浮かぶのは狂気のような優しさ2
空白。
引き延ばされた感覚は、伸びては縮む輪ゴムのように元の形へと帰結する。
声を発しようにも、口を開き、声に出すという行動に結びつかないまま完結する。思考も感情もそこに在るのに、動いているという感覚を残したまま、“動くことが出来ない”という事実だけが残される。
「おやすみ」
耳元で囁く。夜深の甘い声が、鼓膜をすり抜け脳の内側を這いずり回る。水中で響くように遠いのに、その言葉だけが異様な鮮明さで頭蓋を打ち抜いた。
視界がじわじわと色を失い、駅のベンチも通りすぎる人影も、すべて黒と白の薄汚れた影絵に変わっていく。
否、実際にはそんなことはない。視界はクリアのまま。色彩を失うようなことはない。もちろん、声が聴こえなくなったわけでも、思考することや、それを見て感情を表現出来なくなったわけでもない。
何も変わらない。傍から見ればアキラはアキラのまま。誰も見間違うことなどなく彼のまま。
「あの、鬼竜院さん」
「ああ、これから出勤でしょ。サラリーマンは大変ですね。いつもお疲れ様です」
「いえ、そんなことは。私には守るべき家族がいるので」
この状況に疑問はない。いつもの日常。なんてことない平日の一コマ。ただ、ちょっと路地裏で声を掛けられただけ。アキラは一度頭を下げると、踵を返し立ち去っていくのだった。
夜深は笑っていた。柔和な笑み。だがその瞳の奥では、複数の色がぶつかり合い、罅割れた星雲のように狂気が渦を巻いていた。その輝きは優しさではない。人の心を遊興し、咀嚼し、躯を愛でる者の瞳。
「ふ、ふふふ、くふふふふふふ。ああ、とんだ邪魔が入るところだった。あの子は特別。貴方にはあの子を救えない。大丈夫、僕が最後まで見守ってあげるからさ――だから心配しなくていい。僕は観てみたい。あの子の人生が苦悩と苦難に苛まれ、見るも無惨に、ズタボロになっていく様を観てみたいんだ」
誰もいない路地裏に男の声が木霊する。それは狂気か享楽か。恐らくはどちらの意味も孕んでいるのだろう。独りでに酔い、笑い、踊る。
今回はタイミングが完璧だった。偶々千寿流たちを見つけ、偶々電車という閉じられた空間の中で、障害を摘み取ることが出来た。
けれど反面、別に上手くいかなくとも良いとも思っていた。困難が多い程、その先にある美酒が一入なのと同じ。失敗の後の成功はやはり癖になるものだ。
(でも、でもさ。良いことがあった時は、やっぱり楽しくなっちゃうものだよね)
踊りたいなら踊ればいい。笑いたいなら笑えばいい。感情の抑制はどうにもつまらない。
(だから今は)
そのちっぽけな結末がどうか甘美な物でありますように、ただ祈り、願う。
今はそれが楽しくて仕方がない。
「あ、夜深ちゃん!もー、どこ行ってたの?あたし、探しに行こうとしてたんだからっ!」
夜深の姿を確認し、千寿流が一目散に駆けていく。その満面の笑みは、純粋さと信用のしるし。近衛千寿流は鬼竜院夜深という存在を掛け値なしに信頼しきっていた。
「あれ?探すってなんでよ?」
千寿流の言葉に夜深は首を傾げる。それを見て風太が呆れたように肩をすくめた。
「おら、言っただろ。ハプニングでしかねーってっな。このオッサンにゃ、んな義理はねーんだよ」
「で、でもぉ、あたし夜深ちゃんといっしょにいたいよぉ。どうしても、ダメ?」
千寿流は困り顔を作りながら夜深の瞳を覗き込んだ。アリシアには効果抜群だった必殺の上目遣いである。彼女本人は無自覚ではあるが、この頼み方が有効だったことを本能的に理解していた。
夜深は向けられた眼差しを覗き返す。そこには曇り一つない透明な光があった。
(穢れを知らない輝き。全てが眩しいと信じる純真さ。真贋を見抜けない愚かな眼差し)
罪悪感は無かった。価値観の寸法はいつだって変幻自在。夜深にとっての千寿流。千寿流にとっての夜深。その価値観が普遍なものであるはずがない。彼女の信じる先にあるものが正しいか間違いかなんて、彼女のみぞ知る理なのだから。
夜深は柔らかく笑い返す。口角が吊り上がり、肯定の言の葉を紡ぐ。それは愛しさも友情も何もかもを一飲みにしてしまう大蛇の咢のよう。
きりり。きりり。と、鎌首をもたげる不快でどこか安っぽい音が心音に滲み重なった。
感じるものは一つだけ。狂気と云う名の灰色は、別の色で強く舐るように塗り潰される。
だから、そこにはただ無機質な優しさだけが存在した。




