断末魔が響く夜
「ふ、ふふふふふ」
背後から声がした。息絶えたと思っていた人物の声。
「!?」
とっさに身の危険を感じ、雫は体を宙返りさせながら二度飛び退いて距離を取る。離れた距離は十メートルほど。それでも雫の身体能力があれば一瞬で詰めて心臓を貫くことも可能だろう。
しかし、足元を縫い止められているようにその場から動くことができなかった。
否、本当に縫い留められているのだ。
剃刀のような男の細い眼が見開き、口元が三日月のように吊り上がる。
目の前の男は血だらけだ。しかし、その表情はまるで痛みなど微塵も感じているようには見えない。
男の手が動く。
「っべェ! テメェら撃ち殺せッ!」
周りの部下たちは一斉に銃口を男に向けて構える。
しかし、あと一歩届かない。いや、届いたとしてもどうにもならなかっただろう。
「夜潜 冥道供 愚淨真臧痲宮殿」
男が手を合わせ心臓を形作り、そう呟いた瞬間、雫の視界から消え失せた。
雫の視力は両目ともに六・〇を超え、細かな所作を見抜く技術も常人を凌駕している。完全に捉えていた。当たり前だ。瞬きもせず、今から殺そうとする相手を視界から逃すはずがない。
しかし、目の前にいたフードの男は初めからそこにいなかった様に忽然と消えていた。
「ギヤぁああぁあぁぁあぁッ!!」
突如後方から悲鳴が上がる。苦悶に満ちた痛々しい悲鳴だった。
「あぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛!!」
「うぎえ゛え゛え゛え゛っ!!」
矢継ぎ早に次々と悲鳴が上がり続ける。
辺りから聴こえるのは、耳をふさぎたくなるような断末魔の嵐。
『愚淨真臧痲宮殿』
夜に潜み、夜という概念から相手の体の中を自在に弄ることができる異能。
神経をバラバラにして死に至らしめる事も、痛覚を遮断するも自由自在だ。その逆もしかり、体を治療することも生きていくうえで味わうことがないであろう激痛を与えることも可能だった。
事実、雫の部下たちの痛がり方は尋常じゃなく、人体のどこを痛めつければ強い痛みが生まれるのかを熟知しているかに思えた。
因みに夜に潜むといったが、夜という概念は常に存在しているものであり、暗くないといけないというわけではない。
ただ、日中では潜むという行為自体が難しく、たとえ潜んだとしても直ぐにバレてしまうという欠点はある。
「なんだ、どういうことだ! おいテメーら!……クソが! こっちも出し惜しみは無しでいかねーといけねーみたいだな、っち、厄日だぜ」
先ほどの悲鳴は尋常じゃない。ここで本気を出さなければ殺される。目の前の敵は未知数だ。だから、本気で挑んで勝てるかどうかは既に分からないがやらなければ死ぬだけだ。
「上がれ、魂のリズム! 止められるもんなら止めて魅せろ。解放するぜ、異能 獣性『Beast roll』!」
異能を解放すると同時に身体全体が高揚する。髪は逆立ち、牙が鋭く獣のように鋭利さを増す。両目は充血しつつも相手を射殺さんと鋭い双眸を覗かせる。
異能 獣性『Beast roll』
誰もが秘める獣性を表面化させ、その力を体に纏う身体強化系の異能。もともと高いフィジカルと相まって異能を顕現させた雫は音速に迫る速度となる。
先ほど伸ばした爪先や、人間離れした跳躍などはこの異能の能力である。
(この異能を解放している間は、私の身体能力は五倍程度に跳ね上がる。それは動体視力も嗅覚も例外じゃねえ。こんな雨の中でもテメーのキナ臭いにおいは見逃さねえぞ)
聳え立つ大木の頂上に、超絶的なバランス感覚で屈みながら片足で立つ。
夜深とってはこれもまた死角足り得る位置取り。嗅覚を研ぎ澄まして屠るべき敵を探る。
(っち、雨が邪魔だ。辿れねえことはねえ。そう思っていたが甘かったか。なら……)
「おい、クソ魔獣。出て来いよ。このままでも埒が明かねえだろ。勝負してやるから出て来い」
再び泥濘んだ地面に着地すると、姿の視えない夜深を挑発する。
横目で周りを見渡してみると、辺りは死屍累々の様を呈していた。
体中から血を溢れさせながら苦悶に満ちた表情で、彼女の部下は皆死に絶えていた。
「私の異能 獣性『Beast roll』は身体の強化だ。上がり幅は五倍程度。視覚も嗅覚も獣並みだ。こんな真っ暗闇でも一キロ先まで見通せるぜ」
異能名の開示を終え、夜深の気配に集中する。
先ほどの夜深の襲撃で携帯ライトは全て破壊され、辺りは闇に包まれていたが、異能の開示を終えた雫の『Beast roll』はその姿を鮮明に捉えていた。
(みんな死んじまってんのか。クソッ! こんな時はこの異能の身体強化を呪うぜ)
その後、夜深が現れるのを待つが、待てども待てども一向に現れる気配はない。
もしかして既にこの場を去ってしまったのかと一瞬考えたものの、雫の野生の勘がそれを否定していた。
十分、三十分と経過し、一時間が経とうとしていた。
「やれやれ、降参だよ。君の勘、伊達じゃないね」
雫は影から現れた夜深を完全に捉えていた。
一瞬でも動こうものなら刺し穿ってやると、その影を瞬きもせずに睨み続けていたのだ。
だからこれは必然。
「悪りぃな魔獣。テメーは強えが、部下を殺った落とし前はつけてもらわなきゃいけねえんでな」
そう呟いた雫の右手は体を貫き、夜深の心臓が握られていた。心臓を握りつぶし、その手を一気に引き抜く。
支えを失った夜深は前のめりに地面に倒れる。
「クソったれ。喜べねえ勝ちってのはこういうことを云うんだろうな。久しぶりに味わったぜクソが」
地面に倒れ伏している夜深の頭を踏みつける。ぬめりと沈み込むような感覚。
まだまだ謎の多い魔獣の数少ない共通項。それが“生命活動を停止したものは塵となって虚空に消える”という点だ。
この男の魔獣もこのまま消えるのだろうと、頭の中ですでに完結していた。
そうなるはずだった。
そうならなくてはいけなかった。
だから、反応が遅れた。
「なんだ、これ、足が、影に吸い込まれるッ! や、やめろッ! おい!」
周りには誰もいない。既に皆息絶えてしまっている。だから、叫んだところで返事は帰ってこなかった。
夜は闇に溶け込み、その姿を自由自在に変える。黒い影は瞬く間に一面に広がり、その大き過ぎる顎で全てを飲み込んだ。
もうお分かりかと思いますが夜深は悪人です。




