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 ノボル先生の家から帰る車の中、紺ちゃんは思案気に顎に指を当て、窓の外を眺めていた。

 意外な登場人物に驚きすぎて、私も何と言っていいのか分からない。あの短い時間で、私たちはまた3人で会うことを美登里ちゃんに約束させられていた。


『土曜日のソルフェージュが終わったら、一緒にランチしに行こうよ。私はそう長く日本にいられないし、今のうちに少しでも仲良くなっておきたいの。だめ?』


 そんな風にストレートに尋ねられては、嫌とはいえない。

 外国生活が長いからか、それとも元々の性格なのか、美登里ちゃんの対人距離の詰め方は非常に大胆だった。でも押しつけがましい感じは全くしない。コミュ力お化けのような人だ。


 蒼に婚約者がいる、と聞いた時は正直「へえ。セレブってすごい」くらいの気持ちだったんだけど、実際に美登里ちゃんに会ってしまったら、何とも言えない複雑な気持ちになった。

 美登里ちゃんも本気で蒼を嫌がっている様子だったからだ。

 蒼には幸せな人生を歩んで欲しい。意に染まない結婚なんてして欲しくない。

 血縁でもない私がそんな風に心配するのは図々しいと分かっていても、それが正直な気持ちだった。


「――真白ちゃん。大丈夫?」


 運転席をちらりと見遣り、紺ちゃんは私にだけ届く声で囁いてくる。

 能條さんは何を聞いても知らぬ振りを通してくれるだろうけど、サポートキャラやらボクメロやらの話を大っぴらにするわけにはいかない。

 私も声のボリュームを絞り、小声で答えた。


「私は大丈夫。美登里ちゃんと出会うのは、青鸞に入学してからだと勝手に思ってたから、びっくりはしたけど」


 紺ちゃんはこくりと頷いた。

 端正な顔から血の気が引いている。大丈夫じゃないのは、紺ちゃんの方だ。


「リメイク版の通りに進行するなら、真白ちゃんの言った通り、今この時点で美登里ちゃんに出会うことなんて、ないはずなの。……もう、この世界は『ボクメロ』とは別の世界だと考えていいかもしれない」


 そこまで話すと、彼女はいったん口を噤み、私の両手をぎゅっと握ってきた。

 かすかに震える紺ちゃんの冷えた手に驚いてしまう。

 弾かれたように視線を上げれば、思い詰めた瞳とぶつかった。


「転生して、前世の記憶があって。ある程度、先を読めてるつもりだった。もっとうまくやれると思ってた。……人生って、思うようにはならないように出来てるんだね」


 紺ちゃんの苦しげな口調に、私は何と返していいのか分からなくなった。

 リメイク版をプレイしていない私には、紺ちゃんが本当のところ、この世界についてどう思ってるかなんて推し量れない。彼女がずっと何かに苦しんでいることしか分からない。

 それでも、これだけは伝えておきたかった。


「私は、転生できて良かったよ」

「……え?」


 紺ちゃんの瞳がみるみるうちに潤んでいく。

 私は励ますように、細い手を握り返した。


「前世の記憶は殆どないけど、それでもまだ18歳だった。心残りが沢山あったと思うんだ。でもボクメロの世界に転生出来て、毎日すごく充実してる。それもこれもピアノをやり始めたからだし、何より紺ちゃんに出会えたからだと思ってる」

「真白……ちゃん……」


 とうとう紺ちゃんの瞳から大粒の涙が零れ落ちていく。

 何がそんなに悲しいのか、叶うものなら問いたかった。

 だけどきっと彼女はいつものように、何でもないと誤魔化して笑うだろう。

 無理して笑わせるくらいなら、抱えている苦しみをほんの少しでいい、吐き出して欲しかった。


「大好きだよ、紺ちゃん。紺ちゃんが一緒にいてくれて、私は本当に嬉しいんだよ」

「――っ!!」


 紺ちゃんはいきなり私に抱きついてきた。

 ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、縋られる。

 

 初めて会った時からずっと、紺ちゃんはお姉さんみたいな存在だった。

 アドバイスをくれて、優しく導いてくれて。……ずっと我慢してたのかな。

 不安や悲しみなんかのネガティブな気持ちを私には見せないように、ずっと一人で頑張っていたのかな。


「誰にも言えない秘密があるのだとしても、私は紺ちゃんの味方だよ? 覚えててね」

「……ごめん……ごめんね」


 泣きながら紺ちゃんは、謝罪の言葉を繰り返した。

 隠し事について謝っているのか、それとも別のことなのか、私には分からなかった。

 ただ、彼女がその華奢な肩にとてつもなく大きなものを背負っていることだけが伝わってきた。



 そして再びやってきた土曜日。

 私達はノボル先生の家の前に立ち、インターホンを押した。


「はーい。入って」


 ノボル先生の声がしたので、そのまま玄関の扉を開ける。

 リビングへと足を踏み入れた私達は、一変した部屋の様子に瞠目した。

 大きなソファー。冷蔵庫。食器棚にはスージー・クーパーの食器が綺麗に飾られてるし、オーブンやコーヒーメーカーまである。

 メイプル材のダイニングテーブルの上には薔薇の活けられた花瓶。

 まるで、海外住宅メーカーのモデルハウスみたいな有様だ。


「うわ。これって、もしかしなくても……」

「美登里ちゃんの仕業だろうね」


 紺ちゃんとひそひそ話をしながら二階に上がる。

 そこで私たちは、本日2度目の驚愕を味わう羽目になった。


「今日は、聴音と視唱だよね。――どうしたの? 中まで入っておいでよ」


 声は、ノボル先生にそっくりだ。

 先生には、美登里ちゃん以外にも兄弟がいたのかもしれない。

 先生より若いから弟かな。サラサラショートの髪の色は、ノボル先生と同じ緑色をしている。

 髭も眼鏡もないし、この人はすごく男前だけど。

 焦げ茶の瞳は綺麗な二重で、鼻筋も通ってて。うん、とにかく文句なしにカッコいい。


「あのー」

「どちら様ですか?」


 私と紺ちゃんが同時にそう尋ねると、目の前の男性は、長い睫毛を瞬かせた。


「それ、何の冗談? ワタシをからかってるの?」


 キョトンとした表情には、すごく見覚えがある。

 私と紺ちゃんは顔を見合わせ、それから盛大な悲鳴を上げた。


「「ええええええ~!?」」


 結論から言うと――。

 とっても素敵な目の前の男性は、ノボル先生でした。

 この世界が「乙女ゲー」ってこと、うっかり忘れてた。サブキャラまでイケメンっていうのは、もうお約束でしたね。ははは。


 どうやら、押しかけてきた美登里ちゃんによって、家も本人も大改造を施されてしまったらしい。

 ノボル先生の顔には『大迷惑』とかいてあった。


「でも、今の方が素敵ですよ」

「うん、絶対こっちの方がいい。亜由美先生だって、きっとそう言うと思うな」


 私達の言葉に、ノボル先生はピクリと反応した。


「そう思う? 僕は僕なのに?」


 そう言って、まだ納得がいかないように首を捻る。

 せっかくの素材を台無しにするなんて、非常にもったいない。

 そりゃお洒落するもしないも本人の勝手だけど、精一杯頑張っても「ちょっぴり可愛い」程度にしかなれない人だっているんですよ! ……うっ。言ってて心が痛い。


「いや~、視覚を馬鹿にするべきじゃないですよ。人を見た目で判断するような亜由美先生じゃないですけど、冴えないおっさんより小奇麗なイケメンの方が好印象なんじゃないですかね」


 思わず本音を吐露してしまう。

 あ、と気づいた時には遅かった。


「冴えないおっさん……」


 ノボル先生がしゅん、と項垂れる。

 紺ちゃんが慌てて、「枯れた感じの身なりを構わない男性がタイプな女性もいるとは思いますよ」とフォローしたんだけど、ノボル先生は更に遠い目になった。

 枯れたって。身なりを構わないって。

 紺ちゃんのそれ、私の酷さとあまり変わらなくないだろうか。


「もういいよ。これ以上ダメージを喰らう前に、レッスンをやっちゃおう」


 ノボル先生は涙目で宣言した。

 この日のソルフェージュがいつも以上に厳しかったのは、自業自得だ。

 いやでも、あれは驚くでしょ。


 二時間後――。

 レッスンが終わったのを見計らったかのように、美登里ちゃんが部屋に入ってきた。


「もう終わった?」

「うん、今終わったところだよ」


 ノボル先生の答えに、「グッドタイミング!」と美登里ちゃんが明るい声を上げる。

 彼女はふんわりカールされた長い髪を揺らしながら、片付け中の私達へと近づいてきた。


「真白の髪って、ピンクで可愛いね! 次はこの色に染めちゃおうかな」


 そう言いながら、うっとりと視線を私の頭に据えている。


「染める? その髪は地毛じゃないの?」

「違うよ~。もともとはノボルと一緒で緑色なの。名前もミドリで髪もミドリなんて、馬鹿みたいでしょ? だからずっと染めてるんだ」


 ああ、この子も『ボクメロ』メーカーの被害者なんだ。

 紺ちゃんが視界の端で、分かる、分かる、というように頷いている。

 紺ちゃんも名前では苦労してるもんね。


「じゃあ、ノボル。私達、ちょっと出かけてくるね!」

「えー。僕も行きたい。お腹、空いた」

「Absolutely not! 今日は女の子だけの会なの」


 美登里ちゃんはノボル先生の頬に背伸びをして軽くキスを落とすと、そのまま私と紺ちゃんの間に体を割り込ませ腕を組んできた。にっこりとそれはもう愛らしい微笑みを向けられる。


「ちゃんとお店は予約してあるんだよ。イタリアンだけど口に合うといいな。コンの車で送っていってくれる?」

「もちろん」

「良かった! じゃあ、いこ」


 美登里ちゃんと一緒に迎えにきてくれた紺ちゃんちの車に乗り込む。

 能條さんの運転するロールスロイスを見ても、美登里ちゃんは眉一つ動かさなかった。

 美坂家といえば、現代史の教科書にも載ってるような由緒ある家柄の大財閥だ。その美坂の御曹司であるノボル先生が、どうしてあんな生活をしてるのか、美登里ちゃんは簡単に説明してくれた。


「ノボルは、ずっと自由に生きたがってた。それで何度もお祖父様とぶつかってたわ。どうあってもピアノを諦めないノボルにお祖父様が折れて、ショパンコンクールで実績を残せたら家を出てもいいって条件出を出したのよ。コンクール嫌いなノボルのことだから断ると思ったんだろうけど、結果は知っての通り。まあ、優勝は出来なかったけど、いい線いったわけだから、お祖父様もお父様も今はノボルの好きなようにさせてるんだと思うわ」

「そっか……。大変だったんだね。お金持ちにはお金持ちの苦労があるね」


 平凡な一般家庭に生まれて良かったのかも。

 私がしみじみ感慨にふけっていると、美登里ちゃんはクスクス笑い始めた。


「完全にひとごとなのね。普通は、私やコンみたいな子が近くにいたら、何とか取り入ろうって目の色変えるものよ」

「いや~、私は今の私に満足してるから」


 お金が欲しくない、とは言わない。

 お金があれば大抵のことは何とかなる。だけど、欲しいのは人のお金じゃない。

 桜子さんや千沙子さんに何かを頂く度に、胃がキリキリ痛む私は小心者なんだろう。

 正直に打ち明けると、美登里ちゃんはますます笑みを深めた。


「私、真白が好きだわ。ソウを初めて見直したかも」

「えっと……ありがとう?」


 今の話のどこに、好感ポイントがあったんだろう。

 何と答えていいか分からず、疑問形でお礼を言うと、美登里ちゃんは嬉しそうに私にくっついてきた。

 この子の人懐っこさは、蒼と互角だ。似た者同士。同族嫌悪。なるほど。


 ようやく到着したのは隠れ家、といった雰囲気の洒落たレストラン。

 ブルスケッタに始まり、モッツァレラチーズとトマトのサラダ、バジリコペーストのトレネッテジェノバ風、それに手長海老のオーブン焼き、と舌を噛みそうな料理が次々と運ばれてくる。

 エスプレッソと自家製ジェラートが運ばれてくるまでに、私はずっと料理の値段を推測していた。

 母さんから5000円ものお小遣いを預かってきてるんだけど、足りる気がしない。値段ばかり気にしてる私に気づいたのか、紺ちゃんがそっと耳打ちしてきた。


「私が一緒に払うから。そんな青い顔しないで、しっかり味わって」

「う……ん。じゃあ、立て替えをお願い出来る? 今度ちゃんと返すね」


 私たちの会話が聞こえたのか、美登里ちゃんは軽く眉を上げた。


「チェックはしないわよ。後でお父様が払うんじゃないかしら? 私、お財布持ってないし」


 はぁ? なんなんですか、それは! 

 脱力のあまり、私はおでこを真っ白なテーブルクロスの上に打ち付けそうになった。

 まだ2回しか会ったことない子に、奢ってもらうのってあり?


「ねえ、そんなことより、蒼の話をしてもいい? 誰かに愚痴を聞いて欲しくてたまらないの」


 そんなことより、と私の葛藤を一蹴し、美登里ちゃんは延々と蒼がいかに酷い態度なのかを語り始めた。


「私が何を言っても、ほとんど相槌もうたずに腕を組んで冷ややかにこっちを見てくるの。たまに口を開けば『真白なら』『真白は』って。はいはい、あなたの女神様の話はもういいですよって感じ。こっちも好きで顔合わせてるわけじゃないのに、何様!?」


 ゲーム通りなら、俺様、なんだろうなあ。


「だからね。うーんと真白と仲良くなって、苛々させてやろうかなって。ねえ、後で一緒に写真撮ろうね? 向こうに帰ったら、思いっきり自慢してやるんだ~」


 よっぽど鬱憤が溜まっていたのか、そんなことを言ってはほくそ笑んでいる。

 どこまでも天真爛漫な美登里ちゃんに、とうとう紺ちゃんは笑い出してしまった。

 くすくす笑いながら、紺ちゃんは尋ねる。


「それで真白ちゃんと城山くんが上手くいってしまうのは、いいの? それだと城山くんを喜ばせちゃうことになるよ?」

「まあ、そこはそれ。ソウも結構悲惨な生い立ちだし、幸せになるな! とまでは思ってないわ。とりあえず、このふざけた婚約話が消えればそれでいいの」


 心底うんざりしてることが分かる美登里ちゃんの表情に、私もおかしくなってしまった。

 蒼の事情をちゃんと分かってくれてることに、安堵もした。

 だからと言って、私達をくっつけようとしないで欲しい。

 私と蒼が恋人関係になるなんて、全然想像できないよ。

 第一、彼はドイツに行ってしまっている。私達の人生はきっともう交わらない。

 私が説明すると、美登里ちゃんは肩をすくめた。


「案外分かってないのね。あいつがこのまま大人しくドイツにいるわけないじゃない。覚悟した方がいいわよ~。ソウが日本に帰国したら、今までの比じゃなく迫られるから」

「こ、怖い予言しないでよ」


 ぶるりと震えた私を見て、美登里ちゃんは「だってあいつ、真白教の信者だもん」と真顔で言った。



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