逃げ水
目を開ける。そこは何も視えない暗闇。“何も視えない”がそこに在った。
闇の海を泳ぐようにかき分けて進む。どこまで行っても景色は変わらなかった。
ズキリと心臓が痛む。まるでナイフを突き立てられているようだった。
「ようこそ、宮殿の胎へ。やあ、目は覚めたかな。君、随分寝てたね」
耳障りな声で目が覚めた。
「あ、目覚めの気分はどう? 僕、朝は強くてね。すっごく気持ちよく起きられるんだけど、君はどうかな?」
言い返してやろうと声を出そうと思ったら口が開かなかった。違う、口は開いたけど声が出なかった。
耳は聴こえる。耳障りな音がしたから。
目は視えない。視界に映るものは深い海の底だ。
口は動く。心臓がズキリと痛むだけで体中も問題なく動いた。
(おいこのクソ虫野郎! テメーなんで生きてやがるッ! 確かに私がテメーはブチ殺したはずだ!)
声は出ない。叫んでも罵っても口汚い自分の声は聴こえなかった。
「あ、もしかしてなんで僕が生きてるか知りたい?」
こっちが騒がなくても、こいつが勝手にしゃべるならどうでもいい。だから、代わりに殺すほどの目つきで睨み返してやった。
「それはね、僕が“夜”だから」
(は?)
「ほら、夜には上も下も死も何も無いだろう? 君が殺したのは確かに僕だよ。僕という形を穿ち、殺害した。でも、ほら、君がどれだけ殺しに長けた能力を持っていたとしてもさ、夜という概念は殺せないでしょ」
意味が分からなかった。これも何らかの異能なのだろうが、夜だから死なない?
有り得ない話だ。おそらくは冗談か何かで煙に巻こうとしているだけだろう。なら動揺したら負けだ。
「で、君、目覚めはどうなの? 気持ちいい? さっきから結構叫んでるみたいだし、僕といっしょで朝は強いほうなのかな?」
立ち上がって叫ぶ。気持ちがいいワケがない。そう叫んだところで男の耳には届いていないようだった。
じゃあ、分からせてやればいい。その体に教え込んでやればいい。
夜がなんだ。人だろうが魔獣だろうが生きているなら死を必ず内包する。一回殺して死なないなら何度でも殺してやればいいだけだ。
しかし、前に踏み出そうとしたら、足が地面に縫い留められているのだろうか、前に踏み出すことができなかった。
「ああ、そんなに暴れないでよ。中身、溢れちゃうでしょ。ほら、頭、気を付けて!」
(中身、頭?何を言ってるんだこいつは)
頭に手をやると、滑りとした感覚が手を襲った。
(は?)
手を突っ込んでみるとぐちょりと沈む感触。見えない目を見開き、手で固い部分の輪郭を触ってみる。目が視えなくても理解できた。きっと頭が輪切りにされ脳みそが丸出しになっているのだろう。
タツキ君にきれいだねと言われた髪は全て抜け落ちていた。
「ああ、ごめん、興味本位。でも、思ったよりもキモいよね、脳みそ」
(あああああああああああッ!!)
心が裂ける。魂で吠えた。動揺しないなんてそもそも無理な話だった。
どうせ声が出ないのならもうどうでもいい。だから、口が裂けて、顎が外れても構わないと思った。
(殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺――)
ふと気になった。体が軽かった。まるで自分が自分じゃないみたいだ。だから、恐る恐る自分の身体に手を当ててみる。
滑りとした感触がした。
「ねえ、えっと、名前も知らないから君のままでいいかな。でさ、君は頑なに僕のことを魔獣って言い張ってたけど、今の僕と君、ほかの人が見たらどっちを魔獣って判断するかな?」
(ぐあぁあぁぁッ! クソッ! クソクソクソ! クソッ!)
ぐちゅり、ぶちゅり。身体が拉げる音と男の声。耳を塞ぎたくなるような不快な音だけが聴こえる世界。
身体のいたるところからよく分からない汁が溢れ出していた。その汁は体を伝い雨と混じり、地面に染みこんでいく。
私の大事な内臓が次々と崩れ落ちていく。
目が視えなくても手の感覚だけでその光景を理解することができた。
だからもう助からないことは雫にも理解できていた。
「宮殿の胎では君の常識は全て覆る。現は幻に、そのくすんだ瞳に映る景色は永遠の死を寫し続ける」
そう言いながら、夜深は手で形作った心臓をゆっくりと握りつぶす。
それで終わり。全部終わり。
「だってほら、僕だけが死なないのは不公平だよね。だから、僕は君だけは殺さないでいてあげることにしたんだ。ほら、痛くないでしょ? 君の痛覚に関わる神経とかも諸々、ぜーんぶ取っ払っちゃったからさ」
(おい、なんだよそりゃ!? 意味がわかんねえぞ!)
声を荒げる。力の限りに叫ぶ。しかし、顎が外れそうなほどに叫んでも辺りには響くことはなかった。
いや、歯も全部抜けてしまっていた。じゃあ、声が出せても意味が無いだろうか。
「君が人間ならきっと大丈夫さ。なんたって“死ねない魂”に造り替えてあげたんだからね。肉体は、あはは、知らないけど」
意味が分からない。死ねない魂とは何なのか。今既に目も視えず、声も出せないこの状況で死ねないという意味が分からなかった。この異形で死ねないまま、意識を保ったまま生き続けろというのか。
「ああ、そういえば君。僕の頭、おもっきし踏みつぶしてくれたよね。あれ、痛くなかったけど屈辱だったんだ。だから、やっぱりお返しに踏みつぶしてあげよっか」
その言葉を聴いてどこか安心してしまう。矜持も尊厳もその肉体も破壊されたのであれば、あとは死という安寧を求めるしかできなかった。
夜深は雫の頭の上に左足を上げる。あとはその足を踏み込んでもらえれば、脳漿をぶちまけて意識も途切れ、この世から消え失せられるのだろうか。
「なーんてね。別に怒ってないよ。それに靴が汚れるのはごめんだしね。んーそうだね、あとは誰か助けが来るのを待ってればいいよ。じゃあ僕は用事があるからこの辺で」
(は、ふざけるなよ。おい、待てよ、待てっ! 待ってくれ! 頼むっ、おい! 殺せ! 殺してくれ!)
いくら叫ぼうともその声は夜深に届くことはない。
足音が去っていく。こんな時でも鋭敏化した聴覚は男の足音を拾い続けていた。




