仄かに残る獣の香り2
『その手で殺して』
ぼくにはそう聴こえた。
魔獣の生態は分からない。本能に抗えず人類を襲う事が宿命付けられているのか。それとも自我を持ち、他種族と共存することが可能なのか。無責任な話だけど、彼は少なくとも後者のように思えた。
「出来ないよ」
ぼくにはそんなことは出来ない。彼がこの先自我を失って誰かを襲うとしても、ぼくにはその冷酷さがない。そもそも自我を失うかどうかだってぼくの勝手な憶測だ。生きていて良い命かもしれないのに、それを奪い去るなんてぼくには出来ない。
“ぼくの手が届く範囲で、数えられるだけの命は救いたい”
覚悟は今日決めたつもりだったけど、その救いたい命の中に“彼”も入っているんだ。
だから、そういう意味での“助けて”ならぼくは聴く気がなかった。
「ごめんは言わない。だって、謝ったらキミの命を奪う理由を探したことになるから。ぼくの中ではキミは生きていていい存在なんだ」
公園の少年は項垂れる。食い下がることも無く手を放し、一歩後退した。まるでその答えが初めから分かっていたかのように。
無責任な事だ。生きていていいと言いつつ、彼の生活は保障できない。彼が人に危害を加えないと知っているのはぼくだけ。そりゃ、毎日ここに来て世話をするくらいのことはやってもいいと思ったけど、そんな生活は彼も望んではいないだろう。
だから、他の誰かに見つかればきっと駆除の対象になる。大丈夫だと説明をして納得をしてもらうことは、今のこの世界ではあまりにも難しい。ぼくが説明しようにも、この先彼が誰かに危害を加えないと言い切ることは出来ない。とどのつまり、人と魔獣の共存は無理なのだ。
それが解っていたから。
だから、彼はぼくに助けてと言ったんじゃないのか。
他の誰かに殺されるくらいなら、いっそぼくの手で、彼の心を知ったぼくの手で滅ぼしてほしいと。
「解ってるよ。そんなこと全部解ってる。さっきの痛みもキミの心に触れてしまったから。キミのその“痛み”がぼくの心に共鳴してしまったからなんだろう?」
それでも、ぼくには出来ない。ぼくはそれほどに弱いんだ。だから。
「この手でキミを殺めるくらいなら、その心でぼくを殺してくれ」
選択肢も与えないなんて、喋れないキミに卑怯だよね。そのことも解ってるつもりだよ。無責任で自分勝手だけど、ぼくはこういうヤツなんだ。ごめんよ、名前も知らないキミ。死ぬのが怖くないと言ったら嘘になるけれど、キミを殺した世界で生きていく方がぼくは怖いよ。
それくらいならキミに殺されたほうがマシだ。それくらいで許されるのなら、どんな痛みだったとしてもきっと笑って死んでやれるさ。
あれから何が起こったのか、よく覚えてはいない。
気が付いたらぼくは自室のソファーで仰向けになって寝込んでいた。母親にその事を訊ねてみても、いつものように帰ってきて、そのまま一言二言交わして部屋に籠ってしまったとのことだった。
少し元気がない事を気にした母が声を掛けてくれたが、眠っていたのでそのまま起こさないようにしてくれたらしい。
まるで夢のような出来事だった。
少年はあれからどうなったのだろうか。ぼくは彼を手に掛けてしまったのだろうか?それとも彼を見逃してしまったのだろうか?もしそうなら、なぜあの痛みも感じることなく家まで戻ってこれたのか?
考えても分からない事ばかりだった。
あれから公園にも、森の中にも行ってみたが、もうあの少年に会うことは出来なかった。もちろん、ニュースなどにも耳を傾けてはいたが、B級の魔獣が発見されたという話は聞かなかった。
ちゃんと逃げることが出来たのだろうか?
あまりにも無責任な考え方だが、そう願う事くらいしかぼくには出来なかった。
もしかしたら、覚えていないだけで、ぼくが彼をこの手に掛けたということも考えられる。考えたくはないけれど。覚えていないんだから自信はない。
街には変わらない風景が流れていく。喜碧の死を引き摺っていないわけではなかったけど、それも時間の流れと共に、ジワリと薄れていく。それがなんだか悲しくも後ろめたかった。
周りに聴こえる笑い声。楽しそうに青春を謳歌する声。些細なことが、何でもないようなことが楽しい。それは辛い目に遭ったみんなだからこそ味わうことの出来る、日常と云う名の幸福なのだろう。例えるならば、パステルカラーで彩った淡い虹の様な耳心地の良いメロディ。
けれど、そんな幸福の音も、大切な存在を二人も亡くしたぼくにとっては、少し耳障りだった。
「__少し、五月蠅いな」
ジワリ染み込む。
ゆっくりと。音も立てずに。誰にも気付かれぬように。
それは黒く、淡く彩られた虹色を飲み込むような淡泊な感情。
水面に落ちる一滴の水滴の如く、調和の取れた円を描きながら。
ジワリ広がる。
そうして浮かび上がるのは、滲むような猜忌の色。




