心が少し痛いのですっ。
フィルス君が『うさぎ亭』に来た今日は、なぜだかヴェルさんとすれ違ってばかりでした。
少し遅めの朝食後には、ヴェルさんは忙しいらしくて直ぐに仕事モードに入ってしまいましたし、お昼にはフィルス君が遊んでくれとせがむので外に出かけていました。
夕方、実家の食堂に行く時も、普段ならヴェルさんが送ってくださるのですが、今日はカイト兄が実家に帰るついでにと送ってくれました。やっとヴェルさんと会話出来たのは、実家のお手伝いが終わってからの帰り道となってしまいました。今現在は夜も深い時間なのです。
ほぼ一日会話をしていなかった事になりますね。珍しいことです。初めての事ではないでしょうか。
「今日は色々ありましたね。……そういえば、フィルス君はどこに?」
「アンナに預けてあるよ。今日から暫くは家で預かるから、君の迎えの時間だけ見てもらう事にしたんだ。……はぁ、やっとまともに君の顔を見る事ができたよ。今日は俺にとって厄日じゃないだろうか」
心底疲れた風で溜息をついたヴェルさんは、おもむろに私の腕を掴むと、抱き寄せて頬にキスを落としました。
軽く触れられた部分の熱が冷めやらぬ間に彼の唇が弧を描き、吐息が触れる程の至近距離で私の耳に囁きかけました。
「今日は本当に疲れたんだ。癒して欲しいな」
「……え?」
それはどういう意味でしょうか……?
マッサージをして欲しいという事でしょうか。
マッサージにも種類があるのですが。足つぼ、全身あん摩、皮膚マッサージ、肩もみ等など。どのマッサージがご希望なのでしょうか。
実は、マッサージは私の隠れた特技の一つなのです。だてに父の素敵筋肉を相手にしてきたわけではありません。私がマッサージをすると、その心地よさに寝てしまうほどの腕前なのです。一日中鍋を振り続けるコリッコリの肩を解した時は、何ともいえない達成感に浸る事が出来るのです。
しかし、いつの間に私の特技を知ったのでしょうか。
私の特技を知っている方は数えるほどしかいないのに。
……もしかしたら。
カイト兄が教えたのかもしれませんね。
三十三のカイト兄と歳が近いことですし、私の秘密を話す程仲良くなったのかもしれません。先ほども実家を出る前に、周囲の背筋がぞっとする程の笑顔を浮かべて、二人でにこやかに話していましたし。
……ああ、話が逸れていますね。
マッサージですね! いいでしょう。私の腕でヴェルさんの腰を砕く程に癒してみせますっ。
「では、帰ってフィルス君の寝顔を見てからでもいいですか?」
「そうだね。俺もその方がいいと思う。邪魔されたくないし、眠ってるのを確かめないとね。―――さあ、早く帰ろう」
ヴェルさんは私の唇に掠める様なキスを贈ると、私が小走りする程の早さで歩き始めました。
……そんなに疲れていたのでしょうか?
閉店した『うさぎ亭』の奥へと進み、いつも通る廊下を通り抜けて、フィルス君が眠っているであろう客間へと足を伸ばしたその時、不意に居間の方から甲高い笑い声が聞こえてきました。
その声は明らかに子供の声で、この家に居るフィルス君のものだと思える声でした。
「……なんでまだ起きてるんだ」
ヴェルさんの目が一瞬見開かれたかと思うと、足音を立てて居間の方へと向かいました。
荒々しく扉を開け放つと、部屋の中に居たのはご機嫌状態のフィルス君。そして、フィルス君の面倒を見ていてくれたアンナさん、バレンさんの三人でした。
アンナさんとバレンさんは、夜も遅い事もあってかもの凄く疲れた表情をしています。
おそらく、寝かせようと頑張っていたのですが、フィルス君は寝てくれなかったのですね。解りますその気持ち。私の甥っ子も、赤ちゃんだけあってなかなか寝てくれませんから。
アンナさんとバレンさんに同情した私の視線とは反対に、ヴェルさんは居間に居る三人を見ると、彼のその身から出たとは思えない程の低い声で、怒鳴りました。
「子供は寝る時間だろうっ! いつまで起きてるんだ! バレン、アンナッ、お前達が遊ばせるから寝ないんじゃないのか!」
ヴェルさんが怒鳴ってるのは初めて見た気がします。
なんだか、なんと言いますか。
……お父さんらしいですっ!
私もよく夜更かしをしてお父さんに怒られました。頭にげんこつを貰った事も一度や二度ではありません。
一瞬ですが、ヴェルさんと私の父の姿が重なりました。
…………ですが、どうしてでしょう。
……フィルス君の父親らしいヴェルさんの一面を見ると、胸が少し痛みます。
服の胸の部分を軽く握る私に向かい、フィルス君が駆けより飛びついてきました。
小さな手が私の腰をギュっと掴み、ふくふくとした子供独特の頬を私のスカートに擦りつけて微笑む姿は子犬のよう。
置いてきぼりを食った子犬が、帰ってきた主に向かって尻尾を振っているようにも見えます。
「おかえりなさい。おねえちゃんといっしょにねたくてまってたの」
ああ、なんて嬉しい事を言ってくれるのでしょうかっ。
照れたその頬笑みを見たら、胸の痛みが吹き飛んでしまいました。
***
起きている時は子犬のように愛くるしいのに、すよすよと寝息を立てるフィルス君は、天使のようです。
金の髪はヴェルさんのように金糸みたいで、伏せた睫毛は上向きにカールしていてこの寝顔ならば女の子にも見えます。
このまま成長したら、麗人と間違えた頃のヴェルさんのようになるでしょう。
本当にそっくりです。
違う所は、頬の柔らかさでしょうか。
フィルス君の頬はパン生地の様に柔らかくて肌触りがいいのです。
いつまでも触っていたくなるような感触です。
「ふふっ。可愛いです」
つんつんとフィルス君の頬を触っていると、不意に部屋の扉が開いてヴェルさんが髪を濡らした状態で入ってきました。
ヴェルさんは寝台に眠るフィルス君を見ると、眉間に皺を寄せて不機嫌な口調で寝台に横になりました。
「……どうして、寝台の真ん中にこの子が居るのかな? 一緒に寝るのなら端でもいいと思うんだけど」
「川の字は家族の基本だと思うのです。それに、フィルス君がいつも真ん中に寝ていると教えてくれましたし。……もしかして、迷惑だったでしょうか?」
「そうじゃないけど。……これじゃ何もできないじゃないか……」
寝台に横になりながら頬杖を突くヴェルさん。ブツブツと何かを呟きながら、少し不満そうです。
……もしかして、そんなにマッサージをして欲しかったのでしょうか。
だとしたら勝手に一緒に寝ると決めてしまって申し訳ないですね。
今からでもマッサージをしてあげたいとは思うのですが、今日はフィルス君が真ん中に寝ていますし、ここは謝っておきましょう。
「ごめんなさい。勝手な事をして」
「……えっ!? いや怒ってたんじゃなくて、ただ楽しみにして分だけ残念で」
なんだか泣きそうな表情をしながらヴェルさんは、バツが悪そうにしています。
そんなに楽しみにしてくれていたとは……。
明日こそは絶対にマッサージしますからね!
そう言えば、ヴェルさんの今現在の表情を見て思い出した事があります。
……私って、今朝の事を謝っていなかったですね。
ヴェルさんの言葉が許せなくて、色々怒ってしまいました。ですが、いくらなんでも「嫌い」は言いすぎたと思います。あの時は凄く泣きそうな表情をしていましたし、ヴェルさんをとても傷付けてしまったのでしょう。
「ヴェルさん、嫌いなんて嘘です。ヴェルさんの事が大好きです」
「―――は? え?」
「今朝、私がフィルス君を連れて家から出て行く前に言った言葉です。嫌いじゃないです。あなたの事が大好きです」
好きですだなんて面と向かって言うのは、結婚していてもとても恥ずかしいですね。
顔に熱が集中するのが解ります。急に顔がほてって熱い位です。
ヴェルさんは私の言葉を聞くや否や顔を真っ赤にして翡翠の瞳を潤ませました。
なぜかこちらを向こうともせずに、枕に顔をうずめて何かに耐えています。時折「小悪魔がここにいる」という呟きまで聞こえてくる始末。
……なにかまた変な事を言ったのでしょうか。
悶絶とも言える表情を浮かべていたヴェルさんは咳払いをすると、未だに赤いままの顔をしたまま私に話しかけました。
「フィルスの事だけど、この子の母親は……」
「フィルス君が寝ていても、この子の前でお母様の事を口に出さないでください。……ホームシックになってしまいますから」
ヴェルさんの言葉を遮りながら、咄嗟に考えた嘘を口に出してしまいました。
ヴェルさんがまたフィルス君のお母様を悪しき様に言うかもしれない。そうしたら、また彼とケンカをしてしまうそう思って。それは避けたい事柄なのです。
でも、本当は、彼からフィルス君のお母様のお話を聞く勇気が無かったのです。
……もし、私の言っていた『ドロドロ恋愛物語』そのものだったら?
……もし、ヴェルさんが未だにフィルス君のお母様を想っていたら?
……フィルス君のお母様が、未だにヴェルさんを想っていたら?
ヴェルさんが言い続けていた「違う」と否定する言葉を信じなければいけないのですが、なんだか怖いのです。
フィルス君が、本当にヴェルさんそっくりだから。
どうやら私は、自分が思っていたよりも深くヴェルさんの事を想っているようです。
ヴェルさんの話が怖くなるほどに。
ココットは未だに誤解したままです(>_<)
いつになったら真実を知るのやら……。




