14.研究所を作ろう
明治40年(1907年)10月 東京
1907年も後半になると、軍制改革による混乱が収まってきたので、教育機関の統合に手をつけた。
その方針は以下のようなもので、俺たちもその準備に奔走した。
・幼年学校、士官学校、軍大学、軍医学校は、陸海で分けずに統合する
・幼年学校の教育内容は、全国で共通とする
・士官学校、軍大学は基礎学科を共通で受講しつつ、それぞれの専門を選択受講する
・士官学校には兵站、経理、各種技術などの専門学科を統合し、極力陸海での共通化を図る
しかし当然ながら、もの凄い反発があり、改革は遅々として進まない。
それどころか俺たちの身は、しばしば危機にさらされていた。
「天誅~っ!!」
「どぅわ~~っ!」
「退避~!」
俺と後島が移動していると、ふいに暴漢に襲われた。
軍服を来た男が、刀を振り上げて迫ってきたのだ。
幸いにも俺たちには護衛が付けられており、彼らが迎え撃ってくれる。
パンッ、パンッという銃声が響いた後、暴漢は取り押さえられていた。
俺と後島はそれを見て、苦々しい顔で愚痴をこぼす。
「くそっ、今月でもう3回目じゃねえか。血の気が多すぎるだろう」
「ほんともう、マジで勘弁だぜ」
教育機関の統合が公になってから、俺たちはすでに何回もの襲撃に遭っていた。
大臣の肝いりで改革を進める担当者として、俺たちの顔が知られていたからだ。
軍制改革だけでも恨みを買っていたところに、さらなる改革と聞いて、我慢できなくなったのだろう。
そんなテロリズムの危機にさらされながらも、俺たちは仕事を進めた。
幸いにも元老は全て協力的だし、児玉大将や閑院宮少将、そして東郷大将や山本大将、伏見宮少佐も味方なのだ。
彼らの後押しや説得によって、教育機関の統合が進展していく。
そしてとうとう、それは成し遂げられたのだ。
「教育機関の統合成立に、乾杯」
「「「かんぱい!」」」
統合成立のお祝いにと、山縣さんが宴席を設けてくれた。
山縣さんに松方さん、東郷さんに閑院宮殿下、伏見宮殿下、そして俺たち5人が、とある料亭に集まって祝杯を挙げる。
「いや~、しかし大変だったな。予想以上に抵抗が多くて、びっくりしたわ」
「そうですな。私はそれほどでもありませんでしたが、皆さんは大変だったようで」
「そうですぞ。私も何度、命を狙われたことか」
「皇族の我々ですら、狙われるほどですからな」
「まったくです。なぜあれほど、短絡的なのでしょう」
盃を開けると、協力者たちが一斉に愚痴をこぼす。
彼らですら、何回も命を狙われたというのだから、相当なものだ。
しかし俺はあえて言ってやった。
「皆さん、ご苦労さまです。しかし命を狙われた回数は、我々の方がずっと多いんですからね」
「ほんとですよ~。何度、死を覚悟したことか」
後島のぼやきに、東郷さんが笑いながら言う。
「フハハッ、そう言いながらも、ちゃんと生き残っておるではないか。神に未来を変えろと言われた人間が、そう簡単に死ぬものか」
「そんなの、結果論じゃないですか。俺たちだって、刺されたり、撃たれたりしたら、死にますよ」
「まあ、そうだな。しかしまあ、そう言いながらやり遂げたのだ。そこは誇っていいのではないか。まあ、飲め」
「はぁ、いただきます」
東郷さんが酒を注ぎながら、別のことを口にする。
「そういえば、体罰を禁止する必要は、本当にあるのか?」
「もちろんですよ。鉄拳制裁にしろ、私的制裁にしろ、過剰な暴力なんて害しかありません」
今回の教育改革において、海軍兵学校や海兵団教育の体罰も問題にした。
兵学校や海兵団では、拳や木の棒による暴力が日常的に行われていた。
中には教育中の異常な体罰により、死者まで出たこともあるのだ。
そしてそれはそのまま艦内にも持ち込まれ、躾という名のいじめが横行することとなる。
そんな酷い行為が、どれだけ新兵や下級兵を苦しめ、士気を落としたのか、想像するだに恐ろしい。
もちろんこれは陸軍でもあった話で、俺たちはこの軍隊の闇ともいえる問題に光を当て、その改善を目指したのだ。
すぐに是正はできないだろうが、今後も継続的に取り組むつもりである。
そんな話も交えながら、和やかに酒食を楽しんでいると、山縣さんに訊ねられた。
「これで軍の改革は一段落したから、そろそろ実戦部隊に戻るのか?」
「はい、そうしたいところですが、もうひとつだけ、やっておきたいことがあるんですよ」
「それはなんだ?」
「軍主導で研究所を設立して、技術開発と民間への供与をしたいのです」
「ああ、そういえば、そんなことを言っていたな。民間企業の力を、もっと高めたいんだったか?」
「はい、民間を含めた工業力を高めないと、今後の戦争は戦えませんから」
「ふうむ、そんなものかな」
すると伏見宮殿下が、興味深そうに問う。
「どんな研究所になるのかね?」
「まずは内燃機関、金属、電気、化学の4分野に絞って、研究者を集めます。ある程度、軌道に乗った時点で、大学や民間企業にも声を掛け、優秀な研究者を出してもらい、共同研究をしたいと思います。特許の取れそうな成果については、共同で特許を取得して、民間での使用も推奨します」
「ふむ、ずいぶんと民間に優しいのだね」
「ええ、そうでもしないと、この国の工業力や、庶民の暮らしは良くなりませんから。それ抜きでは、とてもアメリカとは戦えません」
「うむ、アメリカの底力は、とてつもないものだからな。皆さん、ここは我々も、彼らを後押ししてやりましょう」
伏見宮殿下がそう言えば、他の協力者も賛同する。
「もちろんです。富国強兵こそ、我らの望みですからな」
「庶民の暮らしまで良くするとは、なかなか欲張りな望みですが、それぐらいせんといかんのでしょうな」
「うむ、民の安寧こそ、我ら皇族の望みでもある」
「フハハ、当然です。彼らにはもっともっと、がんばってもらいましょう」
結局、俺たちはこき使われるのだが、彼らの後押しはありがたいので、よろしくお願いしておいた。
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明治40年(1907年)12月 東京砲兵工廠
あれから2ヶ月ほどで、俺たちは東京砲兵工廠の一角に、研究の場を得ていた。
その名も ”先端技術研究所”。
そこにはささやかながら、陸海軍の研究者を集め、一部の民間企業からも参加していた。
ちなみにすでに立ち上げていた自動車の研究班も、こちらに合流している。
「我々にお声がけいただき、ありがとうございます。大島中尉」
「いえ、お2人が作ったタクリー号は、なかなかのものです。その知見を活かしてもらえば、こちらも助かりますからね」
「恐縮です」
そしてこの場には、前世でも付き合いのあった東京自動車製作所の、吉田真太郎と内山駒之助を呼んでいた。
彼らは今年の4月に、日本初のガソリン自動車と呼ばれる、”タクリー号”を世に出したばかりだ。
エンジンなどが輸入品とはいえ、この時代に自動車を作り上げた実績は大したものである。
そんな彼らの情熱に期待して、また声を掛けてみたのだ。
「今はまだ、エンジンや電気部品などは輸入品を使うしかありません。しかしいずれは、国内で調達できるようにしたいと思っています。そのためにも力を貸してください」
「もちろんです。なあ、内山」
「ええ、軍人さんにこんなに協力してもらえるなんて、思ってもみませんでした。精一杯、やらせてもらいますよ」
「ええ、日本中に自動車が走るような光景を、実現したいですね」
そんな話をしていると、懐かしい思い出が蘇り、ちょっとうるっと来た。
前世のような付き合いはもう無理だが、彼らにはまたがんばってもらいたいと、そう思っていた。




