夜に駆ける
突如森に響いた声。この森には誰もいないのではなかったのか。
もしかしたら影の魔獣が雄たけびを上げているのではないか。
もしかしたらシャルの身に何か起こっているのではないか。
「夜深ちゃん!」
「ん、おかしいね。僕の読みではこの森には魔獣はおろか、熊や野犬の類も居ないと踏んでいたのだけれど」
「絶対影の魔獣だよ! シャルちゃんに何かあったんだよ!」
さっきまでの疲れはどこへやら。その場で足踏みして夜深を急かせる。ちなみに夜深だけに読みという何とも浅はかなちずるギャグを思いついたが、状況が状況だけに口にするのは止めることにした。
夜深の顔を見てみると、まるで焦っている様子がない。
千寿流も夜深という男は、何があっても焦ることなんてないんだろうな、ともう理解し始めていた。
ただ今は緊急事態である。こうして声が聴こえたなら焦ってほしいと服の裾を引っ張るが。
「千寿流ちゃん。ここから先は君一人で行くんだ。残念だけど僕はついて行ってあげられない」
「え?」
さっきまで僕に任せてと確かに言ってくれた。今は僕に任せておけばいいと。
くじけかけていた千寿流の心を救った夜深の言葉だ。
しかし、確かに今はあたしだけ先に行けといった。
舌の根も乾かないうちに撤回された言葉に、千寿流は訳も分からないという顔をするが、夜深の表情にはふざけた様子は全くなかった。
「ねえ、それってどういうこと? もしかしてあたしのギャグがいけなかったの!? ごめん、あやまるから!」
「君はたまに分からなくなるね。ギャグは君の頭の出来だろう。ふざけている暇はないよ。ほら行った行った」
夜深に背中を押され、半ば無理やりに先を歩かせられる。泥濘んだ地面に足を取られそうになりつつも、何とか数歩先でとどまった。
「夜深ちゃん!」
振り返って叫ぶ。聞いても事情を答えてくれない夜深に少し苛立ちを覚えた。
シャルを助けたいという気持ちは人一倍あるものの、情けない話自分一人でこの先に進んでも、シャルを見つけることができると思えなかった。
「正念場だよ。君がシャルちゃんを助けるんだ。シャルちゃんもきっとそれを望んでるんじゃないかな」
そんなの、わかんないよ。
だって、夢の中じゃ怖かったんだもん。
「ほら、これライト。大丈夫、君なら見つけられるさ」
そう言いながら、千寿流に持っていた小型の携帯ライトを手渡す。
根拠なんてどこにもない。根回しをしたわけでもない。ついでに言えば彼女のこともそこまで知っているわけでもない。
それでも彼女なら何とかなるだろうという漠然とした確信があった。
少しの間の沈黙。
雨音だけが辺りに響いていた。
「あたし一人でやれるかな?」
「大丈夫さ」
軽薄さも嘲りも無い。本心の言葉だ。
その思いが彼女に伝わったのか、ようやく千寿流は顔を上げて夜深の顔をしっかりとみる。
「……後から、来てくれるよね?」
「もちろん」
「わかった、このまま真っ直ぐに行けばいいんだよね。あたし、先に行ってシャルちゃんと待ってるからね!」
そう言うと千寿流は振り返り、昏く闇に染まる森に消えていった。
ライトの光が揺れる。千寿流が消えていった深い闇をじっと見続ける夜深。雨音に交じって微かに聴こえていた声も、もう聴こえない。
「やれやれ、世話のかかる子だ。まあ、世話がかかる子のほうが可愛いんだけどね」
フードに親指をかけ片目だけで空を仰ぐ。昏く深い森には上も下もない。
携帯ライトを千寿流が持って行った今、辺りは黒一色の闇が支配していた。光が遠ざかるにつれ、世界は本来の姿を取り戻していく。絶対的な黒。重く粘りつくような闇が、輪郭の何もかもを曖昧にし溶かしていく。
「――ねえ、君はどう思う?」
この世界は闇に染まった。だから、誰もいないし、何も聴こえない。
夜深の問いかけには誰も答えない。当たり前だ、こんな森に誰がいるわけでもない。だから返事が返ってこないのは当然なのだ。
「僕さ、他人よりちょこーっとだけ夜目が利くんだよね。君、隠れてるつもりかもしれないけどバレバレだよ」
沈黙。辺りには雨音だけが響き渡る。
刹那。
世界が白く染まる。否、夜深を中心とし円状にライトで照らされたのだ。完全に包囲されており、その数は十を超えていた。
「眩しいな。止めてくれない?」
互いが睨み合い様子を探りあう。暫くの間沈黙が流れた。
「……」
ようやく照らされた光の向こうから、一人の人間が歩いてくる。闇から光へ、逆光に照らされてその輪郭を暴き出した。




