花の種は、恋の木に育ちました
カイト兄が「軍医を辞めてくる」と宣言して数カ月。
何かの冗談だと思っていたのですが、……本当に、辞めてこの街に戻ってきました。
昇進街道まっしぐらだったのに、本気だったのかと家族皆でビックリです。心労からか、お父さんの白髪が妙に増えた気もします。
やきもきする周囲などなんのその。カイト兄は、ひと月ほど前から、街のお医者様をしています。
巷では『腕はいいけど毒を吐くSっ気のお医者様』として有名です。女性の患者様達が、カイト兄に会いたい為に仮病を使って受診するのが後を絶たないとか。
季節は春に移り変わり、街路樹は桃色の淡い色の花を咲かせて、通る人々の目を楽しませています。
カイト兄がこの街に開業してから、暫くは例の女性を探していたようですが、何か思う所があったのかここ最近はぱったりと探している様子がありません。
一時は、カイト兄にヴェルさんが過去に女装していたと知れてしまったか、と警戒していたのですが、そうでもないようです。
ヴェルさんへの態度がやや軟化して、妙に同情した視線を送る時があるのですが、他は変化が無いので、違うと思われます。多分。
長年の片想いにケリを付けたのだと思う事にします。
……ばれてないと信じましょう!
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「―――ココット! お前はこの兄を裏切りましたね! 前々から言っておいたではないですか、お前の子供を取り上げるのは私だと! ……なのに、お前ときたら私に何の相談も無く違う医者にかかって……!!」
カイト兄は、街に戻ってきて以来、毎日のように私の顔を見に通ってきてくれています。雨の日も、風の日も、雪の日だって。私が風邪をひいて夜中に熱が出た時も、嫌な顔をせずに来てくれました。
そんな優しいカイト兄は、『うさぎ亭』の居間で寛ぐ私の元に来るなり、掴みかからんばかりに怒っています。
……その原因を作ったのは、他ならぬ私です。
「……いくらカイト兄でも、恥ずかしいんです! 知ってますか? 婦人科の内診がどのように行われるか!」
婦人科の内診は、足を開かなくてはいけないのです!
もちろん、着ているものを全部取っ払って!
しかも触れられるんですよ?! 初めて行った時、少し遠くても女医さんを選んで良かったと心から安堵しましたとも!
あんな恥ずかしい行為、いくら医療目的だとしても実の兄にさせるわけにはいきませんし、見せるなんて言語道断です!
「だから、身内のカイト兄じゃ嫌なんですっ!! 出産時も、絶対に室内には入って来ないでください!! ―――うぅっ!」
叫んだら吐き気が……っ!
……そうなんです。今、私のお腹には赤ちゃんがいます。
お医者様曰く、二ヶ月目後半だそうで、ただいま絶賛悪阻中なのです。
様々な香りを嗅いでは吐き気を催し、大きな声を出せば吐き気を催し、誰かの顔を見ては吐き気を……。
ヴェルさんを見た瞬間に吐き気を催した瞬間には、流石に泣かれてしまいました。私も苦しくて、別な意味で泣きましたが。
「……とてもとても悲しい事ですが、断崖絶壁から落ちろと言われた方が遥かにましな位に悲しいですが、ココットが吐いてまで嫌がるのなら、諦めましょう。その代わり、生まれた子の健診は私に一任してもらいますからね」
仕方ないと悲しげに笑いながら、カイト兄はバケツを私に渡すと、吐き気に苦しむ私の背を擦り始めました。
カイト兄に付着している独特な薬草の匂いは、幸いな事に私の悪阻とは相性が良いらしく、清涼感さえ湧いてきます。背を擦る手と清涼感漂う香りを吸い込み気分が晴れてきた頃、控えめに扉が叩かれ、そっとヴェルさんが顔をのぞかせました。
ヴェルさんは顔だけを扉から出すと、恐る恐るといった呈で私を見て口を開きました。
「……今日は俺を見ても大丈夫?」
そうなんです。
ヴェルさんは、顔を見て吐き気を催して以来、私がヴェルさんを見ると吐くと思っているらしく、このようにウルウルとした瞳をして私に聞いてくるのです。私が何度もあの時は偶然だったと言っても、よほどのショックを受けていたのか、私が大丈夫だと一言言わない限り、近づいてさえくれません。
少しさびしいですが、ウルウルと瞳を輝かせた子犬の様なヴェルさんを始終見ていられるのも、今後有るかわかりません。実に貴重な時期だと思われます。
ずっと見ていたいのですが、悲しげに揺れる尻尾と垂れる耳の幻影があまりに可愛らしくて、大人の男の人がそこまで項垂れる姿がなんだか微笑ましくて、いけないと思いながらも、ついつい笑ってしまいます。
「―――大丈夫ですよ。もう、ヴェルさんを見ても吐いたりしませんよ?」
「私としては、その見目麗しい顔に吐瀉物がかかる瞬間を見てみたいのですがね。なんならバケツに溜めて、後でかけてみましょうか」
「……いや、それはいくらなんでも勘弁して欲しいかな。ココット、君のお兄さんって最近あからさまに俺に対して毒舌だよね」
頭を掻きながら、ヴェルさんが椅子に寝そべる私に歩み寄ります。
そう言えばヴェルさんにはまだ伝えていなかったですね。
カイト兄は、その言葉に耐えれる人にしか、きつい言葉を言わないのですよ。
要するに、認められているという事でしょうか。
「私では絶対に死んでもやらないじょ……いえ、私ではやれない事を出来る貴方をそれなりに認めているということですよ。……ココット、お前の亭主様も来たようですし、私は帰りますね」
カイト兄は、私がヴェルさんに伝えようとしていた事を事なげ無く言うと、それまで居た場所をヴェルさんに譲って帰ってしまいました。
……でも、何か余分なことを言いかけましたよね。『じょ』って。
……ま、まさか。
ショックでバケツを落としてしまいました。バケツはカランと音を立てて床を転がって行きます。……空でよかったです。でなければ今ごろ大惨事です。
ヴェルさんは、手直にあったクッションに顔をうずめた私が気分が悪いと勘違いして、カイト兄の代わりにとばかりに私の背を優しく擦りました。
そして、思い出したように、先ほどジョニーさんから手紙が届いたと、彼の服の胸元から取り出した小花柄の封筒を私に渡してくれました。
それはヴェルさんのお義母様からで、再びフィルス君を預かって欲しいと言った内容でした。
私は大歓迎ですが、ヴェルさんは何やら思う所がある様子で、顔を曇らせました。
「……また? 三ヶ月くらい前に帰ったばかりなのに。ゆくゆくは居着くつもりなんじゃ……」
「そうみたいですね。ゆくゆくは家に永住してもいいかと書いてありますし」
「……永住。……ココット、その時は三人でこの家を出ようか。君と、俺と、これから生まれてくる子の三人で」
「え、でも」
「―――嫌?」
い、嫌ではありません。
フィルス君やお義母様、それにお義母様曰く見た目野獣のお義父様と一緒に暮らすのも、楽しそうだと思ったのです。
でも、ヴェルさんがそんな顔を曇らせるのなら、私はどこまでも付いていこうと思います。
好きだからこそ、ヴェルさんの喜ぶ事をして、笑顔でいてもらいたいのです。
だって、私の心の中にある『恋の種』から咲いた花は、未だに咲き乱れているのですから。未だにヴェルさんに恋をしているという証拠ですよね。
いつの間にか芽吹いた恋の種は、いつの間にか大地に強く根付く程に成長していました。大樹の様に大きな幹を持って、縦横無尽伸びた枝には大きな蕾があちこちに付き、葉が茂った隙間からは、大輪の花が所狭しと咲いているのです。
「ヴェルさんが思う通りに動いてください。私は、そこがどこであろうと付いていきますから。……ただ、わがままを言わせてもらえれば、たまにはフィルス君やお義母様方と会いたいです」
三章ラストです。
今までありがとうございました!(^^)!
とりあえず、完結です☆




