スチル9.いつか弾く曲(蒼)
待ちに待った日曜日がやってきた。
以前買ってもらったお気に入りのワンピースに袖を通す。
髪の毛はお姉ちゃんがヘアアイロンでくるくるに巻いてくれた。
サイドの髪だけ編み込んでスッキリさせ、眉毛を綺麗に整えたり、まつげをビューラーで上げたり。
ヘアメイクさんのように張り切ったお姉ちゃんが、ようやく私から離れる。
「よし、完成! どう、どう?」
鏡の中には、花香お姉ちゃんそっくりな私がいた。
「真白、すっごく可愛いよ。父さーん、写真、写真!」
普段はギャルっぽい恰好をしているお姉ちゃんも、今日はクラシカルな薄い桃色のワンピース姿だ。
上品なフレンチスリーブに、ネックホルダーのリボン。
ピンク色の髪も相まって、花の妖精みたい。
「2人とも可愛いな~」
父さんは手を叩いて喜び、カメラを取りに行った。
家族揃ってのクラシック鑑賞に、みんな浮き足立っている。
「ね、せっかくお洒落したんだから、全員で撮ろうよ」
姉の提案に、私も賛成した。
父さんは仕事で毎日スーツを着てるけど、母さんのスーツ姿なんて私の入学式以来だ。
全員でリビングを片づけ、ソファーに座って、身を寄せ合う。
父さんはファインダーを覗いて角度を調整し、自動シャッターのスイッチを押した。
「これ、何秒でシャッター切れるの?」
「確か10秒だったような……」
「はやっ」
「いいからみんな、前を向いて、――あ」
パシャ。
騒いでいるうちにシャッター音が鳴る。
父さんが見せてくれたデジタルカメラの画面には、賑やかに笑い合ってるいつもの私たちが映っていた。誰もカメラの方を向いてない。
「どうしよう。まだ時間あるし、撮りなおそうか?」
父さんが言うと、お姉ちゃんは満面の笑みを浮かべ首を振った。
「ううん、これがいい。これが、いつもの私達だもん。最高だよ」
お姉ちゃんのしみじみとした言い方に、きゅう、と心臓が痛くなる。
こんなこと、昔にもあったような――。
あと少しで思い出せそうなのに、何かが重石になって上手く再現できない。
もどかしい既視感に、私は胸をきつく押さえた。
少し早めに出たので、劇場の駐車場はまだ空いていた。
沢山の高級車の間に、うちの国産車がちんまり納まる。
もう10年は乗っている父さんの愛車は、古いんだけどピカピカだ。物を大事にする父さんは、休みの日の洗車を欠かさない。
並んで歩く私と姉の後ろに、手を繋いだ両親が続く。
これもいつもの家族風景だ。
「あ、あの子、蒼くんじゃない?」
母さんが声を上げたので、視線の先を辿ってみる。
ホントだ。紺ちゃんと蒼くんが珍しく2人でホールの前に立っていた。
「あの子がよく家に来てるっていう真白のボーイフレンド? よし、お姉ちゃんも挨拶しておきますか!」
「じゃあ、父さんも――」
「父さん達は、先に行ってて!」
私は慌てて父さんを止めた。
親バカな父さんが何を言い出すか分からないし、家族全員で蒼くんに挨拶するのは、なんだか憚られたのだ。
私がそんなことを気にしてるって知ったら、余計に蒼くんは傷つきそうだけど。
「真白ったら照れちゃって。じゃあ、券を渡しておくから、席で落ち合おう。混雑してるし、迷子にならないようにしてよ」
「了解!」
元気よく返事をしたお姉ちゃんは、母さんからチケットを受け取ると、自然な仕草で私に渡した。
しっかりポーチの中に入れ、チャックを締める。
両親はそんな私達を見て、苦笑した。
「花ちゃんは、すぐ真白に頼るんだから」
「万が一、失くしたら恐いもん。真白はしっかりしてるから、安心なんだよ」
「確かに、真白はしっかりしてるよな」
何故か得意げなお姉ちゃんに、父さんが真面目な顔で相槌を打つ。
家族バカな2人は今日も健在だ。
「紺ちゃん、蒼くん!」
近くまで行って声を掛けると、2人は同じタイミングでこちらを振り向いた。
真っ白なひざ丈のワンピースを優雅に着こなしている紺ちゃんは、高いヒールのサンダルもあって小さな女優さんのよう。
蒼くんは、ライトグレーのサマースーツを着て、シックなドット柄のネクタイを締めている。
しかも、ヘアワックスで少しだけ髪を後ろに流していた。
大人びた格好よさが眩しくて、私は何度も瞬きを繰り返した。
「ましろちゃんだ!」
「真白!」
私の姿を認めるなり、二人とも全開の笑顔になったもんだから、お姉ちゃんは驚いたみたいだった。
それでも気を取り直し、滅多に見せないよそ行き顔で挨拶する。
「初めまして、ましろの姉の花香です。いつも妹がお世話になってます」
「城山 蒼です。こちらこそ、真白さんにはいつもよくして頂いてて」
「……ピアノ教室でご一緒させてもらってます。玄田 紺です。今日はお会い出来て嬉しいです」
あれ? 心なしか、紺ちゃんの表情が硬い。
どうしたんだろう。体調が悪いのかな。
「ましろと仲良くしてくれて、ありがとう。これからも、不肖の妹をどうぞよろしく!」
私が口を開く前に、姉が普段のテンションに戻り、明るく片目をつぶった。
不肖という単語を最近覚えたお姉ちゃんは、タイミングよく使うことが出来て非常にご機嫌だ。
ドヤ顔が可愛い。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
蒼くんはいきなり飛んできたウィンクにも動じず、爽やかに答えた。
紺ちゃんは青ざめた顔のままペコリと頭を下げる。
「せっかくだし、始まるまでお喋りしたいよね。先に父さんたちのところに行ってようか?」
「チケット私が持ってるし、一緒に行くよ。――休憩の時にまた話せる?」
前半はお姉ちゃんに、後半は2人に向かって話しかける。
「そう出来たら、嬉しいけど……」
蒼くんは、ちらりとお姉ちゃんの方を見た。
家族で来てるのに邪魔しちゃ悪いかな、なんて心配してるんだろう。
そういういじらしいところが、可愛くて仕方ない。
さっきから俯き加減の紺ちゃんも気になるし、私は大丈夫だと請け負った。
「せっかく会えたんだし、もっと話したいよ。紺ちゃんとも!」
「うん。私も真白ちゃんと話したい」
紺ちゃんは顔を上げ、ようやく微笑んでくれた。
「じゃあ、一階の休憩スペースで会おうね」
待ち合わせの場所を決めてから、今度こそ2人に別れを告げる。
紺ちゃんの瞳は私ではなく、花香お姉ちゃんをずっと追っていた。
とびきりの特等席に、父さんたちは興奮していた。
すごい! と口だけを動かし、ねー! とジェスチャーで喜びを表現する。
まだ演奏始まってないし、喋ってもいいのに。
照明が落ちるのを待っている間、いつもはお喋りな家族がじーっと黙って待っているのが、嬉しくて愛おしかった。
やがて辺りが暗くなり、人々のざわめきもボリュームのダイヤルを回したみたいに静かに消える。
すでに準備を済ませていたオーケストラメンバーの前に、指揮者が現れ、続いてソリストが現れた。
盛大な拍手の後、いよいよ演奏が始まる。
壮大なオーケストラの音に対し、一歩も引かず、煌めく音色を響かせるグランドピアノ。
羨望の眼差しで見つめてしまうのが、自分でも分かる。
――いつか、私もあそこに立ちたい。
私はグッと奥歯を噛みしめ、強い決意を胸の内側で燃え立たせた。
一番手を務める青年が舞台袖から姿を現す。
彼が演奏したのは、モーツアルトのピアノ協奏曲第21番だった。
紅様のお気に入りのコンチェルトだ。ピアノの華やかなアルペジオが鮮やかに浮き上がる。確かな演奏技術に支えられた、そつのない演奏だった。
紅様の感想がちょっと気になるな。
二番手が、亜由美先生だ。
先生の演奏の後、30分の休憩を挟んで、残りの2人が演奏する。
パンフレットに挟まれたアンケート用紙には、一番良いと思ったピアニストを書く欄がある。
そんなの、うちの先生が一番いいに決まってるし!
信じていても緊張してしまい、胸が苦しくなった。
亜由美先生、頑張って!
隣を見ると、お姉ちゃんまで真剣な表情で拳を握りこんでいる。
真紅のロングドレスを纏った先生は、登場しただけで聴衆の溜息を誘っていた。
普段から綺麗だけど、今日はとびきり美しい。
ピアノの前に座った先生が、指揮者に向かって軽く頷く。
指揮者が指揮棒を振り上げた次の瞬間――。
ホルンが高らかに鳴り響き、力強い鐘のようなピアノの音が鳴り響いた。
最初の音で、全身に鳥肌が立つ。
力強さと優雅さの両方を兼ね備えた音の連なりが、表情豊かに情景を描き出していく。
私は、なんて凄い先生に教えて貰ってるんだろう。
激しい感動で、頭の芯がじーんと痺れた。
先生は、さざ波を思わせる繊細さでピアノを鳴らしたかと思えば、華やかな高音で鋭く空を切り裂いた。
鋭いのに、割れていない。響きはあくまで澄み切っている。
勝手に浮かんでくる涙をハンカチで押さえながら、私は夢のような40分を過ごした。
休憩に入り、ホールに明かりが戻る。
両親は魂が抜けたように、椅子にもたれている。
お姉ちゃんは、拍手のし過ぎで腫れた真っ赤な掌をさすっていた。
「……はあ。すごい、としか言いようがないな。父さん、感動しちゃったよ」
「母さんも……。今の曲、また聞きたい。真白、CD持ってる?」
「持ってるよ! 貸してあげる。でも先生の演奏とはまた違うから、先生バージョンのCD欲しいな」
「それなら、帰りに物販に寄ろうか」
亜由美先生は、クラシックを初めて聴いた三人まで、あっという間に虜にしてしまった。
音楽の力ってすごい。
いつか私も、私のピアノで皆をうっとりさせてみたい。
「じゃあ、ちょっと友達のところに行ってくるね」
「分かった。5分前には戻ってくるんだぞ」
気もそぞろに頷き、私はホールを出た。
もうほんっと、凄かった、凄かった、凄かった!!
この感動を早く、紺ちゃんと分かち合いたい!!
早足で待ち合わせのロビーに向かう。
ところが休憩所のソファーには、蒼くんしかいなかった。
「あれ? 紺ちゃんは?」
「それが、急に具合が悪くなったみたいで、紅に引っ張られて帰ってったんだよ。喘息なのかな。ひどい咳してた。マシロに会ってから帰る、って言い張ってたんだけど、紅が怒ってさ」
「ええっ!? 大丈夫かな……。そういえば、会った時もちょっと顔色悪かったよね」
「んー、そうだったっけ? ゴメン、真白しか見えてなくて気づかなかった」
言うと思った。
もう驚かないぞ。蒼くんは素直な子なんだ、うん。
「蒼くんは、一人で来てるの?」
「いや、祖母と一緒。あと今の母さんと、そっち側のいとこも。あいつらイチイチうるさいから、本当は来たくなかったんだ。だから余計、マシロに会えて嬉しかった」
「そっか~。いとこさんは、いくつなの?」
「俺らと同い年だよ。普段はイギリスにいるんだけど、たまたま帰国してるんだ。めちゃくちゃ高飛車で、生意気なやつ」
「本人のいないところでの悪口、良くないです」
「ごめん……。もう言わないから、ちょっとだけ、充電。だめ?」
蒼くんは縋るように私を見つめてきた。
本当に気疲れしてるのかもしれない。
「分かった。……はい」
蒼くんの言う充電とは、握手のことだ。
私が右手を差し出すと、彼は嬉しそうに自分の手を重ね、ぎゅ、と握りしめてきた。
チェロを専攻しているという蒼くんの手の平や指は、大きくて固い。
ただ手を繋いでいるだけなのに、どうしようもなくドキドキした。
「今日の真白、いつもと雰囲気違うよな」
「髪型かな? お姉ちゃんがしてくれたんだよ」
「そっか。いつもの真白は可愛いけど、今日の真白は大人っぽくて、ちょっと焦る」
蒼くんは長い睫を伏せ、こてん、と私の肩に額を当てた。
手は繋いだままだし、流石に恥ずかしくなる。
「あのー……そろそろ、いい?」
ひとけの少ない一角だとはいえ、誰もいないわけじゃない。
少し離れたソファーで休憩している白髪の老婦人は、目を細め、微笑ましげにこちらを見ている。
かあっと頬が熱くなった。
「あと少しだけ。なあ……真白も、ピアニストになりたいんだよな?」
唐突に尋ねられる。
思い詰めた声の響きに驚いた。
私におでこをくっつけているものだから、蒼くんが今どんな顔をしているのか分からない。
『も』ってどういう意味? 紺ちゃんのことかな。
「いつか、真白もピアノだけが大事になって、俺のこと、邪魔に感じるようになるのかな」
「……は!? そんなわけないじゃん!」
急に何を言い出すんだろう。
あんまり驚いたので、大きな声が出てしまった。
慌てて口を噤み、声のトーンを落とす。
「生きて傍にいる人より大切なものなんて、この世にはないよ。たった一人でピアノを弾いて、何になるの? 大事な友達だと思ってる人に、そんなこと言われる方が悲しい」
蒼くんはいつの間にか顔をあげ、唖然とした表情で私を見つめている。
「もう言わないで。もちろんピアノは好きだし上手くなりたいけど、蒼くんと比べられるものじゃない。そんなに自分を小さく扱わないでよ」
「……俺が、大事?」
まるで自分に問いかけるように呟き、彼は瞳を歪めた。
みるみるうちに薄い膜が張り、今にもこぼれてしまいそうだ。
ハッと我に返り、急いで謝った。
「ごめん、言い過ぎた。……本当にごめんね」
何を熱くなってるんだろう。
先生の情熱的なピアノを聴いたばかりで、気持ちが昂ぶっているのかもしれない。
蒼くんは首を振り、ぐい、と袖で目元を拭った。
「いいんだ、俺が変なこと言った。真白は真白なのに。あと……ありがと」
「私は私って、どういう意味?」
「んー。……やっぱり、俺は真白が大好き、っていう意味」
蒼くんはやんちゃな笑顔で言い切った。
「大丈夫、真白的にはただの友達だって知ってるから、警戒しないで」
続けて彼はそんなことを言う。
蒼くんを可愛いと思ってるし、辛そうな顔は見たくない。
だけどやっぱり、この穏やかな感情が異性に対する恋愛感情だとは思えなかった。
「大事な、が抜けてるよ」
わざとしかめ面を作って答えると、蒼くんは声を立てて笑った。
◇◇◇
本日の主人公の成果
攻略対象:城山 蒼
イベント:君がいれば幸せ
クリア




