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音楽祭は大盛況のうちに幕を閉じた。
ちなみに、観客アンケートで一番表を集めたのは、亜由美先生だったそうだ。
当然! となぜか私まで得意げな気分になる。先生は私と紺ちゃんの差し入れをすごく喜んでくれた。
次の一大イベントは、林間学校だ。
参加中、ピアノの練習が出来ないという悩みは、まだ解消されていない。
私は放課後、思い切って職員室へ行くことにした。
クマジャー先生は回転椅子の上に半分あぐらを書き、日誌を一生懸命書いている。
汗が落ちないようにする為か、日中首にかけられていたタオルは、今は額に巻かれていた。
他の人がやったら顰蹙ものかもしれないけど、クマジャー先生には不思議と似合っている。
「あの、先生。ちょっといいですか?」
声をかけると、先生はすぐに振り返り、日誌を閉じてまっすぐ向き合ってくれた。
「おう、いいぞ。どうした、珍しいな」
「あの、林間学校のことなんですけど――」
まずは、ずっとピアノを習っていること。真剣に上を目指していることを先に伝える。
クマジャー先生は話の先を急かしたりせず、話しやすいように相槌を打ってくれた。
「二日もピアノに触れないのは、すごく困るんです。父に宿泊施設を調べて貰ったら、本館にピアノが置いてあるってHPに載ってて――」
学校から貰ったスケジュール表では、夜の7時から9時までが自由行動の時間になっている。
その時に本館のピアノを弾かせて貰えないか、と私は頼み込んだ。
先生はむう、と唇を引き結び、しばらく黙った。
一日休むと三日遅れる、と云われる程、音楽は演奏者に日々の積み重ねを要求してくる。
指が重くなってしまえば、元の状態に戻すのにひたすら基礎練習を繰り返さなくてはならない。
継続の重要性を訴える私に向かって、先生は首を振った。
「話は分かった。島尾にとって、とっても大切な問題だってことも分かった。島尾は、ピアノが好きなんだな? でも先生は、こういう時くらい、ピアノや勉強から離れていいと思う。友達と話したり、一緒に遊んだり、今しか出来ないことを探すのはどうだろう。決してこれからの島尾の人生にマイナスにはならないぞ」
「……でも――」
「もちろん、強制じゃないからな。一人がいけないってわけじゃない。ただ、島尾だけにピアノの使用許可を出すことは出来ない。他にも弾きたいって子がいるかもしれない。真剣さの度合いで生徒を選別することは、先生には出来ない」
「……はい。分かりました」
だめだ。先生には、分かってもらえない。
私も前世では先生の言うような、のんびりとした小学生ライフを送ってたような気がする。
記憶を取り戻すまでも、そうだった。
でも、それじゃ間に合わない。ピアノはそんなに甘いものじゃない。
先生の言ってる事も理解できるだけに、やるせなかった。
私、本当は18歳だったんです。
だから、そういうの今更なんです、先生。
もどかしさが胸の中で暴れ回る。
下駄箱でスニーカーに履き替え、私はカンカン照りの外へと飛び出した。
私も、青鸞学院生だったら良かった!
林間学校というものがセレブ校にあるかどうかは謎だけど、あったとしてもきっと練習させて貰える。
そんな子達との差は、縮まるどころか開いていってしまうんだ。
子供特有の視野の狭さで、そう決めつける。
その時の私は、ずいぶんへこんだ顔をしていたんだと思う。
家の近くの通りまで帰ってきたところで、黒のセダンが隣に並んだのにも気がつかなかった。
「――ましろ? やっぱり、そうだ」
ハッと顔をあげて辺りを見回す。すぐに、後部座席の窓から顔を出した紅様とばっちり目が合った。
どうしてこんなところに!?
驚きのあまり、転びそうになった。
「おいおい、大丈夫か?」
路肩に停められた高級セダンから、紅様が降りてくる。
なんというタイミングで現れるんだ、この人は!
思いっきりガードレールで顔面を強打するとこだったじゃないか。
「大丈夫じゃないよ!」
「お前がボーッと歩いてるからだろ。もっと周りに注意しながら歩かないと」
普段ならなんてことない紅様の一言に、ぐっさり刺される。
どうせぼんやりですよ。ええ、そうですとも。
「紅くんには関係ない。私のことは、ほっといて!」
強く睨みつけながら言い捨て、その場を離れる。
ところが紅様は、行かせまいと私の腕を強く引いた。
弾みで後ろに倒れ込んでしまう。
お腹に回された腕にどぎまぎした。
紅様は顔色ひとつ変えず、慣れた手つきで私をまっすぐに立たせた。
「び、びっくりした!」
「悪い、加減を間違えた。……どうしたんだよ。何かあったのか?」
怪訝そうな瞳に、心配の色が浮かんでいる……ようないないような。
いや、きっと気のせいだ。
私が打ち明けたら、そのネタでからかおうとでも思ってるんだろう。
「なんにもないよ」
「はあ……嫌われたもんだな。最初はあんなにキラキラした目で、俺を見てたのに」
「誰のせいだ、誰の!」
図々しい台詞に思わずツッコんでしまう。
ただでさえ暑いのに、今のやり取りでドッと疲れた。もう無視して帰ろ。
さっさと踵を返そうとする私に、紅さまは楽しげに言葉をかけた。
「うちに置いてあるグランドピアノ、ベーゼンドルファーなんだよ、知ってた?」
べ、ベーゼンドルファー!?
唐突に話題が変わったことより、断然ピアノが気になる。
私はゴクリと喉を鳴らした。
オーストリアのピアノメーカーが作るグランドピアノは、生産台数が多くないこともあって、あまり国内には出回っていない。もちろん私も、弾くどころか目にしたこともない。
「真白がきちんと話をするなら、好きなだけ弾かせてあげる。……ほら、どうするの? 俺は蒼と違って、それほど気は長くないんだけど」
「お、お邪魔させて下さい!」
紅様に向き直り、ぺこりと頭を下げる。
なけなしのプライドは側溝の中へ叩き込んだ。
だって、ベーセンドルファーだよ? 『ウィーンの宝』だよ?
満足そうに口の端を上げた紅様は、まさしく紅い悪魔だった。
魅惑的な容姿で甘い言葉を操り、狙った獲物を堕落させる。
「じゃあ、乗って。――水沢、あとで真白の家に電話しといて。暗くなるまでには帰すって」
「かしこまりました」
理由は聞かず、即答なの怖い。
あと、なんで家の番号知ってるんですか、水沢さん……。
連れて行かれた成田邸は、城山邸とはまた違う趣を持つ豪邸でした。
玄関前に円形の車寄せスペースがある時点で、ホテルかな? って感じだし、更にその前には噴水がある。
車庫なんて、笑っちゃいそうなほど横に長い。中には高級外車がずらりと並んでるんだろう。
「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」
玄関前で待機していた執事スタイルの壮年の男性が、品のあるバリトンで紅様を迎えた。
お、お坊ちゃま!?
ぐふっ、と喉が鳴る。
肩を震わせる私を見下ろし、紅様は端正な顔を歪ませた。
「笑うな。あと、田宮。その呼び方はやめろって言っただろ」
「申し訳ございません、紅様」
噛み付く紅さまを軽くいなした執事さんは私に目を留め、おや、と首を傾げる。
「珍しいですね。紺お嬢様以外の女性をこちらにお連れになるとは」
「余計な話はいい。しばらく二階の音楽室にいる。適当なところで茶菓子を運ばせてくれ」
「かしこまりました」
一礼した執事さんに、私もお辞儀をした。
「初めまして、島尾 真白といいます。紺さんと同じピアノ教室に通っています。今日は突然お邪魔してすみません」
精一杯かしこまって挨拶する。
「……田宮と申します。ご丁寧なご挨拶、痛み入ります」
田宮さんは一瞬驚いたものの、嬉しそうに頬を緩め、きちんと挨拶を返してくれた。
「行こう」
紅様は私の腕を取り、すたすたと歩き始めた。
彼にはしょっちゅう引きずられてる気がする。
そのうち、首にリードをつけられるんじゃないだろうか。
二階へと続く大きな螺旋状の階段を昇りながら、紅さまは小声でこぼした。
「田宮の驚いた顔、久しぶりに見た」
「あ、やっぱり! びっくりしてたよね。私の挨拶、変だった?」
「いや。……多分、今まで俺の周りにいなかったからだと思う。使用人にまで自己紹介した子は、真白が初めてだよ」
「お邪魔した先のお家の人に挨拶するの、普通かと思ってた。類は友を呼ぶのかな?」
わざと意地悪なことを言ってみる。
「そうかもね」
紅さまはまっすぐ前を向いたまま、寂しげに微笑んだ。
時々、彼はこういう表情をする。
何もかも諦めたような、自分だけが除け者にされてるみたいな顔。
そのたび私は、何とも言えない気分になる。
紅様には是非、常に尊大な態度でいてほしい。
正体不明のこの感情に、チクチク苛まれるのは嫌だ。
「ほら、ここだ」
毛足の長い絨毯が敷き詰められた幅の広い廊下を歩かされ、ようやく部屋に着いた。
レッスン室と同じ感じの重い扉の前で立ち止まり、紅様は力を込めてドアレバーを押し下げた。
そういえば、音楽室って言ってたっけ。
三十畳ほどの広い部屋に入ってすぐ、立派なグランドピアノと沢山のヴァイオリンがかかってる壁が目に飛び込んできた。
なにこれ、すごい! 楽器屋さんみたい!
「ふわぁぁぁ」
言葉にならない感嘆の声が知らないうちに漏れた。
「ははっ……真白、口が開いてるよ」
紅様に笑われたことも気にならないくらい、私は目の前の光景に心を奪われていた。
漆黒のベーゼンドルファーが照明を反射し、艶やかに煌めいている。
「触ってもいい? ねえ、いい?」
セミコンのベーゼンドルファーの前まで進み、私は紅様を振り返った。
セミコンというのは、セミ・コンサートピアノのこと。学校に置いてあるようなグランドピアノは大体このサイズだ。
ちなみにフルコンというのが、フル・コンサートピアノで、一番長いサイズを指す。
ベーゼンのフルコンは弦が2メートル以上あるし、今の私の力ではとてもじゃないけど、弾き鳴らせない。仮に鳴らせたとしても、ホール用のピアノだから、このくらいの部屋だと反響音が大変なことになってしまうだろう。
「はいはい。少し待ってて」
彼は苦笑しながら、グランドピアノの天屋根に手を掛けた。
天屋根を開けないとピアノ本来の響きが出せないと分かってはいるものの、物凄く重たいはず。
だ、大丈夫かな?
ところが紅様は涼しい顔で天屋根を持ち上げ、支え棒の先端を皿状の部品に収めた。
「すごい……。そうだ、紅くん。紅くんって今、身長何センチ?」
「ん? そうだな、160くらいか」
「まじか……」
私とは15センチも違うことになる。
細く見える腕だけど、こんなに重たい屋根を一人で持ち上げられるんだから、かなり筋肉質なのかもしれない。
これで10歳とかないわ。
「どうして引くの。ここは俺に見惚れるところじゃない?」
「紅くんみたいな小学生、やだよ」
「嫌、か。……ほんと、真白って面白い」
何故か紅様は上機嫌になった。
この人実は俺様じゃなくて、マゾっ気があるんじゃないかな。
……更に怖い。
「雑談はこの辺にしとこうか。さあ、どうぞ。お手並み拝見だ」
紅様は部屋の隅から折りたたみ椅子を持ってくると、ピアノから適度な距離を取り、悠々と腰を下ろした。
プレッシャーをかける腹づもりだとしたら、お生憎様。
亜由美先生のレッスンで慣れてるもんね。
椅子の高さを調節した後、ピアノの前に座る。
鍵盤の上に軽く指を置き、ドの音を押し込んでみた。
華やかな響きが空中に拡散する。音は僅かな余韻を残してふわりと消えた。
音の立ち上がりが早いスタインウェイと比べて、少し遅れる感じ。
でもその分、深みのある音が出る気がする。
軽やかなタッチのショパンより、ブラームスやベートーヴェンあたりと相性良さそう。
私は音階練習でしばらく指慣らしをし、改めて鍵盤に手を置いた。
ベーゼンさん、ちょっとだけ付き合ってね。
――ブラームス16のワルツより第15番変イ長調
今ちょうどレッスンを受けている曲だ。
甘い主題が形を変えながら何度も現れる、二分弱の短い曲なんだけど、華やかな雰囲気が気に入ってる。
……ああ、やっぱり鍵盤が重い!
うちのアイネちゃんでは綺麗に響くところも、なかなか上手くいかない。
ほんの少しだけテンポを落として、タッチを強めに替える。
荒々しくならないように気を付けながら、最後まで弾いた。
鍵盤からそっと指を放し、余韻を味わう。
うん、でもすごく素敵! 大人になったら、改めてきちんと弾いてみたいな。
乾いた拍手に我に返る。
ああ、そういえば紅様、いたんだっけ。
「……なかなかやるじゃないか、真白」
紅様は手を下ろし、挑むような眼差しで私を射抜いてきた。
瞳に浮かんでいるのは、驚愕と、疑惑?
「ありがとう。でも、紺ちゃんと比べたら月とスッポンだけどな、って続くんでしょ?」
先回りして彼に言われそうな台詞を吐く。
紅さまは唇を弓なりにカーブさせた。
「現時点ではな。……お前、何者なんだよ」
昔、亜由美先生の家のサロンで言われた言葉と同じ。
だけどあの時とは、ニュアンスが全く違った。
今の紅様は、真剣に問いかけていた。
外見と中身がちぐはぐなことに、薄々勘付かれているんだろうか。
でも何て説明すればいいのか、私には本当に分からなかった。
転生なんて馬鹿げた話、とてもじゃないけど信じて貰えるとは思えない。
それでも、ここは真摯に答えなきゃいけない気がした。
「ピアノが本当に好きなだけの一般人だよ。私は紺ちゃんも大好き。これだけは信じて欲しい。私が紺ちゃんを害することはありえない」
だって唯一の転生仲間なんだから。
紅様はしばらく考え、やがて肩の力を抜いた。
「そうか、分かった。……ねえ、真白。初見できる?」
「ん? まあ、簡単なものなら」
突然何を言い出すのだろう。思わず首が傾いてしまう。
彼は立ち上がり、壁に備え付けられた書架から一冊の楽譜を取り出した。
「一時間あげる。おおまかでいいから、音を拾ってみろよ」
渡された楽譜は、クライスラーの『愛の悲しみ』という曲だった。
どうやら、ピアノとヴァイオリンの二重奏らしい。
パラパラと楽譜をめくって、ざっと目を通してみる。
そこまで難しい技法は使われてないみたいだけど、流石に一時間では無理!
「私にはまだ早いよ、これ」
紅様はピアノの譜面台に置いてあった赤鉛筆を手に取り、楽譜に書き込みを始めた。
難しい音を消し、簡単なアレンジに変えていく。
あっという間に、楽譜は赤だらけになった。
「これならどうかな」
「……これなら、なんとか」
私は内心舌を巻いていた。
かなりの音楽知識がないと、紅様が今やってみせたような真似は出来ない。
外してしまうと曲が成り立たなくなる大切なフレーズは丸ごと残し、レベルを落として弾きやすい曲に編曲するだなんて。
しかも、即興だよ? 一音もピアノで確認してない。
「俺がいたら邪魔だろうから、いったん外そう。真白、一時間だよ?」
念を押された瞬間、扉が鈍く鳴る。
控えめなノックに紅さまは「入って」と答えた。
田宮さんが、飲み物と茶菓子をお盆に載せて入ってくる。
スライスオレンジを浮かべたアイスティーと、クッキーだ!
思わずごくりと喉がなる。
「……真白は、花より団子だね」
うっ。そんなに分かりやすい顔してたかな。
恨めしげに紅様を見て、私は驚いた。
いつもの取り繕った完璧な笑顔じゃない。
紺ちゃんに見せるような優しい表情を浮かべて、紅様はくすくす笑っていた。
胸がきゅんと音を立て、高鳴る。
なにときめいてんの、馬鹿じゃない!?
ぐっと拳を握り、揺れる心を立て直す。
「休憩してもいいけど、ちゃんと練習するんだよ」
「はーい」
「返事を伸ばすな」
「はい!」
お決まりのやり取りの後、紅様と田宮さんは音楽室から出て行った。
テーブルの上に置かれたクッキーを早速つまむ。
サックサクで美味しい。バターの芳醇な甘味が口中を満たす。
喉も乾いていたので、大きなアイスティーのグラスを手に取った。
氷が立てる涼しげな音に目を細めつつ、ストローを咥える。
――なにこれ、めちゃくちゃ美味しいんですけど!
誰も見ていないのをいいことに、一気に飲み干しプハーッと大きく息を吐いた。
ふう、すっきりした。
よっしゃ! 譜読みしますか。
抜かりなく準備されていたおしぼりで、丁寧に指を拭き、ついでに口の周りも拭いておく。
口に食べ屑なんてつけてたら、紅様に盛大に笑われてしまう。
LIEBESLEID(愛の悲しみ)は、クライスラーが作曲した「愛の喜び」と対になっている二重奏曲だ。
楽譜を見るのはこれが初めてだけど、CDを聴いたことはある。
イ短調の三拍子。民族舞踊を思わせるリズムに切ないヴァイオリンの主旋律が乗ってくる。
まずは弾きにくいところをすっ飛ばして、全体を掴む。その後、細かい部分練習をした。
紅様がどういうつもりかは分からないけど、他の楽器と合わせる時に一番重要なのは「途中で止まらない」こと。
ミスタッチをしても演奏自体は止まらないよう、何度も通してみる。
大体仕上がったかな、というところで、テンポを計ってみることにした。
メトロノームを手に、はた、と止まる。
指示テンポの部分には『Tempo di Landler』と記されてた。
レントラーって、なんだろ?
分からなかったので、CDで聞いたことのある速さを真似してみることにした。
何とか躓かず弾けるようになった頃、紅様が戻ってくる。
「どうだった?」
「ノーミスには程遠いけど、そこそこは弾けるようになったよ。……あ、ねえ。コレどういう意味?」
楽譜を見せようと腰を浮かす。
紅様は、立たなくていい、と身振りで示し、私のすぐ脇に立った。
楽譜を見る為、腰をかがめて顔を寄せてくる。
緊張なんてしたくないのに、勝手に体は強張った。
「レントラーってのは、南ドイツで昔踊られていた民族舞踊のことだ。Cの部分にpoco meno mossoの指示があるだろう? ワルツより、少し遅めに揺らしながら弾けばいい」
「そ、そっか。なるほどね、ありがとう」
ドキドキしたことに気づかれたくなくて、早口になる。
「じゃあ、早速弾いてみるね」
「いきなり? ある程度すり合わせてからにしよう。俺が先に弾くから、まずは聞きながら楽譜を追ってみて」
なんだ、私の初見能力を試したいわけじゃなかったんだ。
やっぱり、合奏しようというお誘いだったのか……。
随分前、コンサートに行った時には「賞を取ったらな」とかなんとか言ってた癖に。
今日の紅様は少し変。
私が胡乱な目付きでじろじろ眺めているのに気がついたらしく、紅様はヴァイオリンの準備をしながら、こちらを振りかえった。
「なに、緊張してる? それとも、惚れ直した?」
「まさか! もう惚れてないですよーだ!」
「それ、前は惚れてたって認めてるじゃないか」
おかしそうに笑いながら、紅さまは手際よく調弦を済ませていく。
まるで私に好きじゃないと言われるのが、嬉しいみたいだ。
「――お待たせ。じゃあ、弾くね」
背筋をすっと伸ばし、紅さまがヴァオリンを構える。
それだけでものすごく絵になる。私は息を飲んで、彼に見入った。
『ボクメロ』で何度も出てきた演奏スチルの紅様を、そのまま幼くした感じ。
一気に当時の気持ちが蘇り、泣きそうになった。
紅様のこと、大好きだったなぁ。
ほんと、バカみたいに好きだった。
弓を弦に軽くあて、紅様はおもむろに弾き鳴らし始めた。
クライスラーは彼自身もヴァイオリニストだったこともあり、特にヴァイオリンが魅力的な曲をいろいろ生み出している。
『愛の悲しみ』を弾きこなすにはポジション移動、ヴィブラート、ハーモニクスなどある程度のテクニックが必要だ。中でも難しいのは、一番最後の音、ハイポジションのハーモニクス。
紅さまは難なく音を当ててたけど、途中のCからAへの6度の上行音型の部分なんてかなり難しいはず。
……はっきり言って、ものすごく上手い。
紅様ならもっと難しい曲だって弾けるはず。そう思わされた。
彼がヴァイオリンを下ろすのを待って、手を叩く。
紅様は気障な仕草でお辞儀を返した。
「どうも。大体は掴めたかな? もう時間が遅いから、一回だけ合わせて終わりにしよう」
うわ~、一発勝負なの!? これは失敗できない。
ううん、失敗したくない。
紅様のヴァイオリンはすごく素敵だった。何とか足を引っ張らずに、彼の音色を広げたい。
ドキドキしながら鍵盤に手を置き、紅様の合図を待つ。
初めの一音の呼吸に合わせ、ピアノパートを奏で始める。
しっとりと柔らかなヴァイオリンは、哀愁を帯びて美しく響いていった。
ああ……駄目だ。
紅様の完璧なフレージングを引き立てるどころか、破壊してる気がする!
ヴァイオリンの最後の一音が消え、部屋に静寂が戻る。
嫌味を言われる前に先に謝っちゃえ!
「ボロボロだったね! ごめん!」
椅子から立ち上がり、勢いよく頭を下げる。
ところが紅さまは、何も言ってこなかった。
……あれ?
恐る恐る顔をあげてみる。
彼は、何故か困惑しきった表情で私を見つめていた。
「……紅くん?」
「あ、いや。――そうだな。ボロボロだったな」
紅様はすぐにいつもの皮肉な笑みを浮かべ、肩をすくめた。
さっきの、何だったんだろ。
「うん、またリベンジしたい! この楽譜、借りてもいい? アレンジなしの原曲にも挑戦してみたいから」
「その楽譜はあげる。付き合わせた礼にはならないだろうけど」
なんという太っ腹!
単純な私は、それだけで舞い上がってしまった。楽譜を胸に抱いてお礼を述べる。
「……そうしてると普通なのに」
紅さまはほろ苦く顔をしかめ、ぼそりと呟いた。
「ん? なに?」
悪口の気配を察知し、聞き返してみたんだけど、紅様はゆるく首を振るばかりだった。
それから水沢さんの運転する車に乗せられ、家に帰るまでの間ずっと。
私の耳の奥には、紅様のヴァイオリンが歌う『愛の悲しみ』が流れ続けていた。




