青い世界
ほんのり甘い匂いがした。鼻をくすぐるようなその匂いにつられて瞼をゆっくりと開く。
「ここは……?」
「おや、おはよう。どう具合は?」
「ん、えと……」
寝ぼけた頭で必死に考えを巡らせる。
頭痛はない。きっとぐっすり眠れたからだと思う。
でも、しこりみたいに頭に何かが引っかかって気持ち悪かった。
何か大事なことがあったような。何か大変なことをしてしまったような、そんな罪悪感が目覚めたばかりの頭を責める。痛くないのになぜか不快感が少しあった。
「ほら、ホットココア。出来立てだよ。あ、目覚めの一杯はコーヒー派だったりしないよね?」
「えと、そのね、シャルちゃんは?」
ふわふわとした感覚。頭を少し掻いた後、立ち上がろうとしたけど体に少し痛みが走った。
仕方がないからそのままきょろきょろと辺りを見渡す。現状を把握するのに数十秒。次第に記憶が鮮明になってくる。
「あ、と、その。あ、あたし、シャルちゃんのこと」
「ああ、それね」
痛みがあることも忘れてやにわに立ち上がる。
そうだ、あたしはシャルちゃんの事を助けられなかったんだ。倒れて、気を失って、だからこんなところで寝ちゃってるんだ。
(??? こんなところ?)
辺りをもう一度見渡してみる。
見慣れない部屋だが、雰囲気からなんとなく命の家内の一室のどこかなんだろうと思った。
「う、痛ぁ」
体中が痛い。重い痛みというわけではなく、軽い筋肉痛のようなものが全身を包んでいるような感じだ。
一応念のためにパジャマをめくり確認してみるも、傷どころか痣のようなものも全く見受けられなかった。
「大丈夫? 痛むなら休んでなよ」
夜深がそう声をかけるが、声をかけられて思い出す。今は自分の心配をしている場合じゃない。
ドアノブに手をかけ、見覚えのある通路を通り、階下へと降りていく。
あの日、シャルを助けることができなかった。途中であきらめてしまった。少しでも考えたら後悔してもし切れない気持ちで圧し潰されてしまうだろうから。
だから、今は痛みに堪え足を動かすことで気持ちを拭い去りたかった。
ベシーン!
階段を降りる際、最後の段で躓いて盛大に顔面からこけてしまう。その拍子に鼻血が少し出てきたけど、こけた痛みより心に刺さった後悔という刃のほうが数倍、いや、数十倍の痛みを放っていた。
「ちずる だいじょうぶ? おかお ぶつけた?」
「ふぇ?」
自分でも分かるくらいの裏返った間抜けな声。
聞き間違えじゃないのか。聞き間違えであってほしくない。
最近、そういったことが多かった。自分で自分を信じられずに痛む鼻を我慢して顔をあげる。
「わ! はなぢ でてる。 シャルル ティッシュ もってくるね!」
そう言うと手元に持っていただろう濡れたタオルをほっぽり出して、バタバタと足音が遠ざかっていく。
「わ。あと、シャルちゃん。え、えひひ」
タオルが顔にかかる。きっと、あたしのためにタオルを濡らしてくれてたんだろうな。なんて考えたら、自然と笑みがこぼれた。ああ、本当に――
「無事でよかった、シャルちゃん」
◆
黒色の瞳を開く。
青い世界。沈んでいた意識が徐々に浮かび日常から異世界へと迷い込む。
体は思うように動かせなかった。なんというか重度の倦怠感のような、動くこと自体が億劫になるようなそんな感じだ。
(ん、ここは……)
空気を確かめるように数回瞬きをする。
ゆっくりと辺りを見回してみたが、記憶には全くない景色だった。
(動けませんね。私はなんでここにいるのでしょうか)
目を動かすことはできるのだが、首を動かすこと、いや、体自体が動かない。ただきついとか苦しいといった、縛られているという行為に束縛感はなかった。
次第に意識が覚醒してくる。周りを眺めていて呼吸に合わせて気泡が浮いていることに気づく。
つまり、今自分が置かれている場所は何らかの液体の中ということを示していた。
しかし、液体の中というのに呼吸は滞りなく行うことができる。肺に水が入った時のような苦痛や不快感なども微塵もない。
例えるのであれば、胎内で羊水に浸かっている胎児ような不思議と心地の良い感覚。こんな感覚を漠然とずっと感じていたいと思った。
(ダメですダメです! 私はお嬢様のもとに帰らなくてはいけないのですから!)
実際に首は動かないから心の中だけでも振るい、自分のくたびれた気持ちに喝を入れた。
(!?)
途端に視界が動いた。私自身は目線を動かしていないのだからこの液体を入れている入れ物?自体が動いたのだろう。広がる視界、その情報を一つも見落とすものかとクラマは神経を集中させる。
入れ物は真っ直ぐ前進したかと思うと立ち止まり、前のめりに傾いた。そのまま前のめりに傾き続けてこの羊水から解放してくれるかと淡い期待をしたが、叶うことはなかった。
視界が回転する。
クラマは途端増える情報に気を持ち直す。前方に何か見える。人影のようなもの。いや、蹲っていて分かりづらかったが女性のようだった。
与えられた情報を整理する。右も左も分からないこの状況で頼れるのは置かれた状況を認識する能力。行動に移すのはそれからでいい。
(消えた意識、見知らぬ場所、蹲る女性。ここから導き出される回答は――)
「……嗚呼、きみの声、おれにも、聴こえてるよ」
思考を遮る様に、耳が腐りそうな声が脳内に響いた。




