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36.野分のあした2)


 何も言わずにすぐ傍を付かず離れず付いてくる浬。

 余り口数の多い方ではないとは言え、大人の事情に遠慮をしているのかもしれない。


 階段を上りプラットホームに着くと浬が沈黙を破った。

「なんか拙かった?」

 その言葉に私は曖昧な苦笑いを返す。

 説明をするにも肝心なところは省かなくてはならない。

「ううん。キミの所為じゃないのよ。あの子は職場の同僚で、駅まで一緒だったの」

「だから、俺に気付かない振り、したんだ?」

 少し険を含んだ言い方。

 切っ先が肌に食い込む。

「違うわよ」

「じゃぁ、俺が一人じゃなかったから、遠慮した?」

「そういう訳でもないわよ」

 素直に認めるのが癪で、つい違うと平気な顔をしてしまう自分がいた。

 浬はそんな私に探るような眼差しを送る。

「ふーん?」

 含みのある相槌は納得をしていない証拠だ。

「なに?」

「素直になればいいのに……」

 ぼぞりと小さく呟いて、手を伸ばすと親指で唇をすっと撫でた。

 余りにも自然な動作で、私は避けるのを忘れてしまった。

「こっちは素直なのにねぇ?」

 低い声で囁いて、ニヤリと人の悪い笑みを口の端に浮かべる。


 仄めかされたことに見当がついて、私は頭に血が上るような気分になった。逆流する血液に顔が火照ってくるのが分かる。

 あからさまな反応は相手の思うつぼ。一呼吸置いてから冷静を装って、私は苦笑した。

「何、言ってるの」

「単に事実を述べただけだけど?」

 しれっとそんなことを言ってのける。

「妬いた?」

「そんなんじゃないわよ」

「つれないなぁ」

 大げさに溜息なんぞを吐いて見せた。


 喧騒の中、列車到着のアナウンスが辺りに響いた。続いて人の波がざわりと揺れる。

 列に加わるべく、端に寄る。

 まだ冷たさの残る晩春の風が、浬の額に掛かる髪をかき上げていった。

 私の首に巻かれた麻のストールも同じような速度で、揺らぐ大気に靡いていた。


「新しいマネージャーだから」

 ふいに真面目な顔をして、唐突に話題が変わった。

 浬は必要最小限の言葉で済まそうとする。

 悪い癖だ。こちらが分かるからまだしも、傾向としては余り良くないかも知れない。

 誰もが行間を読める訳ではないのだから。

「部活の話?」

「さっきの奴」

 

 四月に入り、新入生が入って来た。

 浬が所属しているバスケ部にも初々しい新入生が入部する。つまり、先ほどまで一緒に下校していた子は、新しく入ったバスケ部のマネージャーという事なのだろう。

 浬は浬なりに私に気を使っている。こう見えて実に繊細で感情の機微に敏い子なのだ。こちらの心配など筒抜けなのだろう。

 我を張るだけ無駄だということは頭では理解できても、感情の面では付いていけなかった。

 見透かされていることが、それが図星であるだけに悔しいのかもしれない。

 変な所で無駄に自尊心が高いというのは本当に厄介なことだと我ながら呆れる。


「新しく入った子なのね」

 理解が正しかったのか、私の言葉に頷いた。

 彼女の立場は分かった。

 だが、それを状況に対する説明とするにはいささか情報が足りない。想像で補っても余りある展開だ。 しかし、それをここで訊くことはどうにも憚られた。

 そんな権限は私にはないのだから。

 一体どんな顔をして、何を持って問いを発することができようか。


「何か勝手について来てさ」

 抑揚の乏しい淡々とした口調で浬が続けた。

 相変わらず容赦がない。

「一応、今すぐ辞められても困るから」

 無碍に冷たくあしらうことも出来なかったと言いたいのだろうか。

「他の皆は?」

 部活が終われば、大抵方向が同じ仲間同士で一緒に帰る。

 以前、仕事帰りに偶々浬と顔を合わせて、バスケ部の集団に囲まれそうになった時を懐かしく思い出す。

「嵌められた」

 不機嫌そうに吐き捨てた。

 成程。女の子のアプローチがある意味あからさまで、皆、気を回して二人だけにさせたという事なのだろう。

「モテる男は大変ねぇ」

 これ以上話が妙な流れにならないように、くすくすと小さく笑いを零すと案の定、眉を顰められた。

「ひでぇ。他人事だと思って」

 そういうことにしておきたいのだ。

「単なる感想よ」

「沙由流さんは、気にならないのかよ?」

 じわじわと首を真綿で占められるような息苦しさだ。

「何が?」

 緩い微笑みを隠れ蓑に、核心への追及を敢えてはぐらかす。

「分かってるくせに……。ずりぃ」


 その反論に答えることなく、タイミングよくホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。

 背中に感じる大きな掌の感触が、私に安堵の溜息を洩らさせていた。


 帰宅ラッシュに当たった車内はかなり込み合っていた。

 辛うじてドアと座席の間の空間に身を寄せる。

 不安定な車内、捕まる所を探そうと手を伸ばすと背後から長い腕が伸びてきて、私の体を包み込むように脇に回った。


 車両は身動きが取れないくらいに混み合っている。

 ドアのガラス越しに映るその顔は小憎らしい程に余裕を見せていた。飄々としていて、特別な感情は浮かんではいない。

 その黒い目が真っ直ぐに私を捕えていた。


 今日の所は引き分けだろう。

 私は小さく微笑んで、ゆっくりと全身の力を抜いた。右半身にある温かで弾力のある壁に体を寄せる。 そうすると腰に回った手にまた少し力が入った。


「オトナだから? それとも俺がガキだから?」

「キミはまだ子供でしょう?」

「茶化すなよ」

「至って真面目よ?」


 互いに無言のまま、電車の揺れに身を任せた。

 私の脳内では先程の会話の続きがシュミレーションするように延々と繰り広げられていた。

 気分はまるで陳腐な三文芝居を見ているようだ。言葉が勝手に湧き出でて、ぐるぐると回転を始める。二重にも三重にもなって、私の意識を取り巻こうとする。


 お馴染みの車内アナウンス。次の停車駅を告げる放送に、私の体は忠実に反応した。

 背後に掛かる拘束を解こうと軽く腕に触れる。

 離れていった温もりに、『それじゃぁ、またね』と振り返って。

 気まずさを小さな微笑みの中に昇華させて、そうやって開いた扉の向こうに降り立とうとしたのだが、学生服のブレザーも何故か私の後に付いて降りてしまった。


 驚いて口を開こうとした矢先に、

「沙由流さん、今晩、そっち泊めて」

 先制攻撃を繰り出された。

 降り立ったホームに立ち止る。

「話、途中だっただし。なんかこのままじゃ埒が明かないから、時間頂戴。明日は土曜だから、休みだろ」

「駄目よ。ご家族が心配するわ」

 いきなりの展開に私はすぐさま否のサインを出した。


 いくら私が渡良瀬家の面々とそれなりに交流を持っているからと言って、独身女の一人暮らしの家に未成年の息子を泊らせるなんてことを親が許す訳はない。

 世間的に見れば非常識もいい所だろう。

 普通に考えて家族がいい顔をしないのは目に見えている。親しき仲にも礼儀あり。ここは簡単に踏み越えてはいけない一線だ。

「親の許可があればいい? だってこのままだとなんか余計に拗れそうだから。きっと後ですげぇ後悔する」

 いつになく真剣な顔で浬は言い募った。

 そして、そのあとの行動は実に素早かった。

「あ、ちょと、浬くん」

 ポケットから携帯を取り出すと、私の制止を無視して早速、通話ボタンを押した。

「あ、母さん? 今日さ、沙由流さんとこ泊めてもらうから。あ? ああ、ちょっと片付けたいことが色々あってさ。どうしても。ん? ああ、分かってるよ。ちゃんと迷惑掛けないようにするし。だから父さんにも話しといて。はいはい。後でちゃんと説明するから。じゃぁ。ん。了解です」


 暫く横で何やら会話をしていたかと思うと、携帯のフリップを閉じて、こちらに向き直った。

「許可は取った」

 勝ち誇ったように言う。

 早すぎる展開に私は頭が付いていかなかった。

「キミねぇ……」

 こちらの意向は敢えて無視ということなのか。

「母さんがいつも済まないってさ。沙由流さんに宜しくだって」


 穏やかで柔らかい微笑みを浮かべながら、話す度にくるくると表情を変える浬の若々しい母親の顔が目に浮かんだ。やや破天荒なところのある彼女は、大抵の事柄には寛容だ。それだけ息子を信用しているということなのだろう。

「本当に大丈夫なの?」

「平気だって」

 それよりも、こんなにあっさりと外泊が了承されてしまうなんて。

 それは視点を変えれば、それだけ信用されているということだ。息子を預けても問題ないと思われているのは、ちょっと心苦しい。

「仕方ないわね」

 私は小さく溜息を吐きだして、了承の合図を送った。




 冷蔵庫にある残りもので適当に晩御飯を作って二人で食べた。

 片づけを終えて、食後のお茶を入れる。

 場所をダイニングテーブルからソファへと移動した。

 緑茶の入った茶碗を手に、私は床に腰を下ろした。

 ブレザーを脱いでネクタイも取り去った浬は、ソファに深く凭れて長い足を持て余すように組んでいる。

 宙に浮いていた話し合いを始める気が満々だ。

 デフォルトとなっている無表情の下、何を考えているのかは読めなかった。


 無駄に緊張しているのが自分でも分かった。柄にもなく。

 この子の前でこんな気持ちになるなんて思ってもみなかった。


 テーブルを挟んで向こう側、空いた空間は申し訳なさ程度の私なりのレジスタンスだ。

 反対側からは、納得するまで一歩も引かないという態度が妙な威圧感となってこちらに伝わって来ていた。

 緊張から来る喉の渇きを潤すように、熱い緑茶を一口飲んでから、私は意を決して口火を開いた。

「一つ、聞いてもいいかしら?」

「どうぞ?」

 待ってましたとばかりに浬の目が私を捉えた。

 照準がぴたりと合う。


「キミと私の間には、何があると思う?」

 これまで敢えて目を逸らしていた部分へ手を伸ばしていた。

 慎重に言葉を選ぶ。

「どういう意味?」

「敢えて定義付ける必要なんてないかなとも思ったんだけど。キミの考えを聞いたことなかったなって急に気が付いて。そうしたら急に不安になったのよ。このままでいいのかしらってね」

「俺の考え?」

「そう」

「何に対する?」

「私とキミの関係について」


 暫く問いを重ねた後、浬は大きく溜息をついて天井を見上げた。

「沙由流さんさ、それって態と?」

 浬の低い声は、静まり返った室内によく響き渡った。

「何が?」

「そうやって回りくどい言い方を使うこと。何で、もっとストレートに聞かないんだよ」

「ストレートに?」

「そう。例えば、『私のこと、どう思ってる?』って。つまり、そういうことだろ?」


 そう、なのだろうか。

 噛み合わない会話。

 話を進めて行けば行くだけ、微妙に論点がずれてゆく。

 浬は苛立たしげにわしわしと髪を掻き乱した。

「沙由流さんさ、なんでもかんでも、まず頭で考えるだろ。理論武装するみたいに。人の感情が論理を超える時なんて幾らでもあるのに。いや、寧ろ、人の気持ちなんて、簡単に目に見える尺度で測れるもんじゃないだろ。そんな人の行動に一から十まできちんとした説明なんて出来っこないんだからさ。理解できないことなんて沢山ある訳で。理路整然とした方程式が提示されないと納得しないタイプ?」


 静かに、そう指摘されて、私は言葉に詰まりそうになった。


「どうしてかしらね。形のない曖昧なものを自分の中で消化しようとするとするでしょう? 感情にしろ、感覚にしろ、それを言葉にしてみると、どうもそういう言い回しになっちゃうのよね」

 出てくるのは自嘲する様な苦笑だけだ。


「沙由流さんは、それが自分にとっては分かりやすいって思ってんの?」

「少なくとも……そうやって納得はするわね」

「ふーん。俺は、ややこしく考えすぎだと思うけどね。もっと単純でいいんじゃねぇの? そうしないとさ、すげぇこんがらがるよ。そんでもって、解決の糸口を見つけるどころか、何を話していたのかすら分かんなくなっちまう。要するにさ、沙由流さんが知りたいのは、自分の気持ち? それとも……俺の?」


 口にされた言葉を正確に理解しようと私は目を閉じた。

 素直になってもいいのだろうか。

 私の奥底に眠る本当の気持ちは……。


 私が知りたいのは。

「キミの……気持ち。キミがどう考えているのか」


「じゃぁさ、その前に、教えて。沙由流さんは、どう思ってるのか。つうか、どうしたいって考えてんの?」

 声を荒げる訳でもなく、ただただ淡々と穏やかに紡がれる言葉達。

 真摯な眼差しが私に振り注ぐ。

 

 私が浬に対して持っている感情。

 それは、一言で言い表すには言葉が足りない気がした。

 あちらこちらに散らばった切れ端を寄せ集めるように、私は自分の中にある想いの断片を言葉に変換させながら探っていった。


「キミは……余りにも私の中に入り込んで来ていて……時折、忘れそうになるの。キミに会う前、自分が一人だった時はどんなだったのかって」

「俺がいるのは……迷惑?」

「まさか。そういう意味じゃないわ。寧ろ反対。キミといるのは楽しいし、嫌じゃない。それ以上に、そんな状況を嬉々として受け入れている自分がいるの。だから、私にとってキミは……多分、特別なんだと思う。そうね。じゃなきゃ、こうやって夜遅くに家に上げたりしないもの」

「特別って……つまり、それって、『好き』ってこと? 俺の勝手な都合のいい解釈でなくて?」


 気がつけば、浬はソファから身を起して、私の目の前に腰を下ろしていた。

 床の上に置かれた自分の手に大きな掌が覆いかぶさる。

「そうね。単純に言えば……そうなるかしら?」

 私にとって浬は、大切で特別な存在。

 それは単なる『好き』よりも、もっと重みのあるものだ。

「なら、自惚れてもいい? 俺が沙由流さんの傍に居てもいいって?」

 畳みかけるように浬が口にする。

 まるで、此方の不安がこの子に伝染したみたいだ。

「ええ、勿論」

 導き出された真実に安堵して、私は心の底から微笑んでいた。


 温かい掌が頬を包んだ。

 触れるだけの優しい口付けが落ちてくる。

「こういうことするのも、俺だから?」

 その問い掛けに、静かに首を縦に振る。

 ゆっくりと回された腕に体の力を抜いた。

「俺は、前にも言ったけど、沙由流さんだからだよ。それ以外の奴は視界に入ってこないから。こんなこと言うのは我儘だって分かってる。きっと沙由流さんを困らせるんだろうって。でもさ、俺は沙由流さんの隣に居たいんだ。これからもずっと。気まぐれとか一時的な感情じゃなくって。もっと長い目で見て。それが嘘偽りのない正直な気持ちだよ」


 気持ちが付いていかなければ、始めから体を開くことはしなかった。

 極限の状態に自ら落ちて行って、余計な虚飾を全て取り払って。

 そこにあるのは、根源的で原始的な、ただの男と女という世界だ。


「キミもストレートに聞けばいいのに」

 なんだかんだ言っても、肝心な言葉はまだ口にされていなかった。

 それは此方への遠慮なのか、お互いの間に横たわる見えない不安がそうさせるのか。

 きっと浬なりの譲歩なのかもしれない。

 言葉にしてしまうことで変わってしまうだろう何かを知るのが怖くて。


 迷ってもいいのだ。間違えてしまっても。取り返しはまだ効く。

 臆病になってしまった自分に自嘲気味な笑いを浮かべた。

「困らない?」

「どうかしら。実際に聞いてみないことにはね」

「ずりぃ」

「ふふふ、そうよ、今気が付いたの?」

「いや、知ってる。沙由流さんが捻くれてるのは」

「言うじゃないの」


 額を突き合わせて、浬は閉じていた目をゆっくりと開いた。

 真剣で混じりけのない純粋な漆黒の瞳。

「ねぇ、……俺のものになって。……俺だけのものに」


 反射する光彩には、困惑気味に、それでも嬉しさを滲ませた顔が映っていた。

「期限付きにしなくていいの?」

「問題ない。無期限で。俺、こう見えて諦めが悪いから」

 自信たっぷりに口の端を吊り上げた。

「後悔するわよ。後で。何もこんな所で大きな負債を抱えなくてもいいじゃない」

 冗談の中に本音を混じらせて。

 それでも、私の心の中に言いようのない嬉しさが込み上げていたのは事実だった。

「屁理屈ばっか。俺には価値ある財産だけど?」

 小さく笑ったかと思うと、不意に真剣な顔つきになった。


「で、返答は?」

「Affirmative」

 目の前の首に縋りついて。

 正面から顔を見るのは何だか気恥かしくて。

 耳元でそう囁き返すのが精一杯だった。


葛藤に揺れた天秤が落ち着きを取り戻しました。

こうして曖昧な関係にそれらしい名前がついたのです。

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