仄かに残る獣の香り
ぼくは誘われるように寂れた公園の奥の、破れたフェンスを潜り抜けることにした。
一瞬だけ光ったあの光は、幾重にも聳え立つ木々の向こう側。当然ながら舗装されていない、道ともいえないような道が続いている。
「痛みが……来ない」
フェンスの向こう。つまり公園の外だ。しかし、あの脳幹がねじ切れるような激痛はいつまで経ってもやってこない。もしかして、あの“毒”は消え去ったのか?いいや違う。そんなことぼくが一番解っている。あの光と毒には何らかの因果関係にある。理由も根拠もないけれど、何故だかそんな気がした。
「……」
ぼくはただ、無言で進んだ。
森の中はまるで時の止まった別世界だった。風も音もない。踏みしめた落ち葉の音だけが、自分の存在を証明している。木々が高く茂って空を覆い隠し、遠くから差し込んでいたはずの日の光さえ、今はどこにも見当たらない。
それでもただ進み続ける。何かに導かれるように、誰かに囁き続けられるように。迷うことなく進み続ける。それはまるで“痛み”の代わりに、身体の奥底から湧き上がってくる何か。焦燥とも、渇望とも違う。もっと根源的な、内なる呼び声のようなもの。
__パキ。
枝を踏んだ音ではない。明らかに、自分以外の誰かの足音。
「……誰?」
声が森に溶けていく。
返事はない。けれど、気配だけは確かにある。確実に“何か”が近くにいる。ぼくの近くで、きっとぼくを待っていた。だから、こんな場所で一人でも不思議と怖くはなかった。
振り向く。だが、そこには誰もいなかった。
「気のせい、じゃないよね」
もう一度、周囲を見渡す。だが視界には木々と沈黙しかない。けれど何かが確かに居る。視えなくても、聴こえなくても、誰かがいるのだけは分かっていた。そして、それが脅威ではないことも。
よし、呼びかけてみようか。
「ねえ、“居る”んだよね、そこに。なんでだろう、ぼくはキミが誰なのか、何となく分かる気がするんだ」
ぼくはこの気配の正体を既に知っている。
「怖がらなくていい。ぼくはキミに危害を加えない。でも信じることが出来ないなら、無理に出てくる必要は無いよ」
暫し時間が流れる。それは決して長くはない時間だが、永遠のようにも感じられた。まるで一秒が無限に引き延ばされているような感覚。けれど、不思議と不快な感じは一切ない。
その時、足元の草がかすかに揺れた。風か、あるいは。
「ウウゥ、アァアァ」
背後から、確かな声が降り注いだ。その声に反応するようにゆっくりと振り返ると、そこには“彼”がいた。
暗闇に浮かぶ、無表情の影。それは人の様に二足で地に立っているが人間ではない。それは動物と人間の特徴を併せ持っていた。いわゆる獣人、人狼や狼男、ワーウルフとも呼ぶだろう。漆黒の体躯の至る所に深紅の線を走らせたそれは、間違いなく“魔獣”だった。
「キミは――」
「ウゥウゥ、ああアァアァッ」
必死に何かを伝えようとするその表情。その表情に敵意はなく、決して理解されることのない咆哮は哀しみの色に満ちていた。どうやら人語を介すことが出来ないようだ。
「もしかしなくても“キミ”なんだよね。はぁ、キミが確認されていたB級の魔獣だったんだね」
自傷気味にため息を吐く。
あの日、確かに聴こえた気がした『助けて』という言葉。心の底に根付くようにずっと引っかかっていた。
その答えが今目の前にある。もっと、上手くは出来なかっただろうか。こんな異能を持っていたって、本当に助けたいと思ったものは助けることが出来ないんだから。
「ねえ、一つだけ訊かせて?キミは最初から魔獣だったの?それとも――」
それともなにか?
人間が魔獣になったとでもいうのか。そんなこと絶対にあり得ない。そんな話聞いたことなんてないし、そもそも前例がない。
この少年はぼくにしか視えなかった。違う、そんな怪談みたいな話じゃない。ただ単に、ぼくの前だけに姿を現していただけだ。
だから、ぼくに向けて助けてと言ったんだ。
「質問、続けるね。キミはぼくに何を求めていたの?」
公園の少年は微かに頷いた。
「ウゥウゥ、ゥぅぅぅ」
そう小さく唸り、ゆっくりと近づいてくる。無防備に頼りない足取りで一歩ずつ。それをぼくは黙って見守る。やがてぼくの前まで歩を進めると、鋭い爪が光る右手を持ち上げ、ぼくの手を握る。そしてぼくの手の先をゆっくりと自分の心臓に引き寄せる。残った左手で自分のこめかみに拳銃の形に突きつけるようにして。




