何でもない日の何でもないような非日常
三人は九時の方向へと、周囲の警戒を維持したまま歩を進める。音の発生源、それが魔獣のものである可能性が残っているからである。
しかし、九嵐はそこまで懸念していなかった。これまで刈ってきた魔獣はそのいずれもが獣型、四足歩行。先ほどの擦れる音、確証はないが音の響き方から、九嵐は二足歩行の何かだと思ったからだ。
数十メートル進んだ、その時だった。
「……止まってください」
九嵐が小さく、しかし鋭く囁いた。その目は鋭利な光を帯び、周囲を警戒している。自身の判断で皆を危険な目に遭わせることは出来ない。その責任感が圧し掛かった精悍な眼差しだ。
「水無月さん?どうしたの、 苗鳩さんたちじゃ――」
アリナが言いかけた瞬間だった。
ズウウウゥン__
空間が、震えた。空気が圧縮され、耳鳴りのような低音が大地を舐めるように走る。先ほどの音と同じ、だというのに、異様に重い。大気が押し付けられ、まるで空間そのものが悲鳴を上げているかのようだった。
木々が風もないのにざわめき始める。幹が軋み、草が倒れ、枝が揺れる。見えない何かが、周囲を撫でるように蠢いている。音の主は姿どころか一言すら発していないというのに、すぐ後ろに立って首筋にナイフを突き立てられるような、そんな言い知れぬ狂気を放っていた。
「魔獣?でもこれはっ――」
次の瞬間、ソレはさも当然かというかの如く、九嵐の身体をその大きすぎる右腕で優しく掴み撫でる。まるでようやく見つけたオモチャを愛でるように慈しむ様に繊細に。
数瞬遅れて目の前にいるバケモノを認識する。
その瞬間、時間が凍る。
指の一本一本までが凍り付いてしまったように動けない。
逃げようとすれば死。
そう理解してしまったから身体はもう動かない。
「__ッ!?」
魔獣が突然戸惑いの声を上げる。しかし、その声は空間に吸い込まれ誰の耳にも届くことはなかった。否、ただの一人を除いては。
「聴こえなくても聴こえますよ。あなたのその戸惑いに満ちた顔を視ればね」
それは九嵐の異能 静寂回廊『Calm Belt』。
少しでも動けば心臓ごと握りつぶされる。そのまま動かなくても死以外の未来は無いと判断した九嵐は咄嗟に右足で地面を叩き、自身と魔獣だけを覆う無音空間を形成したのだ。
魔獣は襲い来る違和感に戸惑いながらも周囲を観察。次第に自身に起こった異変ではなく、周囲の環境が変化していることに気が付くと、落ち着きを取り戻す。鎌首をもたげるようにギョロリと、ゆっくりこちらに視線が向けられる。
しかし、そこにはもう九嵐の姿はなかった。一瞬の隙をついて逃げ出すことは出来たが、既に落ち着きを取り戻し始めている。
理解が早い。明らかに目標の等級以上。二足歩行。筋肉質の皮膚を覆うのは外殻の様な骨の軍勢。骨の上に骨が何層も重なり、それを縛り付けるようにまた別の骨で覆われ、生半可な攻撃は効かないと雄弁に物語る。
そして何より目につくのはその頭部。両目の間、トライアングルを形成するように覗くのは第三の目。一瞬しか視えなかったが、三つ目がそれぞれ独立して動く様は、異質としか表現のしようがなく、心臓を鷲掴みにでもされた様に狂気を一層駆り立てた。
「B級、いや、A級でも荷が重い、ですね」
一瞬の隙を付き、木々の陰に身を隠した九嵐が自傷気味に呟く。
こちらに向かってサインを出し続ける和也とアリナに向かって、撤退の指示を返す。あらかじめ決めていた無音空間下でのサイン。魔獣が住みつく森の中。誰も立ち寄ることはない、言い換えれば人が訪れることのない未踏の地。こうしたイレギュラーが起こることは予見していた。九嵐の指示の下、一同は一転この場からの離脱に思考を切り替え動き出す。
とてもじゃないが対策も準備もなく相手に出来る様な魔獣ではない。仮に死に物狂いで勝ちに行こうとしても、そして仮に辛勝を捥ぎ取ることが出来ても、間違いなく被害は甚大の体を成すだろう。
それはとても賢明とはいえない。少なくとも苗鳩嘘真朧は、その判断を最低のクズ行為だと断言するだろう。
__勝てないなら勝てないなりの“弱者のやり方”がある。蛮勇は愚かな行為だと。
彼女の言った言葉を信じろ。ここで逃げて勝機に繋げる道を探すのだ。




