15.金剛型戦艦を造ろう
明治41年(1908年)12月 海軍艦政本部
先端技術研究所を設立し、その体制確立に忙しくしているうちに、とうとう大尉へと昇進した。
そして今後は艦隊勤務でキャリアを積む予定だったのだが、その前に艦政本部へ呼ばれた。
「大島大尉であります」
「後島大尉であります」
「うむ、艦政本部長の片岡だ」
「はっ、本日はよろしくお願いします」
艦政本部長室に呼び出された俺たちは、本部長の片岡中将にあいさつをする。
そしてその場には、東郷大将と山本大将もいた。
「うむ、それでは早速、新型戦艦について話そう。片岡くん、現状の検討案を出してくれたまえ」
「はっ、これになります」
そう言って書類を出す片岡中将は、ちょっとやりにくそうだった。
本来は細かいことを言わないはずの造船計画に、大将が干渉してくるのだから、それも仕方ないだろう。
そんな雰囲気の中で、俺と後島は新型戦艦の仕様案を確認すると、意見を口にした。
「この14インチ砲搭載案が、好ましいと考えます」
「小官も同感です。ただし魚雷は撤去するべきとも考えます」
「なんだとっ! たかが大尉のくせに、偉そうに!」
「まあ、待て、片岡」
中将が激昂しかけると、東郷さんがすかさず止めに入る。
「そう頭から決めつけるものでもない。なにしろこの2人は、俺と一緒に海戦を経験しているのだ。それにこいつらは、なかなか斬新な考えを持っておってな。参考になることが多い。もうちょっと落ち着いて、話を聞いてやってくれ」
「は、はあ、大将がそうおっしゃるのであれば……」
明らかに納得していない風だったが、片岡中将は後島に根拠を訊ねる。
「それで、なぜ魚雷はいらんなどと言うのだ?」
「はい、閣下もご存知のように、ドレッドノート級戦艦が登場したからです」
「弩級が? どういうことだ?」
「弩級戦艦は単一大口径砲を搭載し、射撃方位盤で統一照準することで、砲戦力を大きく向上させました。これにより、ただでさえ射程が伸びていた戦艦の戦闘距離が、ますます広がったのです。前の日本海海戦では、7千m前後から砲戦が始まったと聞いています。今後、その距離は広がることはあれど、縮まることはないでしょう」
「むう、それはそうかもしれんが……」
不満そうな顔の中将に、後島がさらに畳みかける。
「それに日本海海戦では、駆逐艦による近接魚雷発射が効果を発揮したと聞いております。軽快で小口径砲しか持たない駆逐艦ならば、魚雷も有効な兵器となるでしょう。しかし小回りが利かず、強力な主砲を持つ戦艦には、魚雷は向きません。むしろ戦闘時の弱点となるだけでなく、艦の重量と価格を押し上げる要因でもあります」
「そこまで言わんでもいいだろう!」
大声を上げる片岡中将を、今度は山本大将がなだめる。
「まあ、そういきり立つな。儂には大尉の言うことのほうが、理に適っていると思うがな」
「山本閣下までそんなことを」
「いや、山本さんの言うとおりだ。俺も後島の意見には、聞くべき部分が多いと思う。結局のところ、時代が変わったのだ。ドレッドノートという新世代の戦艦の登場によってな」
「しかしドレッドノートだって、魚雷は搭載しているじゃありませんか?」
「フフン、さすがのイギリスも、そこまで頭が回らんかったということだろう。なまじどこの国よりも多く、戦艦を造ってきたからな」
「はあ、そんなものでしょうか」
結局、東郷さんと山本さんの説得もあって、片岡中将は渋々ながら、俺たちの意見を受け入れてくれた。
そもそも戦艦の魚雷など、彼我の戦闘距離が2千m以下だった頃の、名残に過ぎないのだ。
その後、魚雷の航続距離も伸びていたが、逆に遠くなれば命中率は下がる。
実際に日本海海戦で、戦艦が魚雷を発射する機会などなかったのに、1920年代まで魚雷が残されていたのは、まさに惰性と言うしかない。
しかし魚雷という爆発物自体の危険性に加え、水中発射管の場合は浸水の危険まで増してしまう。
おまけに重量やコストを増やす要因なのだから、外すに越したことはないのだ。
しかし実際には第1次大戦期まで、世界中の戦艦に魚雷が搭載されていた。
日本でも長門型までの戦艦は、建造時に魚雷を装備しており、30年代後半になってようやく廃止されたのだ。
いずれ外すのなら、最初から装備しないのが吉というものである。
未来を知らない人には、なかなか理解できないだろうけどな。
こうして根回しをした金剛の仕様は、多少の検討を経て、以下のように決まった。
【金剛 主要諸元】
全長・全幅:214.6 x 28m
排水量 :26300トン
出力 :6万4千馬力
最大速力 :27.5ノット
機関 :ヤーロー缶x36基
改良パーソンズ直結タービン2基、4軸
主要兵装 :14インチ(35.6センチ)主砲x8門
15.2センチ砲x16門
基本的に史実に沿うものだが、魚雷は除外できた。
そして史実よりも1年早い1909年に、イギリスのヴィッカース社へ発注されたのだ。
この時、贈賄関係に目を光らせたため、史実のシーメンス事件は起きない。
シーメンス事件とは、ドイツのシーメンス社による、日本海軍高官への収賄事件だ。
1914年に発覚し、当時の山本内閣が総辞職に追いこまれるほどの、一大疑獄事件に発展した。
これには金剛の発注絡みの贈賄も絡んでおり、3人の海軍高官が有罪となったのだ。
こんな事件は百害あって一利なしなので、早々に芽を摘んでおいた。
そしてイギリスで設計された金剛は、設計図を供与され、国内で同型艦が造られることとなる。
おまけに金剛の製造現場に日本の技術者を受け入れ、そのノウハウを学ばせてくれるのだ。
同盟国イギリスならではの、大サービスである。
もちろんイギリス側にも、同盟国の戦力が強化されたり、日本の資金で新技術のテストができるというメリットがある。
そして金剛の建造で得たノウハウを、イギリスはまた新たな戦艦に導入するのだ。
まさにウィンウィンな関係である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
明治42年(1909年)2月 東京
「今日はよく来てくれたな、平賀くん」
「いえ、こちらこそお呼びいただき、光栄です。しかし何ゆえに東郷提督に呼ばれたのか、不思議ではあります」
「フフフ、そうだろうな。まあ、まずは一杯やろう」
「は、いただきます」
東郷さんと話しているのは、平賀譲。
今年31歳になる、海軍造船大技師(大尉に相当)である。
彼は1905年からイギリスに駐在し、王立海軍大学で造船工学を学んでいた。
そして先月末にようやく帰国して、今は艦政本部に勤めている。
史実では、妙高型重巡などで画期的な設計をしたことで、”造船の神様”と呼ばれたりする御仁である。
しかしなかなかに頑固な人物だったらしく、平賀不譲とあだ名されたとか。
そんな彼と乾杯をすると、世間話をしながら、料理をつまむ。
ちなみにこの場には、東郷大将と山本大将に加え、俺と後島がいる。
そのため平賀さんは、俺と後島を見ながら不思議そうに問う。
「大将2人に大尉が2人とは、奇妙な顔ぶれですな。何か特別なことでもおありでしょうか?」
「うむ、それなんだがな。大島、頼む」
「はい」
東郷さんに振られ、俺は改めて平賀さんに向かい合った。
「失礼ですが、平賀大技師には、”未来の夢”という言葉に、心当たりはありませんでしょうか?」
「未来の、夢……おお、なんだこれは! 急に記憶が鮮明に」
急に未来の記憶が鮮明となった平賀さんが、驚愕を顔に浮かべる。
その後、しばし混乱していた彼も、やがて気を取り直した。
「欧州大戦に満州事変、そしてアメリカとの戦争。こんなことが、本当に起こるというのか?」
「はい、このままですと、日本はアメリカと戦争になった結果、300万人以上もの犠牲者を出します。そして私たちは、そんな未来を変えろと言われたのです」
「言われたとは、誰にだね?」
「よく分かりませんが、おそらく神のような存在です」
「神、だと? そんな馬鹿な……しかしこの記憶は、とても幻とは思えん」
とても信じられないといった顔で、平賀さんが額に手をやる。
そんな彼に、俺は言葉を重ねた。
「そうです。平賀さんは昭和18年まで生き、終戦を見ることなく、お亡くなりになります。しかしやりようによっては、アメリカとの戦争を回避したり、戦っても負けない体制を作ることは、可能だと思っています」
「なるほど。私もそれに協力しろと言うのだね……いいでしょう。協力させてもらいますよ」
「おお、やってくれるか。よろしく頼むぞ」
「はい、こちらこそ」
こうして俺たちの仲間に、平賀さんが加わった。




