渦中滲紅2
「烽火さん!今は逃げてっ!気持ちは解るッ!けどお願いっ、意志を強く持ってッ!」
ざわつきが収まらない。体温が急激に冷え、視界がぼやけ、眩暈が襲い掛かる。
先生が何か言っている。何を言っているのか分からないけど、何かを言っている事だけが分かった。それはぼやけた視界に映った先生の口が何かを叫んでいたからだ。
それに何の意味があるのかは分からないし、たとえそれが意味のあることだとしても、今のぼくには理解できな――
バチンッ!
冷え切った身体が熱を持つ。ぼやけた視界が次第に鮮明に変わっていく。視界と共に脳内に血液が送られ始める。チリチリと痛む頬が火傷をしたように燃え、思考が現実へと引き戻されていく感じがした。
だから、この時のぼくは頬を叩かれたと気付くことが出来なかった。
「烽火さん!ショックはっ、解りますっ!けど、今は何も考えないでっ!今はこの場から逃げることだけ考えてっ!お願いっ、烽火仄火さん!」
疼く頬に手を当ててその言葉を飲み込んだ。今はその痛みだけが現実だと、そう思い込むしかないと、泣きそうなその瞳が語っていた。
「ごめん、なさい」
縺れながらも足が動く。
喜碧の亡骸に駆け寄って抱きしめたかった。
けど、もしそうしたのなら、ぼくのこころは本当に立ち止まって動けなくなってしまう気がして。
話したこともそんなに多くはない彼女だったけれど、少なくともぼくにとっては友だちで、いなくなると悲しい存在で、いなくなったから何も考えられなくなったんだ。
それなら、今は考えちゃいけない。自分の身が可愛いとか、彼女の為に生き残るとか、そんな全部全部どうでもいいくらいに、何も考えてはダメなんだと。
無様にふらつく両の足は次第に規則を戻していく。他の生徒たちに合流して、この地獄と云う名の学校から脱出する。一粒の涙を置き去りにしながら。
柊木さんの不器用な避難誘導に従い、ぼくたちは近くの広場まで無事避難することが出来た。ここまでくれば安全かと言われれば断言はできないが、少なくとも見渡す限りに魔獣の姿はない。
周りには少数だが、状況を飲み込めていない人間もおり、なんだなんだと野次馬の如き視線を向けられた。
(……喜碧)
運が悪かった、と言えばそれまで。気を配っていなかった、と言えばそれまで。けど、彼女の死の一因にぼくは間違いなく関与している。これは事実だ。
あの場所で喜碧とぼくが悠長に会話なんかをしていなければ、少なくともあのタイミングで死ぬことはなかった。ぼくが公園に行くと言わなければ、彼女が無駄な事に気を削ぐことも無かった。ぼくが周りに気を配っていたら、いち早く魔獣の存在に気づけた。誰かのせいにすることは簡単だけれど、それは事実なのだ。
どこまで行ったって彼女の死の証明にぼくが存在し続ける。彼女の存在がぼくの背中に張り付き続けるのだ。
ああ、自己嫌悪で死にたくなる。
(こんなことなら、出会わなければよかった)
あの時ぼくに何が出来たというのだろうか。これからぼくに何が出来るというのだろうか。
「はい、丸井です。はい、はい」
殿を担っていた異能科の丸井先生が、スマホを耳に当ててなにやら会話をしている。短いやり取りを終えた後、スマホをポケットにしまうと生徒全員に通る大きな声でこう言った。
「この辺りはもう大丈夫!各自一人で行動しないようグループを作り、速やかに下校するように!」
その言葉を聴き、生徒たちは安堵の声を漏らし始める。死と隣り合わせという、ずっと張りつめていた緊張感が一気に融解し出したのが分かる。
この辺りは安全。けど本当にそうなのだろうか?彼女のその顔を見るにとてもそんな風には思えない。その厳しい表情には何か決意のようなものが窺えた。まるでこれから死地に向かう戦士の様な、そんな精悍さを感じたのだ。
「先生、どこ行くんです?」
踵を返し広場を出ていこうとする先生を呼び止める。
「もうここは大丈夫です。烽火さん、あなたは優秀な異能を持っていますが、つねづね過信をしないように。間違っても魔獣に立ち向かおうとしてはいけませんよ。あなたも十分に注意をして、どなたかといっしょになって下校してください。あ、もしかしていっしょの方向の子がいませんか?」
「ぼくが訊いてるのは、どこに行くのかってことなんですけど?」
「……先生は戻ります。魔獣をこのまま野放しにしておくわけにはいきませんから」
丸井先生は嘘がつけないタイプみたいだ。嘘吐きなんてクズばかりだけど、こういう時損をするよな。
「ぼくも連れてってください。覚悟は……えっとまあ、その――今決めたんで」
リベルレギオンがまだなかった時代。いや、存在はしていたけど組織として機能しているとは言えなかったというのが真実。レギオンとギルドの連携は不十分。この時代、ギルドを介しての魔獣討伐は後手後手に回るばかりだった。
だから、丸井先生の様な戦うことの出来る能力者は魔獣狩り以外にも重宝されていた。その相手がB級だろうとA級だろうと。戦う力があるものが戦うべきだと世間はその危険性すら度外視をしていた。日々変化していく能力者の力を把握できるわけもなく、魔獣が出たのなら能力者に任せればいいと大勢が意見する。早い話が丸投げだ。
人間も魔獣も、命が軽かった時代でもある。




