我慢の限界一歩手前ですっ!
「それでは、お前が限界だと感じたら迷わず私に言いなさい。直ぐに連れて帰りますから。…………それにしても、お前の亭主様とやらは、お前がここまで悩んでいる事に気付いていないのですか?」
「………………たぶん、気付いていないです。私からその話題を避けていましたから」
カイト兄は重い息を吐くと私の頭に手を置き、ヴェルさんよりも繊細な細い指で幼い子供を慰めるように前髪を梳きました。
ヴェルさんの様な優しい手つきで―――……。
そういえば、先ほどのバレンさんの手といい、事あるごとにヴェルさんと比べてしまいます。
それだけヴェルさんが私の心の中で大きい存在になっているのですね。
結婚式の時はここまでヴェルさんを好きになるとは思っていなかったのですが、想いとは不思議ですね。いつの間にか心の中に芽生えて、大きくなっているのですから。
いつかヴェルさんに話した『恋の種』を身をもって実感している気がします。
「お前を妻に迎えておきながら他の女にうつつを抜かすなど、本当は殴り倒して切り刻んで実験台にしてやりたいのですが、お前が限界を迎えるまで我慢しておきましょう」
頭上から降ってくるカイト兄の不機嫌な低い声に驚いて弾かれたように見上げると、その声に見合った表情をしていました。
眉間に縦皺を三本くらい寄せて、口がへの字になって、いわゆる渋面という表情です。
……苦虫をかみつぶした顔とも言うのかもしれません。
私が驚いてつい見上げてしまったのは、カイト兄の低い声が不機嫌を露わしていたからではないです。
カイト兄の言葉に驚いてしまったのです。
もしかしたら、ヴェルさんと別れるかもしれない、その時を考えると怖い、とは話しましたけれど、悩みの根源であるフィルス君のお母様の事には触れていなかった筈です。
「……カイト兄。私、言ってないですよね? 女の人の事で悩んでいるとは」
「今の話の流れで解らない訳無いでしょう。私はそこまで脳なしではないつもりです。……それに、どれだけの年月お前を見てきたと思ってるのです? 解らないわけないでしょう」
……そうですね。
私の生きてきた年月の分だけ、カイト兄は私を見てくれていました。
忙しい両親に代わって子守をしてくれたのが、カイト兄でした。
勉強を教えてくれたのも。遊びを教えてくれたのも。
「お前が帰りたいと言ったら、私は直ぐに連れて帰るので安心なさい」
優しく撫でられる頭が心地いいです。耳に響くカイト兄の声が、見えない女性に恐怖する心を鎮めるように私を癒してくれます。目を閉じて、このまま心に芽生えた嫌な感情も鎮めれたらいいのに、とそう思った瞬間、肩を掴まれて後ろに引き寄せられました。
驚いて視線を巡らせると、何か焦った表情のヴェルさんの顔が直ぐ傍にありました。
僅かにあがった息が、この場まで走ってきたと教えてくれました。
ヴェルさんは私を背後から強く抱きしめると、不機嫌な表情をしているカイト兄に噛みつくように叫びました。
「――――ココットは帰らせない。たとえ俺の事が嫌いになったとしても、絶対に帰らせない!」
叫んだ為か、更に荒くなった息を吐くヴェルさんを見て、カイト兄の眉が跳ね上がりました。
心なしか背後に黒いモノが漂っている様な気さえします。
カイト兄は私の頭から手を放すと、ヴェルさんを見据えました。
ヴェルさんの方が少し身長が低いので、カイト兄が見降ろしているのですが、なんというか威圧感が凄いです。
上から重りが降ってきている様なそんな感じです。
「ほぅ? ココットに嫌われるような事をしたと自覚があるのですね。少しですがあなたに対して芽生えていただろう信用が、今の一言で一気にマイナスに転じました」
「……自覚というか、言われている意味がよく判らないけれど」
「――――――この期に及んで知らぬふりですか。不愉快ですね。ココットを見るという目的は果たしましたし、あなたを見ていると何とも言えない気分になるので帰ります。……ココット、後で目を冷やすのを忘れずに」
カイト兄は、赤くなった私の目元にキスをすると、鋭い一瞥をヴェルさんに送って帰って行きました。
黒いモノを背後に漂わせながら……。
「なんだったんだ?! 直ぐに君を連れて帰るような事を言ってたのが聞こえたから、話に割り込んだんだけど……」
カイト兄の唇が触れた部分をごしごしと拭きながら、心底訳がわからないと首を傾げながら呟いています。
ヴェルさんの呟きを聞く限り、話の途中―――カイト兄が私を連れて帰る、と言った部分だと推測できます。あの部分だけを聞いたのでしょうか。それを聞いて、本心からあのように叫んでくれたのでしょうか。
フィルス君のお母様がこの家に帰りたいと言っていたと聞いても、同じように私を引き留めてくれるでしょうか。
不安げな表情になったのが解ったのでしょう。ヴェルさんは、俯いた私の顔をのぞき込みました。
綺麗なヴェルさんの翡翠の瞳が、心配するように私を窺っています。壊れ物を前にしたような、触れたら解けてしまう氷の造形を前にしているように。
「……ココット? どうかした?」
「………………いえ」
「目が赤くなってるけど、ずっと泣いてた? さっきマルスから聞いたんだけど、バレンと何か―――」
「何もないですっ! バレンさんは何もしてないですっ。話を聞いていたら勝手に私の目が涙を流して、……砂っ! 砂が入ったんです!」
苦しい言い訳ですね。嘘だってばればれです。現にヴェルさんは私の言った事を信じていません。その証拠に、ヴェルさんの瞳が悲しみに陰りました。
「……嘘は吐かないでくれ。バレンと何を話したんだ? さっきも君を家に連れて帰るとか言ってたし、現に今泣いてるじゃないか。何も無いわけないだろう?!」
ヴェルさんは私を抱きしめると、聞いているものの心が痛くなるほどの悲痛な声をあげました。
そんな声を聞くと、堪らなく自分の本心を言ってしまいたくなりました。
……フィルス君のお母様の事をどう思っていますか? と。
……フィルス君のお母様の事を考えると、私は嫌な心の持ち主になってしまいます、と。
……ヴェルさんとお別れする事を考えると、とても怖くて涙が止まらなくて足元が震える、と。
別れを告げられたわけではないですが、フィルス君のお母様がこの家に帰りたがっていたと聞いてしまった今は、その事を頭に入れないわけにはいきません。
「……フィルス君のお母様の事を聞きました。フィルス君とそっくりだって。この家に、……戻りたがっていたと」
……でも、この家に戻らなかったのは、きっと今のフィルス君のお父様と出会ったから。
きっと幸せに暮らしていたのでしょう。だから、フィルス君の事を知らせなかったのだと思います。
今フィルス君がこの家に預けられているのは、おそらくお母様とお父様が仲違いしてしまい、苦心の末にヴェルさんのもとに送ったからなのでしょう。もしも、その方がここに戻りたいと言ったのならば、ヴェルさんはどうするのでしょうか。
そう思って最後にバレンさんが教えてくれた事を付け加えました。
私の言葉を聞いたヴェルさんは、抱きしめていた腕を緩めて驚くと、なぜか予想外にも安堵の表情を浮かべました。
「知ってたよ。自分の家なんだから、戻りたいのなら勝手に帰ってくればいいのに。まるで俺が追い出したみたいに吹聴してるから困るよ。…………フィルスの事をバレンから聞いたんだ? なんだ。じゃあ、誤解が解けたんだ。良かった。俺はてっきりバレンが君に何かして泣いていたのかと……。え? それなら、なんで泣いてたの?」
……自分の家なんだから戻ってくればいい、と今言いましたよね。
……それは、つまり……その方は家族の一員だと思っていると……?
……その方がこの家に戻るのならば、私はどうすれば?
ダメです。心の防波堤が決壊しそうです。
さっき止まった涙がまた出てきそうです。
どす黒い心がせり上がってきて、ヴェルさんにひどい事を言ってしまいそうです。
私はヴェルさんを思いっきり突き飛ばすと、グッと拳を握って涙をこらえながら、今は使われていない空き部屋に駆けこみました。
外から開かないように鍵を掛けて、こじ開けられないように以前アンナさんが使っていた手法―――扉の前に物を置く―――を使ってみました。
机を置いて、その上に椅子を置いて。流石に本棚は移動できませんでしたが、とりあえず、部屋に入るためには邪魔になりそうなものを手当たり次第に扉前に置きました。
その内に誰かが私を探し始めるかもしれません。
でも、こんな荒れた心のままでは誰の前にも出れません。
こんな醜い私を、誰にも、特にヴェルさんには見られたくありません。
まだ見ぬ女性に嫉妬する私を見せたくなんて無いのです。
心が落ち着くまでの間、バリケードを作って部屋に籠りますっ!




