虜
だというのに、少年のことが気になって仕方がなかった。
荒波のように押し寄せるのは後悔という二文字。帰り道、他のことを考えられない。晩御飯のことも、明日のことも、友だちのことも。あの眼差しに魅入られてしまったのかと錯覚してしまうほどに、何も考えられない。
もう足の痛みなど、すっかり忘れてしまっていた。
夜はあまり眠れなかった。
朝ごはんは喉を通らなかった。
気が付いたら学校に辿り着いていた。
もちろん、授業なんて碌に耳に入ってこない。いや、授業を受けているという感覚すら希薄なのだ。まるで知らない誰かがぼくの中に入り込んで、この身体を勝手に動かしている様だ。
「烽火さん。……烽火さん?んッ、烽火仄火さんっ!」
「え、あ、はい。すみません、ぼーっとしてました」
授業だけじゃない。名前を呼ばれても上の空。これじゃあ、まるで恋煩いみたいで恥ずかしい。いやいや、それは無い、絶対にありえない。だって、人に興味を持てなかったぼくが、それもあんな小さな子に恋愛感情なんか芽生えるはずもない。
そう考えたら途端に面白くなって吹き出してしまった。
「ねえ、烽火さん。何がおかしいの?」
震えるような先生の声。眉間に少し皺を寄せた表情。もしかしなくても先生を嘲笑したと受け取られてしまったのだろう。
「あ、すみません、先生の事じゃないです」
「え?はぁ、じゃあなんですか?」
「ああ、んと、うーん。自分の事です……かね?ぼくらしくないって、面白くなってしまって、だから笑ってしまったんです」
「えぇと?その、何を言ってるのあなた?烽火さん、あなた良く見たら顔色少し悪くありませんか?体調が優れないのでしたら保健室に行きますか?」
「あ、いえ大丈夫です。そういうのじゃないんで。ほんと、すみません」
気を遣われるのは心外だ。別にどこも悪くない。この顔色だって生まれつきのものだ。なんなら、ちょっとしたコンプレックスでもある。
「ああはい、もういいです。烽火さん、着席していただいて構いません。では塚本さん、続きをお願いします」
「はい」
ぼくが座ると同時に塚本と呼ばれた女生徒が立ち上がる。
それと同時にくすくすと、押し殺したような笑い声が教室内から響き渡る。別に今に始まった事じゃない。知らない相手に対して関心が向かないのはどこの学校だって、いや、どこの社会だって同じじゃないかな。
ぼんやりと、ガラスを隔てた向こう側に広がる世界に目を向ける。
うちの学校は住宅街に造られているため、こうして外を覗くだけで、建てられた様々な建築物を通して人の営みを感じることが出来た。
ビルの下、豆粒のように動くその一つ一つがそれぞれの思惑を持ち、命を授かった人間なのだ。
(あ、あの人、あんなところで立ち止まって何してるのかな?)
いわゆる人間観察。自分と違う人間が何を考えて、何を目的として生きているのか、子供の頃から興味があった。
自分の世界は自分のものでしかない。なら、他の誰かが感じる他人という存在はどう映り、何を思うのか、考えれば考えるほどに興味は尽きなかった。
ともすれば、人間という生き物は他人に興味が無さすぎるとも常々思っていた。だから、暇があればこうして外の世界に思いを馳せていた。授業という退屈な時間は、そんな人間観察をするのに最適な時間だったからだ。
(なーんだ、彼氏待ちか。まあ、そうだよね)
まあ、でも結局は思ってるだけ。別に他の誰かになりたいとか、自分の境遇に大きな不満があるとかではないけどね。
何か面白いものは観れないかと視線を転がしてみる。同じ形の雲は一度たりとも見ることが出来ないように、街行く人も同じ。同じ人、同じ道、同じ時間を過ごしてもどこか違う。
一日一日が積み重なっていくように、変化だって積み重なっていく。それはとても当たり前で、とてもすごい事のように思えた。
(あ、昨日の公園。ここから見える位置にあったんだな)
それは昨日訪れた公園。キーキーと軋むような音が鳴りそうなブランコ、少し大きめの砂場と錆び付いたジャングルジム。そして、見慣れた滑り台。見慣れた――少年。
「ッ!?」
心臓を鷲掴みにされたような、驚きと恐怖が入り混じった感覚。ぼくは思わず立ち上がってしまった。
「……っ!……っ!」
先生が何かを言っている――気がした。何かを言っている気がしたのは、口が開いたり閉じたりしていたからだ。この耳には何も聴こえない。だから、気がしただけなんだ。
椅子が傾く音も、教室のざわめきも、先生の声も、全てが遠く沈むように消えていく。視界は狭まり、思考が萎んで、目も耳も虜になっていく。だから、返事なんか必要なかった。聴こえない声に応える義理も義務も無いと感じたから。
「先生、やっぱり体調が悪いので早退しますっ」
一方的にそう告げる。がやがやと浮き立つ教室を後にして、ぼくは昨日の公園へと走り出した。




