仄火と喜碧2
あれ、何だ。何が違う。
観てるものなんてそりゃ同じとも違うともいえる。価値観は普遍的なものではないのだから。
自分にとっては価値のあるものでも、他の誰かにとっては価値の無いものになりえる。価値観というものは、晴れの日の雨傘が荷物となり邪魔になるように、その日の天気にも左右される程度の朧げな感覚なのだ。
けど、その場所に在る事実は変えられない。在るものを無いと断ずることは出来ない。雨傘を見てアイスクリームと勘違いする人なんているはずがない。そんなこと当たり前のこと。
とどのつまり、観ている世界が違うというのはそういうことだ。
(じゃあ、なんだ……?ぼくが感じた違和感は、なんだ?)
__いつも売れ残っているジャスミンティーが売り切れていたこと?
__彼の名前がトモエガモから取られたこと?
__彼が探偵に憧れていたこと?
__ぼくがいつも一人で公園に行っていたこと?
__彼が友だちといっしょに公園に行ったことがあること?
そう箇条書きのように考えを巡らせたとき、目の前で白い火花が炸裂したように弾ける。脳に引っかかっていた“何か”が焼かれ爆ぜたのだ。
「そうだっ!巴鳥少年は一度も言わなかった。ぼくが公園に行く理由。決して喋ることのないあの沈黙の少年の話を!」
言わなかった?いやそんなことはあり得ない。探偵に憧れている少年にとって、見つけた違和感全てが好奇心の塊のはずだ。だからどうでもいいぼくのことも、ジャスミンティーのことも彼は訊ねて来たのだから。
もしかして、彼には視えていなかった?いやいや、公園には友だちと行ったことがあると言っていた。あの少年はいつもあの公園にいる。
なら間違いなく見かけるはずなのだ。絶対ではないが、限りなく百パーセントに近い確率で沈黙の少年を目撃するはずなのだ。だから、あり得ない。百パーセントに近い確率であり得ない。
__観えてる世界が違うんだよ。
いや違う、彼に視えなかったのではなくぼくだけが視えていたとしたら?
__僕だけが観ている世界。
不思議な感覚だ。もしそれが本当だとしたら、それが真実なのだとしたら、心霊現象といっても差し支えない程の不思議体験だ。けど、恐怖はない。手を前に翳して握り開き繰り返す。そこにほんの少しの震えもない。
もう一度彼に会ってみたいと思った。彼の形に触れてみたいと思った。
足が浮き立つ。今日はぼくの好きな数学の授業だというのにそわそわしっぱなしだ。たぶん、傍から見たら終始挙動不審。もしかするとトイレを我慢しているように映っているかもしれない。それくらいには疼いていた。早くあの公園に行きたい。そんなことしか考えることが出来なかった。
ウウウウウウッ__!!
(警報!?)
それは日常を引き裂くようなイレギュラー。突如鳴り響くけたたましいサイレンの音。突如騒めきだす教室内。思わず立ち上がる生徒。それを宥める教師。防災訓練であれば事前に周知されるが、そんな話は聞いていない。つまり本当の意味での警報ということ。
ごくりと思わず生唾を飲む。
「近隣の森にて魔獣の姿を目撃。体躯からB級と推定。想定進入範囲には学校内も含まれました。生徒諸君は慌てず教師の指示に従い、速やかに避難に移ってください」
スピーカーから流れるのは避難誘導の指示。この学校には異能による魔獣対策訓練も行っているが、所詮訓練は訓練、緊急事態に対応できる柔軟性は皆無だ。というよりも学校側がその責任をとても負うことが出来ないのだろう。
「柊木さん!避難誘導は君に任せたい!」
「は、はいっ!畏まりましたわ、先生っ!」
「みんな!柊木さんの指示に従い速やかに移動を開始するように!」
容姿端麗、成績優秀、いつでもクラスの中心にいる、柊木咲夜――クラスの委員長でもある彼女が動き出すと、それまでざわついていた教室内に秩序が戻り始めた。
だがそれは上辺だけの仮初の秩序。従う以上の行動を起こす勇気を持ち合わせていないだけ。体験してその恐怖に初めて気づくこともある。言葉を発しなくとも、彼女らの蒼白の表情がそれを雄弁に語っていた。
そんな彼女らを俯瞰的に見ているぼくは、果たして冷静と云えるのだろうか。自身のこともよく分からないままぼくも立ち上がりながら、柊木さんの指示に従うことにする。こんな時どうすればいいかなんてぼくにも分からない。とりあえずは彼女に委ねることにしよう。
そう自傷気味に吐き捨てた時、窓ガラスに映るぼくの姿は酷く落ち着いて視えた。この状況が怖くない、のだろうか。それは、ぼくに魔獣に対抗する力があるからなのだろうか、この世界に大した未練が無いからなのだろうか。
指示に従い廊下に出ると、他のクラスの生徒と合流しながら、我先にと雪崩れのごとく勢いで廊下を駆けていく。普段広いと思っていた廊下も、こう見ると狭く苦しい一本道に思えた。
「仄火、アンタなんでそんな冷めてんの?」
一秒でも早く逃げ出したい状況の中待っていてくれたのか、友人の一人だった羽山喜碧がそう声を掛けてきた。
「喜碧。冷めてるってぼくは別に――」
否定しようとして気づいた。ぼくはぼくのことがよく分からないことに。
「ああ、もういいよ、アンタはそういう子って理解してるつもりだから。これでもアンタの友人一号だからね。ほら、冷めてても行動は起こさないと。とりあえず走ろう、仄火」
「え、う、うん。で、でも――」
「アンタはそういうヤツ。って納得したら、細かい事で腹立ててる自分が、マジで小さい人間って思えてきた。アンタは無神経だし鈍感で能天気で目つきも悪くてムカつくとこも多いけど」
「ちょ、言い過ぎじゃ」
「だって全部ホントの事じゃん!……けどさ、悪意で人を傷つけるようなことは絶対にしないって知ってるから。だからさ。これからも、話し相手ぐらいにはなってあげるからさ。そんなつまんなそうな顔しないでよ」
少し泣きそうな顔をした喜碧が唇を噛んでそう言った。そうか、ぼくは彼女にそんな顔をさせていたのか。
「で、でも、また間違っちゃうかも」
だから弱音が出た。彼女の前だから弱音が口を突いてしまった。そんなこと言いたくなかったのに。
「別にいいって!そういうの全部まとめて話し相手になってやるって言ってんのっ!バカ仄火!」
友人一号。
彼女とは疎遠になったつもりでいた。ぼくの不用意な一言。歪でも嚙み合い続けていた歯車は、いつしかバラバラになって別々の方向に転がってしまったと思っていた。
けど、そんなことはなかった。ぼくたちは人間だ。歯車なんかじゃない。たとえ欠けても、錆び付いても、やり直すことなんて何よりも簡単だったんだ。ぼくたちには“言葉”があるから。
心の奥底がほんの少し暖かくなった気がした。
ありがとう、喜碧。




