淵からの目覚め
「っふぁ゛!?」
自らの涎で窒息しかかっていた千寿流が勢いよく目を覚ます。
「や、おはよ、千寿流ちゃん。どう、お目覚めは?なんか苦しそうだったけど、面白そうだったからつい見守ることにしちゃったよ」
「っげほ!ごほっ!うぅう、あんまりよくないよぉ。うえ、口の周りなんか濡れてる。なにこれ汚いなぁ」
咽ながら夜深のほうを向いてそう返事をした。
それは自身の唾じゃないかな、と内心ツッコミを入れるが口には出さなかった。もちろん理由は面白いからである。
どうやら、千寿流が死の淵を彷徨う原因になったあの少女については、すっかり忘れてしまっている様子だった。
千寿流がエアポケから出した箱ティッシュで汚れた口を拭いていると、気になった夜深が声をかける。
「それってエアポケット?あの漫画家の宇崎陽星が開発したやつだよね。千寿流ちゃんってもしかしてすごいお金持ちだったり?」
「どうして?」
千寿流が肩から掛けているのは、かわいい熊の顔を象ったポシェット型のエアポケット。
エアポケットとは、厳密には物質屈折変態現象を取り入れて造られた収納バッグのことであり、早い話が、その外見からは考えられないような様々なものを出し入れできる、四次元的な解釈で造られている。
見た目は直径二十センチ程度の子供用のポシェットでも、入り口を通るサイズの物であれば日用品など一通りは問題なく収納でき、かつ重量も感じさせないように設計されている夢のような道具だった。
ただ、一般の家庭で育ったであろう一少女が持つことのできるような、安価なものではないという点だけが気になった。
「へ?ああ、これ、あたしにもよくわかんないんだよね。パパかママが買ってくれたんだと思うけど、あんまり覚えてないや。え、もしかして夜深ちゃん、これほしいの?」
「いや、別にいらないよ」
夜深の言いたいことがいまいちよく理解できない千寿流。
彼女が首をかしげながら立ち上がるとそこは地獄絵図。魔獣から溢れ出した血が飛び散って、何が起こったのか目を背けたくなる惨状が広がっていた。
「な、なに、これ?」
思わず尻もちをつきそうになる気持ちを堪えてそう夜深に訊ねる。
「ん、ああ、そうだよね。このままじゃ君が驚くと思って本当はきれいに掃除をしておいてあげたかったんだけど、さすがにきれいに血を拭きとるなんてできなかったよ。あはははは」
あたしが眠っちゃっている間に何があったんだろう。というか、どうしてあたしはこんなところで眠っちゃっていたのかわけが分からないよ。夜深ちゃんに聴いても多分教えてくれないし、シャルちゃんは。
「シャルちゃんは!?」
「千寿流ちゃん……」
シャルちゃんの事を訊ねると夜深ちゃんはすごく悲しそうな顔をした。
ということはシャルちゃんに何かあったんだろうか。
もしかしてシャルちゃんに何かあったから、あたしは気を失っていたのかもしれない。
そして辺りに飛び散った血の跡。よく覚えていないけどあたしが気を失う前はなかったはずだ。
「夜深ちゃんっ!」
千寿流は夜深に詰め寄りジャケットを掴み問いただそうとした。その時――
「ち~ず~る~!お~~い!」
遠くから両手を振りながらこちらに駆けよってくるシャルを見つけた。どうやらシャルは千寿流が目覚めたときに喜んでもらおうと、一足先にクラマの行方を求めて辺りを見回っていたようだ。
そのまま勢いよく千寿流に抱きついて力強く抱きしめる。
「えへへへ!よかった!ちずるが たすかって ほんとうに よかった~!」
「あれ、えっと、えひひひ、うん!」
千寿流は一瞬驚きの表情を浮かべた後、すぐに笑顔を浮かべシャルを抱きしめ返した。
これからまだまだいろいろな困難が待ち受けているかもしれないけれど、きっと二人なら大丈夫だと、何とかなると、そうもう一度心の中に強く思うのだった。
エアポケについては話が開いているので再度解説いれました。




