10.軍の改革を進めよう(2)
明治39年(1906年)1月 東京
無事に閑院宮殿下も仲間に加え、俺たちは軍縮と軍制改革に向けて動いていた。
しかし年が明けると、俺と後島は東郷提督に呼び出され、思わぬ辞令を受けとることになる。
「軍務局へ異動ですか?」
「うむ、そうだ。山本さんからぜひにと言われてな。軍制を変えるなら、軍務局でやるべきだと言われれば、反論もできん。すまんが改革が終わるまで、行ってくれんか」
「はあ、正式な辞令であれば、否はありませんが」
ようやく少尉になり、これから船上で実績を積もうと思っていたのに、海軍省の軍務局へ移れという話だった。
どうやら山本大将から、横槍が入ったらしい。
たしかに人任せにするよりは、軍制改革も進みそうだが、新品の少尉が役に立つものかと、不安も大きい。
しかし正式な辞令を断れるはずもなく、俺たちは霞が関の海軍省へと向かった。
「大島少尉であります」
「後島少尉であります」
「うむ、よく来てくれたな。まずは座りたまえ」
そしたらいきなり山本大将に呼ばれ、大臣執務室へ出頭するはめになる。
来客用のソファを勧められて座ると、山本さんも目の前に座った。
「こちらへ来てもらったのは、他でもない。昨年、聞かされた軍制改革について、働いてもらうためだ。あれから元老や陸軍首脳部とも話をした結果、すでに政府と軍の内部では、改革に向けて動きはじめておる。しかし頭の固い官僚に任せきりでは、あまり良い結果にはならんだろう。そこで君たちに、その方向修正をお願いしたいのだ」
「はい。それはやぶさかではありませんが、たかが少尉に、そんな大任が務まりましょうか?」
「うむ、そこはたしかに不安もあろうが、大臣官房との調整役として、動いてもらいたい。まあ、言ってみれば、儂の権威を後ろ盾にして、改革を見守る監視役だな」
「そ、それは、心強い後ろ盾ですね」
楽しそうに笑っている山本大将だが、俺は早くも厄介事の臭いを感じていた。
大臣が後ろ盾だといえば聞こえは良いが、それは大臣のスパイみたいなものである。
そんな人間が軍務局で歓迎されるとは、とても思えない。
ここで俺は、気になったことを訊ねる。
「ところで閣下は、大臣職を退くはずだったのではありませんか?」
「うむ、そのつもりだったが、この軍制改革は国家の大事だ。これに目処をつけてから、斎藤くんに譲ろうと思っている」
「なるほど」
史実では彼は、この1月から斎藤中将に大臣の椅子を譲るはずだった。
しかしやりがいのある仕事ができたので、もう少し続けるつもりなのだろう。
豪腕の山本さんが手伝ってくれるのなら、俺たちも心強いというものだ。
しかしそれと同時に、いいようにこき使われるのは想像に難くなく、暗い気持ちも抑えられなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
明治39年(1906年)3月 東京
俺の予言どおり、エクアドル沖で地震が起きたことを受け、軍縮と軍制改革が正式に動きだした。
まず陸軍は4個師団の削減、そして海軍は5隻の主力艦建造を中止し、それぞれの予算を国庫に返納すると宣言したのだ。
もちろん陸海軍の強硬派と、軍縮で不利益をこうむる連中が、大反対した。
しかし陸軍は山縣元帥に閑院宮少将、さらには大山元帥や児玉大将とも協力して、説得に動いた。
同時に海軍も東郷大将に伏見宮少佐、そして山本大将が軍縮推進に動く。
当然、元老の伊藤博文、松方正義、井上馨も大賛成だ。
そんな状況で、反対派は各個撃破の憂き目にあい、着々と軍縮は進められた。
そしてこの1月から発足していた西園寺内閣が、軍縮方針を歓迎すると共に、退役将兵の受け皿を作るため、大々的なインフラ投資を公表した。
まずは幹線道路を整備・舗装し、主要鉄道路線を国有化したうえ、改軌・複線とする。
さらに国内の製鉄所や発電所の増強に加え、油田の開発も進めると、ぶち上げたのだ。
この景気のいい話に、国内世論は狂喜した。
政権の支持率もうなぎ上りで、日露戦争で賠償金が取れずに落ちこんでいた雰囲気も、にわかに明るくなる。
こうして国内は明るくなったものの、その陰で俺と後藤は、とばっちりを受けていた。
「大島少尉、これもやっておくように。明日の朝までにな」
「……はい、了解しました」
軍務局の上司が、無造作に書類を俺の机に投げていく。
俺はその書類を見て、思わずため息をついた。
「はぁ……今日も日付が変わる前には、帰れそうにないな」
「今日もかよ?! 最近、俺の睡眠時間って、3時間を切ってるんだぜ」
「俺も似たようなもんだって」
そう言って俺と後島は、愚痴をこぼし合っていた。
軍務局に押しこまれた俺たちは、見事に同僚や上司から目をつけられ、陰湿ないじめを受けているのだ。
なまじ山本大将が、しばしば俺たちに声を掛けてくれるのが、余計にそれを助長する。
一応、大臣の意向を受けているということで、表向きは気遣われている。
しかし軍制改革に反対な者は多いし、俺たちに嫉妬する者もたくさんいるのだ。
おかげでなんだかんだ理屈をつけて、仕事を押しつけられるようになってしまった。
最初は山本さんを介して、雑務は断ろうとしたのだ。
しかしそうしたらしたで、改革に必要な業務が後回しにされてしまう。
結局、俺たちがやった方が早いと分かり、それ以降はムダな抵抗はしなくなった。
おかげで俺と後島の仕事量は凄いことになり、深夜帰りが常態化している。
幸いにも近場の官舎に入れたので、通勤にはさほど困らないのが、数少ない救いである。
「くそう、誰だよ? こんなことやろうって言い出したの」
「お前じゃねえか。だけどこれは、必要なことなんだって」
「そうなんだけどさぁ……あ、涙で文字がかすんできた」
「はいはい、バカ言ってないで、手を動かそうね」
冷たいことを言っているようだが、後島は俺のことを責めたりはしない。
そんな仲間の存在もあって、俺は仕事を続けるのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
明治39年(1906年)5月 東京
軍縮に続き、今度は軍制改革の内容を公表した。
それは基本的に、兵部省を復活させて、陸海軍をその下に置くというものだ。
同時に大本営を常設とし、その中に統合幕僚本部を設置する。
そのトップには統合幕僚長を据え、陸軍の総参謀長と海軍の軍令部長と共に、帝国軍の軍令を司ることになる。
天皇は彼らの輔弼を受けて統帥権を行使するが、同時に首相もしくは内閣の輔弼も受ける、と憲法に明記される予定だ。
これにより、軍が内閣の掣肘を受けずに突っ走るなんてことは、なくなるはずだ。
そして兵部大臣と統合幕僚長は、陸海軍からどちらか一方を出す、たすき掛け人事とする。
両方ともどちらかに偏ったりすると、出せない方から不満が出るからだ。
ただし、今後は陸海の情報共有を進め、それなりに両軍の事情に通じた者だけを、大臣や幕僚長に据えていく、という方針も決定している。
ただの陸軍バカとか海軍バカには、軍の舵取りを任せられないからな。
ついでに、兵部大臣の現役武官制も廃止された。
これは1900年に制定された、”軍部大臣には現役の大将か中将しかなれない”、という規定である。
独立性を懸念した軍の要請をいれた形だが、これでは軍が大臣を辞めさせ、後任を出さないと言えば、内閣が倒されてしまう。
そこで予備役や後備役、退役軍人でも大臣になれるようにした。
これによって大臣候補者の選択肢が大きく広がるので、軍の横暴を許さずにすむだろう。
現状では、とりあえず陸海軍をくっつけただけで、まだまだ情報の共有やムダの削減はできていない。
それらは今後、それなりの時間を掛けて、改善していくのだろう。
しかし史実であった多くの軍の欠陥が、大きく改善されたのは事実だ。
これは前世でもやったことだが、軍人として実現できたことを、まずは喜ぶべきだろう。
問題は、俺たちが多大な犠牲を払っていることだが……




