風邪の良薬は……。 2
久しぶりの亭主様視点です。
愛しい彼女がこの部屋から出て行って、どのくらいの時間が経ったのだろう。
気が付いたら寝台で1人さみしく布団を温めていた。
―――いや、この体の熱さだ。
布団を熱していたと言った方が正しいかもしれない。
多分だけれど、かなりの高熱がでていると思う。
寝ている今も視界が揺れている。頭も痛くて吐きそうなほどだ。それに、汗で服が張り付いて不快だ。
汗で湿っている服を脱ぎ、寝台の下に投げ捨てて新しい服を着る為に寝台をおりる。
ふらつきながら着替えを済ませると、倒れるようにソファに横になった。
寝台と違って、こっちの方が冷たくて気持ちがいい。一息をつきながら、棚に置かれた部屋の時計を見て、今がまだ昼前だと気付く。
それにしても、すこぶる最悪な気分だ。
こんな気分を味わうのは何年振りだろう?
……そうだ、初めて彼女と会った次の日以来だ。
あの雨の日に、彼女と運命的な出会いをした翌日に、こんな最悪な気分を味わったのだった。
あの時は、熱で気持ち悪いし悪夢を見るはで最悪だった。
悪夢?
『恋の種』という不思議な話を聞いたからね、どんな種なのか想像をして寝たんだ。
そしたら、大きな口を開けた鯉の頭が生えた種が追いかけてくる夢を見たんだよ。
大きさは人の頭の大きさ程度だったから、気持ち悪いし鞠のように蹴り飛ばしたさ。でも、蹴るたびに数は増えて、最終的には逃げている道を埋めるほどの数が一気に転がってきてそれに呑まれたんだ。
生臭いし、息苦しいし、本当に悪夢だったよ。
だめだ。思い出したら、もっと気分が悪くなってきた……。
こんな時は、彼女の温かい懐に抱きついて癒されるに限る。
でも、肝心の彼女がこの場所にいない。
愛しくてしょうがないココット。
やっと顔を見て、名前で呼べるようになった。たまに間違えて『嬢』を付けてしまう時もあるけど……。
「それにしても、どこに行ったんだろう?」
ゆるりと時計を見てみれば、今は正午を過ぎていた。
そういえば、何かを作ってくるとか言っていた気がする。
厨房にでもいるのだろうか。
今日は午後からマルスと共に出向かねばいけない場所があったな。よし、今から厨房に行ってココットに癒された後に、マルスと今日の予定を調整しよう。
今日の俺は調子がすこぶる悪い。
おそらくマルスは俺のこの状態を見て「仕事を休め」と言ってくれるにちがいない。
厨房へと向かう為に扉に手をかけた――、
「あれ? 開かない」
ガチャガチャとドアノブが音を立てるが、押しても扉はピクリともしない。
「引く扉だったっけ? おかしいな……」
この扉は押して開く扉だったはず。
熱で記憶が混乱でもしているのかもしれない。
おかしいと首を傾げながら、今度は扉を引いてみた。
「開かない。……壊れた? ―――大変だ!」
このままではココットが帰ってきたときに、部屋に入れないじゃないか!
厨房に居ると思われる彼女に会いに行くことも叶わない。
早く癒されたいのに!
……こうなったら、扉を壊そう。
そうだ、それしかない!
でもどうやって?
この扉は頑丈そうだ。とてもじゃないけれど、蹴破るなんて芸当はできない。下手すれば足を痛める。痛めたら彼女と楽しいアレコレが出来なくなる。
それは勘弁だ。
ぐるりと部屋を見回し、扉を破壊できそうなものを探す。
「ああ、アレならいけるかも」
少し大きめの椅子が目にとまり、それを扉にぶつけてこの部屋の扉を破壊すべく持ち上げた。
「―――っ!! なんだこの重さは!」
予想よりも遥かに重いそれに、苛立つ。
熱で体力がないのか、元から椅子自体が重くて持ち上がらないのかは不明だが、椅子が重すぎて持ち上げることが出来ないのはたしかだ。
扉を破壊すべく使える道具は、この椅子以外はさっと見た感じは無い。
「……チッ」
部屋から出れない。
つまり、彼女に癒される事が出来ないということだ。
イライラが募る。
朝おきて直ぐに彼女を抱きしめるのが日課なのに。
まだ、おはようのキスもしていない。
真っ赤な顔をして、はにかんでこちらを見る彼女を目にするのが一日の活力になるのに……!
かたく閉ざし続ける扉が、彼女と結婚する前の様々な障害のようだ。
そう思うと、イライラも沸点を迎える。
「―――このっ!」
精一杯の力を込めて扉を蹴りあげた。
派手な衝撃音が部屋に響く。
しかし、扉には傷一つついていなかった。
頑丈すぎる扉に、訳もなく苛立ちが募り、もう一撃扉を蹴る。
「ひゃあっ!!」
扉が再び派手な衝撃音を立てると同時に、その向こうから聞きなれた声が聞こえてきた。
「……ヴェ、ヴェルさん? 何をやってらっしゃるのですか?」
「どうせ、扉が開かなくて苛ついて蹴ったんでしょうよ。ホント短気なんだから」
「アンナが扉を開けれないようにしたからだろうがよ。お前なぁ、『程々に』っちゅう言葉があるのを知ってるか?」
「知ってますよ!」
大きな物でも引き摺っているのだろうか、床板の上を何かが音を立てて遠ざかっていく。
マルスとアンナの話声も同時に遠ざかって行った。
扉の前に何があったのだろう。気になり、外を窺おうとドアノブを回しながら押し開く。
扉を開いた先には、今まで求めてやまなかったココットが、小さな笑い声を上げながら音の根源の方を向いていた。
成人を過ぎている女性なのに、その可憐な表情は少女のようだ。
大きな翡翠色の瞳が細くなり、ふっくらとした桃色の唇は、楽しそうに弧を描いている。
なんて可愛いのだろう。
自然と体が彼女に向かっていく。
「ヴェルさん? まだ体温が高そうですよ。横になっていなくてもいいのですか?」
「いい。こうしていたいんだよ」
ぎゅう、と自分よりも華奢な身体を抱きしめた。
少し湿っている髪からは、洗髪剤の香りがする。
その肢体全部が柔らかくて、気持ちがいい。
「ああ、癒される」
「……えっ?」
「うん。こっちの話。……それよりも、何をしていたんだい?」
腕の中で彼女が「そうでした!」と手にした鞄から、灰色の液体が入った小瓶を取り出した。
「ヴェルさんの為に薬を作ろうと、実家に行ってきたのです。そうしたら、父が即効性の解熱剤を作ってくれたのですよ。もちろん、私も手伝いました! これは『はつらつX』という新作だそうです! 」
目を輝かせながら、彼女の父―――筋肉親父が作ってくれた『はつらつX』なる物を早く飲んでくれと彼女の表情は物語っている。
灰色の液体は、すごくドロドロしている。
見るからに不味そうだ。
彼女の作った物ならまだしも、あくまでこれは筋肉親父の作った物。
……正直言うと、怖くて飲みたくない。
「コレ、……何が入ってるの?」
彼女が手伝ったのなら、百歩……いや、千歩譲って飲むとしよう。
しかし飲むのなら、せめて、中に入っている薬剤を確認してから飲みたい。
心の中での葛藤を表情には出さずに、ごくり、と唾をのみこみながら、彼女の顔を見る。
彼女は顎に手を当てて、何かを思い出すような仕草をして口を開く。
「ええと。サマシグサ(解熱剤)と、コラブ(毒蛇)にマシム(毒蛇)とスラズン(毒草)とぽっすん(滋養強壮剤)を全部すり潰した後に煮込んで、仕上げにスパルックを足してあります」
「…………そう」
毒物ばかり入っているのは気のせいだろうか。
解熱効果はサマシグサ(解熱剤)しかないだろう。そうツッコミたい。
それに、内容物を知って不味いと確信した。
しかし、彼女の自信に満ちた表情を前にして、それは言えない。言ってはいけない気がするのだ。
「ヴェルさん? 熱が上がってきたのかもしれないですね。なんだか涙目になっていますよ? 一度寝台に戻ってはどうでしょうか」
小瓶を受け取らずに、涙目になった俺を見てココットは、何か勘違いをしたみたいだ。
今寝台に戻れば、この薬を飲まずに済むかもしれない。
「そうだね。熱が上がってきたみ―――」
「リウヴェル! せっかく彼女が持ってきてくれたんでしょうが。男なら、不味いのが怖くても逃げずに立ち向かいなさい! それに、あの店主直々に作ってくれたんでしょう? 効果抜群は保障されてるじゃない。私からしてみれば新作を飲めるなんて羨ましいくらいよ」
いつの間に戻ってきたんだか、アンナは仁王立ちしながらこちら(俺限定)を睨んでいる。どうやら、俺が逃げようとしていた事に気づいていたようだ。
アンナは自他共に認める、店主の作る直伝薬ファンだ。なんでも店主が軍医をしていた頃からのファンらしい。
……そんなにこれが欲しいならくれてやりたい。
「ヴェルさん?」
アンナを睨む俺を不審に思ったのだろう。ココットが俺を見上げている。
「ヴェルさん。これは確かに不味いですが、父の作った薬で体調を壊した方はいまだかつて目にしたことはありません。それに、これを飲んでますます体調を崩したとしても、大丈夫です! 私、こう見えても薬草師の資格をもっていますから、薬草で何とかしてみます!」
「―――ええっ?!」
驚いた!
本気で!
薬草師って、道端や山や森や沼地に生える草を使って薬を作る職業だろう。なるのは結構難しいと聞いたことがある。
ココットの話を聞いたアンナは、仁王立ちしながら口を大きく開け放って目を見開いている。知らなかったのは、俺だけじゃなかった事に少しだけ安堵した。
しかし、遅れて戻ってきたマルスが、驚いて固まっている俺とアンナに苦笑を洩らしていたのを俺は見てしまった。
どうしてこいつが知っているんだ!
若干むっとしながら、二人から逃れるようにココットの腕を引き部屋に戻って扉を閉める。
「飲むよ。……頂戴。でもさ、これを飲み干したらご褒美が欲しいかな」
ソファに座って、ココットから小瓶を受け取る。
ふたを開けて、匂いを嗅ぐと、何とも言えない不思議な香りがした。
泥に絵具を混ぜた匂いに、酸っぱい物を混ぜた感じだ。
うん。この匂いてきに、絶対に不味い。
これを飲み干せたら、褒美は盛大に貰わねば。
「ご褒美ですか? いいですよ」
彼女の微笑みに盛大に甘えることにしよう。
「約束だからね?」
たくらみの籠った笑顔を彼女に向けて、小瓶を一気に飲み干した。
喉に流れるドロリとした液体に、吐き気が来る。
しかも、からい。
なんだこれ。からすぎる!
こんな、からさは想像してなかったぞ!?
普通は薬って苦い物だろう!
「うっ! ごほ……っ! み、みずを―――!」
「水?! はいっ!」
グラスを受け取り、一口飲む。
そして、もう一度グラスに口をつけて水を含むと、心配そうに俺を見下ろしている彼女を引き寄せて、口づけた。
口腔内の水は彼女の口に移り、彼女は「なぜ?」といった表情を浮かべながらそれを飲み干した。
「ご褒美は、君から水を飲ませて欲しいな? もちろん、その甘い唇から」
彼女の唇を指でなぞれば、音が出そうなほど急速に赤くなる彼女の顔色。
口づけなんて何度もしているのに、いつまでも恥じらう彼女。
見ていて楽しい。
彼女は顔を赤くしたまま、グラスに口を付けて水を含むと、俺の頬に手を当てて曇りのない瞳を伏せて顔を近づけた―――。




