わたしと雪と沙希
洞窟の入口は思ったよりも暗く、そして予想以上に低く鋭い空気が流れ込んできた。雪原とはまた違う、種類の違う冷たさが剥き出しの肌を裂くように撫でる。洞窟の端には牙のように氷柱がいくつも形成されており、まるで大口を開けた巨大な獣に吸い込まれそうな錯覚を覚える。
気が付けば身体は震えていた。しかし、これは寒いからではない。日常と隔てられた異世界を目の当たりにした興奮。いわば武者震いのようなものだ。
「……ゴクリ」
「おいおい、ゴクリ、なんて声に出す奴初めて見たよあたしゃ」
案の定、すかさずツッコミを入れてきたのは沙希。形式美を初っ端壊してくるのは彼女の十八番だ。“間”っていうモノをまるで理解してくれないのだ。
「ムッキーっ! こういうのは雰囲気が大事なんですよっ、雰囲気がっ! 沙希はそういうロマンっていうモノが、まーるで解っていないんですよ!」
ロマンの欠片もない顔で腕を組んでいる沙希を前に、私はぷんすかと抗議する。
「ロマンで飯が食えるかっつーの。あたしは現実主義なんだよ」
「はぁ、どこが現実主義なんですか。わたしに付いてきてる時点で説得力ないですよ」
その返しに沙希が一瞬むっとしたような顔をして、でもすぐにニヤッと笑った。
「まあ、そう言うなよ。アリシア、アンタといるとあたしはわくわくするんだよ」
「沙希……」
それは嬉しい。素直に嬉しい。沙希はムードーメーカーとは少し違うが、わたしにも雪にも無いモノを持っている。なんだか顔が火照るのを感じる。風邪でないことを祈りたいが。
「あれなー、小学生の頃だったかな? 近所の友だちと集まって、お菓子に付いてきたオモチャを見せ合いっこした時のような、そんな感じが近いかね。いわばアンタはあたしのオモチャってことだよ。ほら、雪もそうだろ?」
はい。照れたわたしが馬鹿でした。
「い、いえいえいえいえいっ! 玩具だなんてっ! そんなハレンチな!」
雪がわたわたと両手を振り回す。耳あてがぴょこぴょこ揺れて、まるで雪ウサギのようだ。その様子があまりに可笑しくて笑いがこみ上げてくる。
「は? ハレンチ? どういう意味って――おいおい、なに想像してんだよ」
「いい、いえ! な、何もっ! そそそ、想像してませんっ!」
「雪はえっちな子ですからねえ。しょうがないですよ」
顔を赤くして抗議をする雪に、わたしはにんまりと悪戯っぽく笑いかけた。ただでさえ上気している顔が、茹蛸の様に真っ赤になる。
「え、えっちじゃないですぅ!」
わたしたちの笑い声が、雪原に小さく響いては、すぐに白い息の中へと溶けていった。日常を冒険に。けれど、わたしたちの本質は結局はこういうところにあるのかもしれない。
くだらないことで笑い合って、ふとした瞬間に胸の奥が温かくなる。そんな日常の断片の積み重ね。だって雪も沙希も、わたしみたいに未知の領域を探索するのが何よりも好き、って性格じゃない。
沙希は楽しければ何でもいいってタイプだし、雪は――
うん。学校で少し嫌なことが続いて、ちょっとだけ逃げてきただけだ。最近、やっと笑ってくれるようになってきた。わたしは雪にもっと、ずっと笑っていてほしい。哀しい思いをするのはわたしだけで十分だ。
沙希はそのことを顔に出すことはないけれど、きっと同じ気持ちなんだって、わたしは思ってる。
「なにアンニュイな顔してんの。らしくないね」
「い、いえ! 二人の事わたしも好きですよって思ってただけです」
後ろ向きでしかなかったわたしに、生きる意味を持たせてくれたのは二人の存在に他ならない。
「雪の事だろ。大丈夫。アンタら二人はずっとあたしの友だちだ。この先どこ行ったってそれは同じだかんな」
沙希が雪に聴こえないくらいの小声で耳打ちをする。ほらね、全部解ってるんだ。
「ほら、そろそろ行こうぜ?洞窟さんが退屈そうに鼾かいてら」
先ほどから洞窟の奥から「ゴォォ」という、低く響く唸り声が聴こえている。雪は目を丸くして洞窟の入り口を凝視していた。
「怖いか?」
「は、はい。けど、大丈夫です。先輩たちがいっしょですし」
雪は振り返りながら笑顔でそう答える。
「さて、じゃあ征きましょうか!」
わたしは息を整えてから、背負っていた鞄からライトを取り出し、カチリとスイッチを入れた。柔らかな光が洞窟の壁を照らし出す。白い氷の層が淡く艶やかに反射して、まるで鏡の世界に迷い込んだようだ。
目の前に広がるのは、未知。血の通う躰で踏み出し、既知へと変えていく。この眼で視た全てが新しく、同時に過去へと変化していく。その移り変わりは言葉で表すことの出来ない、一瞬の美しさが存在する。言葉はいらない。瞳の奥で録画するように一歩、また一歩と踏み進める。
それは未知成す雪洞。冷たくも美しい静寂。誰の足跡もない、暗闇に融けるような真っ白な黒。




