないまま膝をつく。
「あ、あ……れ……?」
「に、仁田君!?」
地面に顔を勢いよく打ち付けた気がするが、何の痛みも感じられなくて……。
必死に呼びかける豪炎寺を余所に、そのまま俺は意識を手放してしまっていた──。




