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スチル11.NOT FOUND(紺)

 林間学校明けの代休。

 ピアノは、やっぱり少し指が重くなっていた。

 普段は毎日4時間、休みの日は8時間くらい練習している。

 それが、たった一日休んだだけで大きく後退した。

 残酷な事実に、泣きたくなる。

 

 林間学校でこれなら、修学旅行なんてどうなるんだろう。

 世間には練習嫌いのピアニストもいる。彼らは、一日一時間以上は弾かない、と公言してたりする。選ばれた人だけが口に出来る台詞だ。


 天賦の才を持ち合わせていない私は、ひたすら練習するしかない。

 半べそをかきながら、スケールとアルペジオで指の力と操作性を高めていく。

 手の甲を固定せず、柔らかく手の平全体を使う。指の力は強い方だけど、左手の薬指と小指がどうしても弱い。

 全ての指で叩く音が同じ音量になるまで、何度でも繰り返す。

 次はアクセントをつけて。その次はスタッカートで。最後はテンポを速めて。


 基本練習を始め2時間くらい経ったところで、部屋の扉がノックされた。


「ましろー。紺ちゃんから、電話だよ」


 子機を渡す時、お姉ちゃんは心配そうな瞳で私を覗き込んだ。


「焦ることないよ、ましろ。大丈夫、すぐに取り戻せるよ」


 お姉ちゃんは、私が林間学校に行きたくなかった理由を知っている。


「うん……ごめんね、お姉ちゃん。勉強してたんだよね? うるさくしてごめん」

「平気、平気! ほら、勉強中はコレしてるし」


 首にかけたヘッドホンを持ち上げ、花香お姉ちゃんはニカっと笑ってくれた。

 彼女の携帯音楽プレイヤーの中には「頭の良くなるクラシック」というCDがインストールされている。お姉ちゃんなりに、受験に向けて頑張っているのだ。

 明るくて前向きな姉と話すと、いつも元気と勇気が湧いてくる。

 私はすっきりした気分で、子機の保留ボタンを解除した。


「もしもし、紺ちゃん?」

「あ、真白ちゃん、こんにちは。……紅がごめんね。林間学校先まで押しかけて行った、ってさっき聞いて、驚いたわ。私がうっかり口を滑らせたせいで、真白ちゃんに迷惑かけたな、って反省してたの」


 玄田の家に紅様がやってきて、紺ちゃんに一部始終を報告したらしい。


「全然!むしろすごく助かったよ。紺ちゃんのお蔭だよ」


 素直な気持ちを伝えると、紺ちゃんは安堵したみたいだった。


「それなら良かった~。これも紅から聞いたんだけど、真白ちゃん、成田の家に行ったんだってね」

「あ、うん。三日前かな? 下校中に偶然会って、お招きして貰ったんだ。ベーゼンドルファー、弾かせて貰ったよ!」

「そっか。ふふっ。ベーゼン、重いけど良い音するよね~。……えーと、それでね――」


 言いにくそうに躊躇した後、紺ちゃんは意を決したように口を開いた。


「うちにも来てくれないかな、と思って。うちのピアノはベヒシュタインだけど、弾き比べるのも面白いよ」

「うわ~! いいの!?」


 思わず大きな声が出てしまう。

 ベヒシュタインも一度は弾いてみたい憧れのピアノだ。


「もちろん! ……でね、うちの母達も、ましろちゃんに会いたいって言ってるの。ちょっと変わってるけど、すごく気さくな人達だよ。……どうかな?」


 『母達』って、つまり紺ちゃんと紅様の産みのお母さんとそのお義姉さん、ってことだよね?


「もしかして、私、紅くんの家で何か粗相を……」


 自分なりに行儀よく振る舞ったつもりだったけど、所詮は庶民。

 マナーとか全然分からないし、気づかないうちにやらかしてしまった可能性はある。

 それを遠まわしに注意されるのかもしれない。

 出されたクッキーって全部食べちゃダメだったのかな。


 帰り際に見かけた若いメイドさんに、色々話しかけちゃったのが良くなかった?

 だって、メイドさんだよ! テンション上がっちゃったんだよ!


「え? ううん、そうじゃないの! どっちかと云うと逆で……。と、とにかく、そんなに時間は取らせないから! すぐに追い払うから。……あとね。城山くんのことで話しておきたいこともあって」


 電話口では話しにくいのか、紺ちゃんは口籠ってしまった。

 そういえば、紺ちゃんとゆっくり二人で話すことってなかった。

 今まで常に誰かに邪魔されてる。ちょうどいい機会かも。


「いいよ、いつにしよっか?」


 マナーブックって家になかったっけ。紺ちゃんママたちに嫌われたくない。

 今度こそ、しっかり下調べしよっと。


「ホント!? えっと、じゃあ8月の最初の日曜日は?」


 カレンダーで確認するまでもない。

 春休みと同じく、何も予定は入れていなかった。


「オッケー」

「ふふ、即答なんだね」

 紺ちゃんは嬉しそうにクスクス笑った。

 紺ちゃんの声を聞くと、不思議と心がほんわか温まる。

 花香お姉ちゃんと話した後と同じ感覚。

 今日はダブルで話せたから、癒しも二乗だった。


 よっしゃ! 続き、頑張るぞ~!

 私は軽い足取りでアイネの元に戻った。


   


 オール5の通知表をもらい、私の一学期は幕を閉じた。

 夕食の席で、通知簿を見た両親に盛大に褒められ、かなり微妙な気持ちになる。

 リセット人生でズルしてるという後ろめたさに、もぞもぞする。

 前世の年齢を超えて初めて、自分だけの努力で頑張った、って胸を張れるんだろうな。

 姉は、自分のことのように喜んでくれた。


「すごい、すごい! ましろ、頑張ってるもんね~」

「そういう花ちゃんはどうだったの?」

「聞かない方向で一つ、お願いシマス」


 急にトーンダウンしたお姉ちゃんを、父さんが「勉強だけが全てじゃないし、結果だけが全てじゃないさ」と慰めている。


「そうそう。真白も花ちゃんも頑張ってる! うちの子は2人ともすごいの!」


 母さんがきっぱり言い切ったので、皆で笑った。


 ――ズキン

 突然襲ってきた痛みに、顔を顰める。

 まただ。最近、急に頭が痛くなることが増えた。


 誰にも言っていないのは、すぐに消えてしまうから。ズキン、と痛くなってすぐに収まる。

 でもその後、決まって酷く悲しくなる。


 いつも通りの平和な食卓。

 悲しくなる要素なんてどこにもないのに、無性に泣きたくなってしまう。

 永遠に取り戻せない光景を、ガラス越しに見ているような気分になる。


「ましろ? 食べないの?」

「……ううん、食べる!」


 私の好きなオムライスに、お姉ちゃんの好きな豆腐とトマトのサラダ。

 母さんは私たちの好物を作って、学期の締めくくりを労ってくれる。

 鼻の奥にこみ上げてくる涙をなんとか飲み下し、私はスプーンを持ち直した。



 紺ちゃんと約束した日曜日当日。

 母さんは朝一番で駅前まで行き、有名なパティスリーのマカロンを買ってきてくれた。


「美味しいって聞いたんだけど、あちらのお口に合うかしらね」


 心配そうな母さんに「きっと大丈夫だよ。ありがとう!」と答え、サンダルのバックルを留める。

 今日はお姉ちゃんのお下がりの中から、一番のよそ行きを引っ張りだした。

 黒の襟付き半袖ワンピース。

 同じく黒の水玉模様のウッドサンダルを合わせ、籠バッグを持つ。

 直前まで冷蔵庫で冷やされていたマカロンを手に、玄関を出た。

 玄関前に停められたベンツの脇には、見知らぬ青年が立っていた。


「島尾さま。本日、送迎を務めさせて頂きます能條と申します。どうぞよろしくお願い致します」

「お手数をおかけします。こちらこそ、よろしくお願いします」


 丁寧な挨拶に、しょっぱなから緊張してしまう。

 がちがちになりながら頭をさげた私を見て、能條さんはふわりと微笑んだ。

 彼は、紺ちゃん専用の運転手さんらしい。

 水沢さんより、ちょっと若いくらい。落ち着いたハスキーボイスと均整の取れた長身がカッコいい。

 後部座席のドアを開けてもらい、よろよろと車に乗り込んだ。エスコートされるのって、未だに慣れない。

 

 紅様の家までは車で20分くらいだけど、紺ちゃんの家はもっと遠かった。

 所在なさげにバッグの持ち手をいじっている私を、能條さんはミラーで確認し、「音楽でもかけますか?」と気遣ってくれた。


「普段お嬢様が聞かれているCDが入っておりますが」

「あ、じゃあ、お願いします」


 きっとクラシックだな。ピアノ曲かな、それとも……。

 ワクワクしながら耳を澄ませていた私は、流れてきた音楽にポカンと口を開けた。

 これってもしかしてSAZEのアルバム? 

 甘い声でキャッチーなフレーズを歌いあげるツインボーカルに、度肝を抜かれる。

 うわあ、紺ちゃんって普段はこんなの聞いてるんだ!


「紺ちゃんって、アイドル好きなんですか?」

「そうですね。かなりお好きなようです。このグループだけではなく他にも――」


 能條さんの挙げたアイドルグループ名に、私はほお~と間抜けな相槌を打った。

 花香お姉ちゃんと趣味が丸被りしてる!

 私よりも、お姉ちゃんの方と気が合ったりして……。

 黄色い悲鳴をあげながら団扇を振る2人を想像するとおかしくて、ニヤニヤ笑ってしまった。


 蒼くんの家も、紅様の家も凄かったけど、紺ちゃんのおうちはまた別格だった。

 「ここは兼六園です」とガイドされても「ふう~ん、ここがね~」と納得しちゃいそうなくらいの大庭園と和風の大邸宅。


 ――あ、あれが出来そう! 大奥ごっこ。

 パーン、パーンと次々に襖を開けていくやつ。


 アホなことを考えながら車を降り、うちの二階くらいの広さがある玄関に入った。

 んん? ここはホテルのロビーかな?


「ましろちゃん! 来てくれてありがとう!」


 私を待ち構えていた紺ちゃんは、涼しげな絽の着物姿だった。

 辺りに漂うお香の香り、目の前には和服姿の美少女。

 まるで、異世界に迷い込んだような心地になる。


「紺ちゃん、お招きありがとう。これ、つまらないものですが」


 お歳暮のCMに出てきそうな構図で手土産を渡すと、紺ちゃんは嬉しそうに目を細めた。


「わあ、もしかしてミヤホリのマカロン? ここのマカロン、大好きなんだよね。後で一緒に食べよ?」


 母さん、グッジョブ! 

 心の中で親指を立てる。あとで「お土産、当たりだったよ」って話したら、母さんも喜ぶだろうな。

 余程嬉しいのか、紺ちゃんは珍しくハイテンションだった。


「上がって! 先に私の部屋に行こう。母さま達にはお昼ご飯の時に紹介するから」

「うん、お邪魔します」


 脇に控えたお手伝いさんらしき女性に「これ、冷やしておいて。ましろちゃんからのお土産だって伝えてね」と言い添え、紺ちゃんは紙袋を渡している。

 電話では『うちの母』なんて言い方してたけど、普段は『母さま』って呼んでるんだ。


「ん? なあに? 笑っちゃって」

「ううん。紺ちゃん、ほんと可愛いなあ~と思って」


 正直に言った途端、紺ちゃんは小さく唇を開いた。

 目を大きく見開き、食い入るように私を見つめてくる。

 劇的な変化に、私も驚いてしまった。


「ど、どうしたの?」


 問い返すと、紺ちゃんはきつく目をつぶり、何かに耐えるようにじっと俯いた。

 再び顔をあげた時にはもう、普段の優しげな表情に戻っている。


「その言い方、私のすごく大切な子がよくしてたんだ。……ごめんね、無性に懐かしくなっちゃって」


 過去形での説明に、何と返していいのか分からない。

 紺ちゃんが酷く悲しくなってしまったことだけは、ひしひしと伝わってきた。


「えっと。……ゴメンね?」

「ふふ。ほんと真白ちゃんは優しいね。……じゃ、行こっか。こっちだよ!」


 白く細い手に誘われ、奥へと進んでいく。

 紺ちゃんのお部屋は洋室だった。

 ピアノの置いてある続きの間も、完全防音のフローリングだ。

 お屋敷全体が和風だから、てっきり和室だと思っていた。

 紺ちゃんに言うと、「リフォームしてもらったの」という返事が返ってくる。


 紺ちゃんは、そわそわしている私に気づき、先にピアノを見せてくれた。

 広い練習室の真ん中に、ベヒシュタインが鎮座している。

 艶やかな黒のボディに刻まれた王冠マークが眩しい!


「真白ちゃんってば、目がキラキラしちゃってる。ふふ。好きに触っていいよ」

「ありがとう! あの、先に紺ちゃんに弾いて貰うことって出来ない?」


 同じ門下生といっても、亜由美先生のところは完全個別レッスン制。

 出会ってかなり経つというのに、私は彼女のピアノを一度も聞いたことがないのだ。

 ところが紺ちゃんは、残念そうに首を振った。


「ごめんね。今日着物だから、ペダル上手く踏めないと思うんだ」

「あ、そっか。そうだよね! ごめん、じゃあ弾かせてもらうね」


 よろしくお願いします、と心の中でベヒシュタインに話しかけ、椅子に腰かける。

 私と紺ちゃんの背はほとんど変わらないから、調整はせずに済んだ。

 軽く指慣らしをして、鍵盤に手を置く。


 ベーゼンドルファーと違って、立ち上がりが早くクリアな音だ。

 かといって、薄っぺらさは微塵もない。芳醇な豊さを含む、柔らかさ。濁りがなく透明感がある。

 ラヴェルやドビュッシー辺りを弾いたら、すごく綺麗に響きそう。

 何を弾くか決まったので、改めて鍵盤に指を置いた。


 ――ラヴェル作曲のソナチネ第二楽章


 独特のリズムと和声の組み合わせの多彩さに苦戦してる、今練習中の一曲だった。

 そこまで複雑なテクニックを要する曲ではないんだけど、はっきりとしたメロディがなかなか掴めなくて、まず暗譜から手こずった。

 ピアノのメヌエットの中では最高傑作と呼ばれてる曲らしい。

 ゆっくりめのテンポで丁寧に音を紡いでいく。

 自分で弾いておいて何だけど、装飾音のトリルの鮮明さに舌を巻いた。

 うちのアイネちゃんとはやっぱり段違いに音が綺麗だ。


 何とかノーミスでは弾けたものの、音の魔術師との異名を持つラヴェルの良さは全く表現出来てない。

 ああ~、悔しいな! もっと練習しないと!

 紺ちゃんに温かな拍手をもらったので、苦笑いを返す。


「ラヴェル、難しい~! 楽譜通りに弾いてるはずなのに、音が綺麗に浮き上がってこないの。どんな風に弾くといいのかな」

「うーん。確かに弾きやすい、弾きにくいは人によってあるっていうよね。紅は『ましろのブラームスはなかなか良かった』って言ってたよ?」

「確かに、好きか嫌いかで云えば、苦手な作曲家、ってことになっちゃうのかなあ。でも、ボレロとか亡き王女の為のパヴァーヌとか、聞く分には大好きなんだよね。……もっと上手くなったら弾きこなせるようになるんだと思う。ただ下手なだけなんだよね、きっと」


 肩を落とした私に、紺ちゃんは複雑そうな目を向けた。


「……このまま、ピアノの道を行くつもりなんだね。今の曲で分かっちゃった。ちょっとやそっとでこんなに上達するわけない。ましろちゃんも、本気なんだね」

「うん、まあどこまでいけるか分からないけど。ピアノ弾くの、すごく好きだから」

「そっか」


 言葉少なに答える紺ちゃんと連れ立って、隣の部屋に戻る。

 壁際にはシンプルなダブルベッド。ペルシャ絨毯の上に応接セットが置かれ、その向こうに天然木の洒落た学習デスクが配置されている。全体的に大人っぽい部屋だ。

 机の横に掛けられたスクールバッグだけが、紺ちゃんの今の年齢を物語っている。


 応接ソファーに向かい合って腰を下ろし、いつの間にか運ばれてきていた冷たい緑茶を頂く。

 外の暑さと騒がしさが嘘みたいに、部屋の中はひんやりと静かだった。


「そういえば、電話で言ってた話したいことって?」


 ふと思い出して聞いてみる。

 紺ちゃんは居住まいを正し、まっすぐに私を見つめた。


「リメイク版の話になっちゃうんだけど、私が紅の妹である以上、本当なら蒼くんイベントは一つも発生しないはずなんだよ」

「……そうなの?」


 蒼くんの私への懐きっぷりを思うと、イベントが発生していないとはとても思えない。

 紺ちゃんも同じ意見だったらしく「私もおかしいと思う」と頷いた。

 紺ちゃんは眉を顰め、言いにくそうに続けた。


「最初はね。真白ちゃんがボクメロ進行から外れたのかな? って思ってた。でも後から、バッドエンドがあったこと思い出しちゃって。……紅ルートが開いてるのに、蒼くんばっかり話しかけたり、短調の曲ばっかり作曲してたりすると、蒼くんの好感度がどんどん上がっていくんだよ。蒼くんは途中で『俺を弄ぶな!』ってキレちゃうの。最後は、蒼くんの監禁エンドで終わり。現実でもあんな風になったらどうしようって、最近不安で……」


 ――なに、それめちゃくちゃ怖い。


 実際にやられたら、今までの蒼くんとのギャップに心臓が止まるわ。

 ギャップ萌え! とか言えるレベルじゃない。


「ど、どうしよう、紺ちゃん! えっと、紺ちゃんは、リメイク版のサポートキャラってことでいいんだよね? 絶対に避けなきゃいけないイベントがあるなら、教えて!」


 監禁エンドは、絶対に避けなきゃ。

 縋るように見つめると、紺ちゃんは真剣な表情で私の視線を受け止めた。


「ゲームの進行通りにこの世界が進むなら、青鸞で一緒になる『美坂 美登里』ちゃんって子が、ましろちゃんの手助けをしてくれるはず……。これは前にも言ったけど、ましろちゃんは自由に生きられるんだよ。ボクメロに振り回される必要ない。ピアノさえやめたら、コンクールに出ることも、青鸞に来ることもなくなるし、辛い目に遭わなくて済むかもしれない。ううん、ピアノは止めなくても趣味で続ければ――」


 必死に言い募る紺ちゃんの瞳には、うっすらと涙が溜まり始める。

 ものすごく陰惨なバッドエンドだったに違いない。背筋が寒くなる。

 それでも、ピアノを止めるという選択肢を選ぶことは出来なかった。


「私、ピアノはやめたくない。青鸞で音楽をやりたいの」

「……どうしても?」

「どうしても」


 言い切った私に、紺ちゃんはぎゅっと唇を噛んだ。

 しばらく黙り込んだ後、彼女は渋々頷いた。


「正直なところ、私は紅へも情が湧いてるから、心のどこかでましろちゃんと兄が上手くいってくれたらいいな、って今でも思ってる。でも青鸞には来てほしくないな、とも思ってしまう。リスクが大きすぎるし、ボクメロとは関係のない世界で楽しく暮らして欲しいなって。……こんな話されても、ましろちゃんは困るだけなのにね」


 真摯に紡がれる言葉を、少し意外に思った。

 紺ちゃんが私の将来をここまで心配してくれてるなんて、想像もしてなかった。

 彼女は私が思うよりうんと、私の人生について深く考えてくれてたんだ。


「ううん、嬉しいよ。同じ転生者ってだけで、ここまで親身に心配してくれる紺ちゃんがいて、すごくラッキーだったなって思うもん」


 貰った言葉と同じくらい真摯に聞こえますように。

 祈るような気持で答える。

 紺ちゃんは、泣き笑いみたいな表情を浮かべ、首を振った。


「私の方こそ、嬉しい。だって、真白ちゃんは……」


 そこまで言って、紺ちゃんはビクリと身じろぎした。

 彼女の視線は、私の隣に移っている。


「……この子に触らないで」


 紺ちゃんは剣呑な光を帯びた瞳で、私の隣りの空間をきつく睨み付けた。



 ◇◇◇


 前作主人公の成果

 イベント名:???

 該当するイベントは見当たりません



 空中に浮かび上がった攻略画面に、エラー警告が重なる。

 男は軽く肩をすくめ、契約者の元に向かった。

 性懲りもなく、彼女は再びルールに抵触したらしい。

 契約者の向かいには、この世界の主人公に据えた少女が座っていた。


「はじめまして、マシロ」


 聞こえないことを承知で挨拶し、少女の隣りに腰を下ろす。

 契約者はすぐに男に気づいた。

 彼女からは期待していた『絶望』ではなく、『怒り』の波動が伝わってくる。


「――キミがいけないんだよ、コン。キミは自分の役割からはみ出しちゃダメだ」


 試しに言って、主人公の首に手をかける振りをする。

 契約者の感情に、恐れが混じる。

 男は大きく息を吸い、彼女の甘い恐怖を味わった。



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